「意識と無意識」

番組担当の白石です。今日は視覚障害者に対する「意識と無意識」について最近感じたことを書きます。

私のことをロービジョン者と知っている人でも、ほとんどの人は四六時中そのことを意識していません。
なぜなら、私が見た目には普通に行動しているように見えることが多いからです。
誰かと一緒に行動していると、暗いところに入った瞬間や段差のあるところでは声掛けをしてくれます。
しかし、電車のベルが鳴り、まさに出発しようとしているときに、急に階段を駆け上ったりします。
段差のあるところで私は走ることがしづらいのですが、とっさの時には、一緒に行動している人は私の状態を忘れてしまいます。
様々な場面でそういうケースがあります。

それについて、不平を言っているわけではありません。逆の立場なら私も間違いなくそうでしょう。

例えば松葉杖をついている人と一緒なら、階段を駆け上がったりは誰しも絶対にしないと思います。
それは杖をついている姿が四六時中見えているから、「この人は足が不自由」ということを常に意識しているからです。

先日のクリスマスイブに10歳の娘と二人で横浜のクリスマスマーケットに行きました。
ものすごい人でした、暗い中で大勢の人の往来・・・。晴眼者でも歩くのは苦労すると思います。
私も大変でしたが、娘のサポートで楽しいクリスマスを過ごすことができました。

娘は物心ついた時から、父親は目が悪いことを知っているし、父親は「何が見えづらくて何はまだ見える」ということが、無意識に刷り込まれています。
つまり、松葉杖を持っている人と一緒にいるような状態で、毎日私に接してくれているのだと思います。
仲のいい知り合いや、ましてや妻でさえも私の目の状態を忘れてしまう瞬間があります。
ただし、娘は「父親が目が不自由な人」というのが大前提であるため、私のサポートは誰よりも適格です。
むしろ私が、「ベイブリッジ綺麗だね」と言ったとき、「あれは見えるの?」と即座に聞いてきて、その後も「あれは見えるんだ」とつぶやいていました。
彼女にとって、その距離は見えていないはずと常に思っていたからこそ、驚いてとっさの質問になったのでしょう。
(なぜ見えたかも理由はあるのですが、またの機会にします。)

今日の趣旨は、「こうしてほしい」ということではなく、「意識」してすることと「無意識」でできることの違いを感じたので、それを投稿させていただきました。