「日視連会長、全盲の弁護士 竹下義樹氏の足跡」③
「日視連会長、全盲の弁護士 竹下義樹氏の足跡」③
番組担当の塚本です。1973年2月、法務省からの点字受験を求めるとの回答を受けて、その年の春、大学2年生で竹下氏は初の司法試験受験に挑みます。しかしその時、初の点字受験が認められたとは言え、試験問題の点字は誤字、脱字が多く、全盲の竹下氏が問題を解くには大きなハンデとなっていました。初めての挑戦では不合格になったものの、その後も多くのボランテイアが、竹下氏の受験勉強を支えてくれました。勉強と平行して、全盲の受験者に対する試験時間の延長など、受験環境の改善の運動にも取り組み、1975年2月には、竹下氏は衆議院予算委員会で参考人として発言の場を与えられ、点字受験の受験生が健常の受験生と同じ条件で試験を受けられるような配慮が必要なことを強く訴え、その模様は当時のメデイアにも大きく報じられました。
そして1975年からは、点字受験者に対する試験時間の延長、点字六法による受験などの配慮がなされます。竹下氏は毎年、受験を続けたものの、一次の短答式試験で不合格が続きました。当時、司法試験の合格者の平均の勉強時間は週に50時間と言われていましたが、竹下氏は生活費を稼ぐためのマッサージのアルバイトで、週30時間の勉強時間の確保が精一杯だったということです。長男、長女が誕生し二児の父親となった後も、司法試験へのチャレンジは続き、1981年、9回目のチャレンジで、日本初の全盲の合格者となりました。竹下氏はその時30歳を迎えていました。
竹下氏は、その時、こんな決意を明らかにしています。
「ワシは障害者の手足たる弁護士になるんや。障害者が絡む問題は、健常者の裁判官や弁護士が法律で簡単に割り切れるものばかりやないはずや。障害者の自分だからこそ、問題の本質が理解できるハズや」
番組担当の塚本です。1973年2月、法務省からの点字受験を求めるとの回答を受けて、その年の春、大学2年生で竹下氏は初の司法試験受験に挑みます。しかしその時、初の点字受験が認められたとは言え、試験問題の点字は誤字、脱字が多く、全盲の竹下氏が問題を解くには大きなハンデとなっていました。初めての挑戦では不合格になったものの、その後も多くのボランテイアが、竹下氏の受験勉強を支えてくれました。勉強と平行して、全盲の受験者に対する試験時間の延長など、受験環境の改善の運動にも取り組み、1975年2月には、竹下氏は衆議院予算委員会で参考人として発言の場を与えられ、点字受験の受験生が健常の受験生と同じ条件で試験を受けられるような配慮が必要なことを強く訴え、その模様は当時のメデイアにも大きく報じられました。
そして1975年からは、点字受験者に対する試験時間の延長、点字六法による受験などの配慮がなされます。竹下氏は毎年、受験を続けたものの、一次の短答式試験で不合格が続きました。当時、司法試験の合格者の平均の勉強時間は週に50時間と言われていましたが、竹下氏は生活費を稼ぐためのマッサージのアルバイトで、週30時間の勉強時間の確保が精一杯だったということです。長男、長女が誕生し二児の父親となった後も、司法試験へのチャレンジは続き、1981年、9回目のチャレンジで、日本初の全盲の合格者となりました。竹下氏はその時30歳を迎えていました。
竹下氏は、その時、こんな決意を明らかにしています。
「ワシは障害者の手足たる弁護士になるんや。障害者が絡む問題は、健常者の裁判官や弁護士が法律で簡単に割り切れるものばかりやないはずや。障害者の自分だからこそ、問題の本質が理解できるハズや」