「失明から50年 多くの人に支えられて」①

番組担当の塚本です。
視覚障害者の就労を支援する会「タートル」は、今年結成30年を迎え、先月機関誌タートル第66号が発行されました。
その中で、社会福祉法人「日本盲人福祉委員会」常務理事の指田忠司さんの講演記録が掲載されていましたので、その内容を紹介します。
指田さんは1953年生まれの今年72歳。1968年に失明しました。
それまでは右目は見えなかったものの、左目は0.4ぐらいの視力がありましたが、高校時代に不慮の事故で、左目も失明するに至りました。
その後、1年半ほどの入院生活を送ったあと、現在の筑波大学付属視覚特別支援学校という盲学校の高等部に入学します。
その当時の一番の励みは、点字を使って、毎日3~4ページの日記をつける事だったそうです。
また、盲学校在学中に、日本の視覚障害者についてもっと知ってもらいたいとの思いから、仲間を募って活動し、「おれたちの声」という冊子を作って各方面に配布したことなどが、青春時代の思い出として残っているそうです。
盲学校卒業後は、大学進学を目指しますが、視覚障害者を受け入れてくれる大学は、まだまだ少なく、関東地方で受け入れを表明してくれた大学は僅かに2校だけでした。
そのうちの一つ、早稲田大学に点字受験の合格者の第一号として、指田さんは入学しました。
入学後、指田さんは、日本盲大学生会という団体に入り、視覚障害者に大学が門戸を開放するよう呼びかける活動を展開します。
その活動の一環として、文部大臣にも請願書を送ったところ、当時、三木内閣の文部大臣だった永井道雄文部大臣から、「会って話しを聞こう」との連絡をもらい、文部大臣に直接、自分たちの思いを伝える機会を得ました。
その後、永井文部大臣は、指田さんらの陳情を受けて、様々に配慮する施策を採ってくれたそうです。
視覚障害者の就労を支援する会「タートル」は、今年結成30年を迎え、先月機関誌タートル第66号が発行されました。
その中で、社会福祉法人「日本盲人福祉委員会」常務理事の指田忠司さんの講演記録が掲載されていましたので、その内容を紹介します。
指田さんは1953年生まれの今年72歳。1968年に失明しました。
それまでは右目は見えなかったものの、左目は0.4ぐらいの視力がありましたが、高校時代に不慮の事故で、左目も失明するに至りました。
その後、1年半ほどの入院生活を送ったあと、現在の筑波大学付属視覚特別支援学校という盲学校の高等部に入学します。
その当時の一番の励みは、点字を使って、毎日3~4ページの日記をつける事だったそうです。
また、盲学校在学中に、日本の視覚障害者についてもっと知ってもらいたいとの思いから、仲間を募って活動し、「おれたちの声」という冊子を作って各方面に配布したことなどが、青春時代の思い出として残っているそうです。
盲学校卒業後は、大学進学を目指しますが、視覚障害者を受け入れてくれる大学は、まだまだ少なく、関東地方で受け入れを表明してくれた大学は僅かに2校だけでした。
そのうちの一つ、早稲田大学に点字受験の合格者の第一号として、指田さんは入学しました。
入学後、指田さんは、日本盲大学生会という団体に入り、視覚障害者に大学が門戸を開放するよう呼びかける活動を展開します。
その活動の一環として、文部大臣にも請願書を送ったところ、当時、三木内閣の文部大臣だった永井道雄文部大臣から、「会って話しを聞こう」との連絡をもらい、文部大臣に直接、自分たちの思いを伝える機会を得ました。
その後、永井文部大臣は、指田さんらの陳情を受けて、様々に配慮する施策を採ってくれたそうです。