「特番Vol.5に寄せられたメッセージ②」
![](https://joqr.co.jp/lp/lowvision/wp/wp-content/uploads/2023/09/1200-750.jpg)
番組担当の目黒です。
本日も昨日に引き続き、2024年9月23日(月・祝)11時00分より放送された特別番組『知っていますか?ロービジョン~0と1の間Vol.5』に寄せられたメッセージを一部ご紹介いたします。
ご紹介するのは、網膜色素変性症という進行性の難病で、30代でロービジョンとなり、50代でほぼ全盲となったという方からのメッセージです。
一部引用させていただきます。
私はほぼ全盲になってから10年以上が経過し今では「見ない文化」の中で暮しています。
仕事は以前務めていた会社を退職し、鍼灸・マッサージの治療院を始めました。この仕事をやるようになって、私にとってはこの仕事は天職だと感じています。
見えなくなったらできなくなる、と思っていたことの大半も現代のIT技術の進歩によって不便さが減ってゆくのを感じています。
そして外出には歩行のパートナーである盲導犬がいるので、電車に乗って出かけたり、旅行も楽しめるようになりました。
私は盲導犬と暮せるようになったことだけでも、「見ない文化」で暮すことの喜びを感じています。
さらに私が見えなくなってから気づいたことは、視覚を失うことによって見えて居た時とは違う世界が見えるようになった、ということです。
人も他の生物も、誰でも無限に広がる世界の一部しか認識することはできません。
そんな自分が見ている世界のことを「環世界」と言いますが、誰でも自分の脳が感覚の情報を編集して作った自分だけの「環世界」を見ています。
「見る文化」に属している人は、「自分に見えている世界が世界の全体だ」と思い込みがちですが、それは大多数の人が世界のほぼ同じ場所にスポットライトを当てているから、誰もが共通で唯一の世界を見ている、と錯覚しているに過ぎません。
私は見えなくなってしばらくしてから、(中略)いわゆる「気」とか「エネルギー」と呼ばれるものをふつうの人が光や音を感じるのと同じように感じるようになりました。
そしてこのことは私の鍼灸・マッサージという仕事にとても役に立っています。
これは別に特殊な感覚ではなく、私の脳の地図が書き換わって、「見る文化」の人とは違うパターンで編集された、ということに過ぎません。
私は脳が世界を編集するパターンの多様性について、もっと多くの人が認識すると良いな、と思っています。
マジョリティである「見る文化」は、脳の中の感覚情報の編集の一つのパターンに過ぎず、違う編集のパターンによって世界の見え方はずっと多様な可能性があること、障害者の知覚している世界は単に何かが欠落している状態ではなく、時には「見える人にはみえないもの」が見えることについて知られるようになれば、障害者に対する誤解や偏見がもう少し減り、健常者と障害者という存在を、「持つ人と持たざる人」という上下関係としての視点ではなく、違う文化を持つ横並びの存在としての視点を持つことになると思うからです。
これからもこの番組が、生活や仕事の面で悩みを抱える方々の支えになることを願っております。
それぞれの「環世界」とは、そもそも多様なものであると思います。
”健常者と障害者という存在を、「持つ人と持たざる人」という上下関係としての視点ではなく、違う文化を持つ横並びの存在として”認識するということ。
それは、違う文化を持つ者同士が、それぞれの「環世界」について想像し、協働し合う関係を築くということだと思います。
自分が生きている「環世界」も、隣の人が生きている「環世界」も、どこまでも固有で、かけがえのないものではないでしょうか。
本日も昨日に引き続き、2024年9月23日(月・祝)11時00分より放送された特別番組『知っていますか?ロービジョン~0と1の間Vol.5』に寄せられたメッセージを一部ご紹介いたします。
ご紹介するのは、網膜色素変性症という進行性の難病で、30代でロービジョンとなり、50代でほぼ全盲となったという方からのメッセージです。
一部引用させていただきます。
私はほぼ全盲になってから10年以上が経過し今では「見ない文化」の中で暮しています。
仕事は以前務めていた会社を退職し、鍼灸・マッサージの治療院を始めました。この仕事をやるようになって、私にとってはこの仕事は天職だと感じています。
見えなくなったらできなくなる、と思っていたことの大半も現代のIT技術の進歩によって不便さが減ってゆくのを感じています。
そして外出には歩行のパートナーである盲導犬がいるので、電車に乗って出かけたり、旅行も楽しめるようになりました。
私は盲導犬と暮せるようになったことだけでも、「見ない文化」で暮すことの喜びを感じています。
さらに私が見えなくなってから気づいたことは、視覚を失うことによって見えて居た時とは違う世界が見えるようになった、ということです。
人も他の生物も、誰でも無限に広がる世界の一部しか認識することはできません。
そんな自分が見ている世界のことを「環世界」と言いますが、誰でも自分の脳が感覚の情報を編集して作った自分だけの「環世界」を見ています。
「見る文化」に属している人は、「自分に見えている世界が世界の全体だ」と思い込みがちですが、それは大多数の人が世界のほぼ同じ場所にスポットライトを当てているから、誰もが共通で唯一の世界を見ている、と錯覚しているに過ぎません。
私は見えなくなってしばらくしてから、(中略)いわゆる「気」とか「エネルギー」と呼ばれるものをふつうの人が光や音を感じるのと同じように感じるようになりました。
そしてこのことは私の鍼灸・マッサージという仕事にとても役に立っています。
これは別に特殊な感覚ではなく、私の脳の地図が書き換わって、「見る文化」の人とは違うパターンで編集された、ということに過ぎません。
私は脳が世界を編集するパターンの多様性について、もっと多くの人が認識すると良いな、と思っています。
マジョリティである「見る文化」は、脳の中の感覚情報の編集の一つのパターンに過ぎず、違う編集のパターンによって世界の見え方はずっと多様な可能性があること、障害者の知覚している世界は単に何かが欠落している状態ではなく、時には「見える人にはみえないもの」が見えることについて知られるようになれば、障害者に対する誤解や偏見がもう少し減り、健常者と障害者という存在を、「持つ人と持たざる人」という上下関係としての視点ではなく、違う文化を持つ横並びの存在としての視点を持つことになると思うからです。
これからもこの番組が、生活や仕事の面で悩みを抱える方々の支えになることを願っております。
それぞれの「環世界」とは、そもそも多様なものであると思います。
”健常者と障害者という存在を、「持つ人と持たざる人」という上下関係としての視点ではなく、違う文化を持つ横並びの存在として”認識するということ。
それは、違う文化を持つ者同士が、それぞれの「環世界」について想像し、協働し合う関係を築くということだと思います。
自分が生きている「環世界」も、隣の人が生きている「環世界」も、どこまでも固有で、かけがえのないものではないでしょうか。