アナ歴40年!野村邦丸が様々なエピソードを語る連載企画㊵
【野村邦丸 ワタシの履歴書 ~アナウンサー歴40年記念特別連載企画~】
『第40回 そして番組は東北に通い始めた』
ラジオは日常。異常になっちゃいけない…
そんな思いを抱いて、東日本大震災の後もずっと
「くにまるジャパン」では「ゆるーい」放送が
続いていました。
私が現地を最初に訪れたのは、
4か月ほど経った後の2011年7月でした。
阪神淡路の時は社命でもあったので、
すぐ現地に入りましたが、
東日本大震災の時は、なぜだか、
気軽に出かけちゃいけないような気がして…。
夏休みを利用して、私は初めて震災後の
東北に出かけました。
行先は石巻。
以前、渡波(わたのは)小学校というところに、
リスナーさんが、ボランティアで野菜を
運んでいます…というメッセージをお寄せ
くださっていたのが気になっていて、
連絡を取って「俺、渡波行くわ…」と
お願いしたのです。
そこで、被災された方々に話を聞いたのが、
初めての取材といえば取材でした。
その時印象的だったのが、ボランティアの皆さんが
「一服しましょう」とスイカを振る舞って
くださったことがありました。
私は短パンにリュックという、
ほとんど遊びに来たようなカッコをしておりまして…
スイカを配っていた方が、そんな私にまで手渡そうと
するので「東京からきているラジオの人間なので、
いいですよ…」と、お断りしようとしたところ、
「被災していようが、ラジオの取材だろうが、
ここにいる人の渇きを潤すことには変わりないから」
ってスイカをくれて。
ああ、取材の人だったらいいですね、
ってコトにはならないんです。
こっちはちょっと、被災した人たちに対して
後ろめたいところがあるから気が引けるでしょう。
そしたら、追い打ちをかけるように
「この後、炊き出しがあるから、それまでいなさいよ」って。
さすがにメシまでは遠慮しましたが…。
そのとき、阪神淡路の取材に行ったとき、
やっぱり避難所にいたお年寄りのグループが
「冷たいけど」って、救援物資の凍ったおにぎりを
ふるまってくれたことを思い出しました。
被災するって、そしてボランティアに出かけるって、
どういうことなんだろうって、考えさせられましたね。
それをきっかけに、私も何かのスイッチが入った
ように思います。
番組として石巻、気仙沼、女川を中心に、
何度も何度も東北にお邪魔するようになったんです。
忘れられない出会いがたくさんありました。
気仙沼の復興屋台村で出会ったサッちゃん、菊池幸江さん。
どの店に入ろうかな、とウロウロしていたら、
我々のマイクを見て「JOQR? ♪セイ・ヤーング~」って、
人懐こく話しかけてくれて。
復興屋台村は、2011年11月25日に気仙沼で
一番早くオープンした、港のすぐ脇にある
仮設飲食店街。
ボランティアや観光客、そして私たち取材に
訪れた者たちの交流の場として大きな役割を
果たしてくれた場所でした。
当時そこでやっていたお店「大漁丸」に
お邪魔したのが運のつき(?)、
それ以来何度も出かけるようになり、
今では親戚のようなお付き合いに。
もう取材ではなく、ある意味、帰省する感じ。
絆がこんなに太くなるとはなあ…と、
自分でも驚いているというところです。
番組にも折に触れ顔を出してくれているサッちゃん、
また行くからね!
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野村邦丸:1957年1月17日生まれ。川崎生まれ、
日大明誠高校・日大法学部新聞学科を経て
1981年茨城放送入社。
フリーを経て1991年文化放送入社。2017年定年退職、
再びフリーとなる。
「くにまるジャパン極」パーソナリティ。
家族・高校野球・シカゴ(ロックバンド)、
そして酒と肴をこよなく愛する。
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