創部4年で夏の甲子園を優勝した大阪桐蔭野球部の初代部長に聞く「最強チーム作りのポイント」とは?
今話題の一冊『日本一チームのつくり方: なぜ、大阪桐蔭は創部4年で全国制覇ができたのか?』をお書きになった森岡正晃さんが2月19日の『くにまる食堂』に登場。全く無名だった新設校の野球部を、どうやって日本一に導いたのか伺った。
邦丸「森岡さんは名門PL学園で野球部の主将をお勤めになって、これまた名門の近畿大学野球部にも在籍していたんですが、お体の調子は良くなかったそうですね」
森岡「腰痛がひどくて手術した方が良いということで、当時は「そこまでして野球やらんでええやろ」と医者に言われました」
邦丸「で、近大の学生コーチになった。PL学園時代の野球部監督が鶴岡泰さんという、南海ホークスの名監督、鶴岡一人さんの息子さんで、この鶴岡さんが大阪産業大高校の野球部を率いることになり、そこに「森岡もこいよ」ということになって、森岡さんは近大で教職を取って学校の先生になったわけですよね」
森岡「教職を取れって言われた時は2回生でしたので、2年間で教職を取るのは絶対無理な話でした。「無理です」って言ったら「無理かどうかわからんやろ、やれ!」って言われて。2年間、24時間、なんでこんな短いんだと思いました。」
邦丸「猛勉強ですよね。」
森岡「今まで何もやってなかったので(笑)卒業する時には、120単位で良かったのが170でしたね。取れましたって言ったら「よう取れたな」と言われました。(笑)」
邦丸「そして大阪産業大学の付属高校に赴任。そこには大東校舎というのがありました。これが現在の大阪桐蔭の始まりだそうですね。スポーツはもちろん勉強も頑張れるような、文武両道の学校にしようと、大阪桐蔭が独立。森岡さんは大阪桐蔭野球部の初代部長になるわけですよね」
森岡「今の部長、有友茂史先生が当時はコーチで、長沢和雄さんという監督さんが後で来られたっていう形でした」
邦丸「そんな新設校に選手を集めるといっても、当時の大阪ですからPLももちろんあるし、近大付属もあったり、上宮があったりとか、すごい学校がいっぱいある。その中で森岡正晃さんがやったことは?」
森岡「もうグランドへ行って見てるだけですよね。「どこ?」って言ってくれるまで待ってました。」
邦丸「じーっと見てるの?」
森岡「毎日来てるけど「誰?」って。「ください」言うてもくれないのは分かってましたので、もう大変でした。だから今の東洋大学の監督している井上大をどうしても欲しいということになったら、近くの中華料理屋さんまで行きました」
邦丸「井上選手の家の近くの中華料理屋に?」
森岡「絶対、来てるやろなと思って。(笑)ほんで中華料理屋さんが「よく来られますけど何されてるんですか?」って聞いてきて、「いやこれこれこうで…」「ああ、井上君でしょ、よく来られますよ」って言われたんで、しめたと思いました」
邦丸「しめたって言てもねえ。なんでオーケーになったんです?」
森岡「もう「先生がそこまで言うんだったら預けます」と。僕は甲子園に連れて行くとか、プロ野球選手にさしたるという言葉は一切出してないです。一緒に野球をやろうって。先ほどから部長って言ってもらってるんですけど、部長じゃなかったですね。1人の先輩のような気持で選手を勧誘してました。」
邦丸「そこで森岡さんの見るポイントっていうのがあるんですよね。」
森岡「やはり野球が上手い下手もそうですけども、この子が3年後、どういうふうに変わっていくだろうなあっていうのを思い描きながらスカウトしてました。それと、保護者がどんな方かなっていうのを見てお願いしましたね。」
邦丸「親御さんのどこを見るんですか?」
森岡「活発な親御さんはたくさんおるんですけれども、偉そうにされる方はちょっと僕は苦手でしたから避けました。(笑)ご縁って不思議なもので、1人の子が決まると「え、本当?」って言って、次々決まったのが、日本一になった時のチームです。」
このあとは、昔とは大きく変わった選手と指導者の関係について森岡さんの考えを伺います。トークの続きはradikoのタイムフリー機能でご確認ください。
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