第5スタジオは礼拝堂 第50章「その話は墓へ持っていく」

第5スタジオは礼拝堂 第50章「その話は墓へ持っていく」

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「プロローグ」はこちら

第1章:「それはチマッティ神父の買い物から始まった」はこちら

第2章:「マルチェリーノ、憧れの日本へ」はこちら

第3章:「コンテ・ヴェルデ号に乗って東洋へ」はこちら

第4章:「暴風雨の中を上海、そして日本へ」はこちら

第5章:「ひと月の旅の末、ついに神戸に着く」

第6章:「帝都の玄関口、東京駅に救世主が現れた」

第7章:「東京・三河島で迎えた夜」

第8章:「今すぐイタリアに帰りなさい」

第9章:「今すぐ教会を出ていきなさい」

第10章:「大森での新生活がスタートした」

第11章:「初めての信徒」

第12章:「紙の町で、神の教えを広めることに」

第13章:「戦争の足音が近づいてきた」

第14章:「ベロテロ、ニューヨークに向かう」

第15章:「印刷の責任者に」

第16章:「イタリアの政変で苦境に」

第17章:「警察官と一緒にNHKに出勤」

第18章:「裏口から入ってきた警察署長」

第19章:「王子から四谷へ〜マルチェリーノの逮捕」

第20回:「本格的な空襲が始まる」

第21回:「東京大空襲」

第22章:「修道院も印刷所も出版社も」

第23章:「終戦」

第24章:「焼け跡に立つ」

第25章:「横浜港で驚きの再会」

第26章:「四谷は瓦礫の山の中」

第27章:「民間放送局を作っても良い」

第28章:「社団法人セントポール放送協会」

第29章:「ザビエルの聖腕がやってきた!」

第30章:「映画封切りデーの勘違いが、運命を変えた」

第31章:「ついに帰化を決断し、丸瀬利能に」

第32章:「放送局の申し込みが殺到」

第33章:「勝ち抜くためのキーワードは、文化」

第34章:「そして最終決戦へ」

第35章:「放送局認可へ、徹夜会議が開かれる」

第36章:「局舎建設と人材集めの日々」

第37章:「マルチェリーノに猛烈抗議」

第38章:「スモウチュウケイガヤリタケレバスグニコイ」

第39章:「局舎が完成、試験電波の発信に成功」

第40章:「新ロマネスク様式の文化放送会館」

第41章:「開局前夜祭」

第42章:「四谷見附の交差点が最大の関所」

第43章:「格が違うと言われて燃えた男」

第44章:「S盤アワーの青い鳥は近くにいた」

第45章:「疲れ果て、足でQを振る」

第46章:「片道切符で大阪に向かう」

第47章:「内紛は続くよ、どこまでも」

第48章:「50kwへの増力と深夜放送の開始」

第49章:「財団法人から株式会社へ」

第50章:その話は墓へ持っていく

1956年2月14日(火)深夜0時を持って、財団法人日本文化放送協会は株式会社文化放送に改組され、本格的に商業放送としての第1歩を踏み出した。日本と言う国も大きく変わりつつあった。この年に流行した曲は、石原裕次郎の「狂った果実」、ペギー葉山の「ケ・セラ・セラ」などだ。戦後わずか10年余りしか経っていないが、時代を席巻していたのは太陽族。海の似合う青年、石原裕次郎が銀幕の中を奔放に暴れまわっていた。一億総玉砕の時代からわずか10年でこれほどまでに変わるのかと思わざるをえない。朝鮮特需などをきっかけにした神武景気の真っただ中。この間まで鬼畜米英と呼んでいたアメリカはすっかり憧れの国となり、海の向こうから押し寄せてくる洋楽という名の自由な空気を、皆が胸いっぱいに吸いこもうとしていた。

映画音楽とユア・ヒット・パレード

この年、ヒッチコック「知りすぎていた男」の主題歌、ドリス・デイの「ケ・セラ・セラ」が大ヒット。文化放送の人気番組「ユア・ヒット・パレード」の年間第4位を記録している。ヒットしたから「ユア・ヒット・パレード」でランキング入りしたというよりも、逆に「ユア・ヒット・パレード」で放送されたからこそ曲が売れて映画もヒットするという現象が作られつつあった。明るい声の田中マリ子アナと、2年後輩でおっとりした語り口の茂木幹弘アナのバランスも良く、名コンビと呼ばれるようになった「ユア・ヒット・パレード」は、前年の1955年10月にスタート。主に映画音楽をかけることや、BGMに曲紹介を乗せたり映画のストーリー説明を抒情的に行うなど様々な工夫を凝らし、瞬く間に人気番組となっていた。

茂木幹弘アナ(左)と田中マリ子アナ(右)

特に秀逸なアイデアだったのは、劇中の音を録音して番組で放送したことだ。例えば西部劇の「シェーン」という有名な映画があるが、サントラのレコードを聴いても、ただ挿入曲が流れているだけだが、「ユア・ヒット・パレード」を聴くと、映画のラストシーンで馬にまたがりワイオミングの山に去ってゆくアラン・ラッド演じるシェーンの背中に、ジョーイ少年が叫ぶ「シェーン!カムバック!」というあまりにも有名なあのセリフを聴くことができる。なぜかと言えば映画の音をそのまま録音したから。映画会社の協力のもとに行い、スタッフはオープンリールのテープレコーダー(デンスケ)を試写室に持ち込んで、一所懸命マイクをスピーカーに向けて録音した。人々は映画のポスターと「ユア・ヒット・パレード」で流れる映画音楽、映画のワンシーンを脳内でブレンドし、華やかな世界への想像に胸を膨らませて映画館に足を運んだ。番組スタート当初は「ラジオで紹介しても映画のヒットには結びつかない」と斜に構えていた映画関係者たちだったが、すぐに「ユア・ヒット・パレード」の影響力に驚くこととなった。「S盤アワー」に続きこの番組を立ち上げたのは日本ビクターのプロデューサー小藤武門だったが、映画会社の引きが強すぎて、一日中、映画会社の求めに応じて試写会を駆けずり回ることとなった。番組収録には全くと言って良いほど立ち会えなくなったのだ。「S盤アワー」はビクター製作のいわば外様的な番組であった。しかしこの「ユア・ヒット・パレード」は、映画会社との渉外担当は小藤が務めていたが、番組そのものはS盤アワーも担当している文化放送の名物ディレクター、大塚三仁(通称マロさん)が主として指揮を執る身内の番組と言えた。しゃべりの担当は2人とも自局アナで、社内オーディションで選抜したのだという。

昨日までの苦労がウソのように、神武景気にも乗って「ケ・セラ・セラ(なるようになる)」の精神で、文化放送の財務状況は回復していった。とは言ってもある日突然改善したわけではない。地道な働きかけを続けてようやく開局2年後に出力が5倍にアップしラジオ東京に並んだことを「ホップ」とすれば、生みの苦しみの中で財団法人から株式会社に改組し水野成夫が新社長に就任したことが「ステップ」。このような様々条件が整った上で、「S盤アワー」「ユア・ヒット・パレード」「素人ジャズのど自慢」「平凡アワー」などに続けとばかり、数多くの人気番組が生まれていったことが、大きな「ジャンプ」になったと言える。

そこには運も大きく寄与した。「S盤アワー」スタートから丸4年が経とうとしていた1956年1月に、S盤レーベルのRCAレコードからエルヴィス・プレスリーという希代のスターがデビューしたのだ。日本のベテラン音楽関係者には、若かりし頃「S盤アワー」でエルヴィス・プレスリーの存在を知り、音楽の世界に飛び込んできたという歌手や音楽評論家たちが多い。とても誇らしいことだと思う。エルヴィスは今まで聴いたことの無いグルーブ感溢れるロックンロールを奏でる(シャウトする)時代の申し子であった。そのエルヴィスを日本で真っ先に紹介していったのが文化放送の「S盤アワー」であった。「S盤アワー」は、アメリカから直接マスターテープを空輸して放送していたので、レコード針の邪魔な音も入らない。これもまた画期的なことだった。約1年遅れでラジオ東京にコロンビアのレコードをかける「L盤アワー」がスタートし、その後ニッポン放送にはポリドールの曲をかける「P盤アワー」が誕生。各社がしのぎを削ることになった。

このように少しずつ元気になっていった文化放送だが、実はこの時期の資料は乏しい。特に開局から1956年に至る時期の資料については極端に少ないのだ。上智大学在学中に学士論文として文化放送の歴史をまとめた聖パウロ女子修道会仙台修道院の長谷川シスターによると、株式会社になった際に、新社長の水野成夫の指示で古い資料はほとんど燃やされたのだそうだ。それだけを聞くと水野を非難したくなるが、彼にも相当の覚悟があったのだと思う。社内の軋轢で経営陣も社員たちも疲弊しきっていた。この4年間の暗闘を黒歴史として忘れ去り、明るい新たな文化放送を一丸となって作ろうではないかという思いがあったのだろう。株式会社になった日に「今日からが本当の文化放送の始まりだ」と号令をかけたとも伝えられている。

懐かしき初期の時代

ただ、私には最初の4年間がどうしても暗い歴史だとは思えない。確かにお金は無かったし、外からの圧力もあって苦労は多かったと聞く。しかし、皆で苦労を分かち合いながら(特に現場スタッフは)、懸命にヒット番組を作った。効果音を作る際に小豆を買いすぎて、皆でお汁粉を作って食べたなどのエピソードはとても温かいもので、そのような苦労話も大切な歴史だと思う。現場の皆助け合う土壌があったからこそ、株式会社になってから一気に飛躍することができたのだと信じる。その後、本格的にテレビ時代が到来し、ラジオ局は再びピンチに見舞われるものの、その時にも再び「お金をかけず、シンプルに自由にしゃべりまくろう」というコンセプトを立てたのも文化放送だった。スポーツアナウンサーとして入社したものの視力が悪く挫折した平川巌彦(ひらかわよしひこ)アナに土居まさるという「芸名」を付けて異色のアナウンサーとして売り出したのだ。土居は「私とあなた」と言う呼び方を「僕と君」に変え、若者たちを惹きつけていった。彼を追うように社内でも他局でも自由に喋る局アナたちが活躍し始め、深夜放送がラジオを蘇らせていった。文化放送の歴史にとっては、この土居まさるや落合恵子、みのもんたらの局アナ時代到来が第3幕と言える。それは株式会社改組から約10年後に起きた現象だった。陳腐な言い方だが、「ピンチをチャンスに変える」ことの大事さ、しかもそれをユーモアを忘れず培っていった精神が文化放送にあるとすれば、それはマルチェリーノの目指した精神そのものであると思う。

ところで長谷川シスター(当時は上智大学の学生でアスピラント)は、資料が乏しい中、当時を知る人たちの聞き込みを徹底的に行った。半世紀前は、ほとんどの関係者は存命中で、彼らから貴重で生々しい話を聞くことができた。長谷川シスターは、文化放送初代会長の澤田節蔵や編成局だった小林珍雄(よしお)、さらに当時在職していた清水えみ子さんという社員らに聴き取りを行っている。中でも元社員の中山喬氏は個人的に詳細なメモを残していたそうだ。そう言った長谷川シスターによる関係者への聞き取りや集めた資料によって、今こうして詳細な史実を書き残すことができる。長谷川シスターは、聖パウロ女子修道会に入った後、上智大学の新聞学科に進学。論文作成時には「なぜカトリックが放送局を作ったのか」「なぜ苦労した結果、手を引かざるを得なかったのか」という素朴な疑問を解き明かすべく様々な人にインタビューをしたそうだ。

私が長谷川シスターに見せて頂いた当時のメモには、澤田会長とマルチェリーノ監事が退任して、徳川会長とパガニーニ監事が就任したと書いてある。澤田氏は多忙による辞任(東京外大の学長も務めていた)だが、マルチェリーノは内部の反対によるものだったとも書き記してある。長谷川シスターは、1972年の論文作成時に、一連の出来事をマルチェリーノ自身がどう振り返るのか興味を持った。そこで、来日中だったマルチェリーノ自身に話を聞きに行ったのだったが、得られたものは少なかった。

長谷川「お会いした際に『文化放送を作った時の話を聞きたい』とお願いしたのですが、マルチェリーノ神父からは『その話は墓に持っていく』と言われました。そこでパガニーニ神父にもお尋ねしましたが、やはり『話したくありません』と言われたのです。それぞれがいろいろな思いを持っていたのだと思います」 なぜ、2人は文化放送について話さなかったのだろうか・

長谷川「私が想像するのは、文化放送のことを話すと悪口になってしまったからだと思います。人を傷つけたくなかったからだと思います」

何とも切ない。思い切り悪口を言ってくれた方がまだ楽な気すらするが、どのような思いでいたのかは、今は想像するしかない。「もはや戦後ではない」と言う言葉に象徴される1956年。戦後の終わりとともに、日本文化放送協会の名前も消えた。すでにマルチェリーノは日本を去り、放送現場で汗を流したアスピラントたちも修道女養成の世界へと戻っていった。

実は大瀧玲子シスターは、それよりもずっと早く、文化放送を卒業していた。それは文化放送と修道会の関わりなどは全く関係無く、シスターになるための養成期間を迎えたからだ(当時はアスピラント)。開局から1年後、1953年の春に文化放送を離れると、その年の夏にはイタリア・ローマの本部に赴任した。

大瀧「私がローマに渡ったのは、24歳の時でした。文化放送にいる間は、ずっと番組制作者としての仕事を続けていましたから、それまで担当していた仕事を誰かにバトンタッチして、イタリアに渡りました。寂しさは無かったですよ。いろいろなことをやりましたから。文化放送に入る前も、記録映画の撮影係をやりましたし、阿佐ヶ谷駅前にあったオデオン座という小さな映画館を借り切って『アリの町のマリア』の上映会も行いました。その後は、文化放送に移り番組制作を経験しました。どんどん新しいことをやり続けましたから、今やっていることを辞めて次のことをやるというのは全然寂しくなかった。『あ、そうですか。わかりました』と言う感じでした(笑)」

大瀧シスターは、1958年までローマにいて、その間、文化放送で何が起きているかなどは全く知らなかった。そして久しぶりに日本に戻ってきた時に、修道会のメンバー全員が文化放送から離れたと聞かされて驚いたのだという。大瀧シスターは、ローマで創立者アルベリオーネ神父の研究を続け、日本に帰国後もアルベリオーネ神父の著作を日本語に翻訳するなどの仕事をしてきた。また信徒を集めて「心の旅」という集いを開き、様々なテーマで人に語りかけるという活動を続けてきた。そんな大瀧シスターが文化放送時代に学んだものは何だったのだろうか?

大瀧「制作していたリスナーからのお手紙を紹介する番組『私たちの生活から』で学んだことは、今行っている活動と無関係ではありません。人はものを書くなどすると、必ず自分の深いところに触れるのだということを、今回の取材を受けるにあたって改めて思いました。ラジオプロデューサーだったことと、宗教者としての活動は繋がっているんだなと思います。私は、映画を作ることから始まって、ラジオの制作をして、ローマに渡り翻訳活動をしました。そして帰国後は、「心の旅」で人に話をする機会を頂いた。そうやってずっと繋がっているんだなと思います。番組「私たちの生活から」を思い出すと、人の心に訴える作文はこういうものだったなと今振り返るとわかるのです。良い土を肥やすというか、知らないうちに豊かな土地にして頂いたと思いです」

大瀧シスターは、文化放送でリスナーから届く葉書をアナウンサーたちが読む番組を担当したことで、「聴くための文章」の大事さを学んだのだという。

大瀧「『人が聴くための文章』を書くことは今でも大事ですから。文化放送を離れてずいぶんと経つますが、とても貴重な体験でした。思えば文化放送が始まらなかったら、今、私はここにいないんです。友達が映画の封切り日を間違っちゃって「ダメじゃない」と別れなかったら、電車で修道会のアメリカ人のシスターたちには出会っていないのです。文化放送の定礎式がその日無かったら彼女たちもその電車には乗っていませんでした。つまり文化放送が無かったら、今私はここにいないんですよ。世の中の出来事は皆そんな風になっているんだと思います。運命とは不思議ですね。でも為さる方は「あちら」なので(笑)。本当にそう思いますね」

「あちら」と言って、大瀧シスターは天の方を指した。

2017年にインタビューした時の写真。笑顔の素敵な大瀧シスターは今も活躍中だ

ちなみに創立者のヤコブ・アルベリオーネ神父は、大瀧シスターがローマにいた当時は健在だったが、1971年に87歳で帰天した。臨終の直前には、教皇ヨハネ・パウロ6世の訪問を受け、2003年に列福されている。列福とは聖人に次ぐ福者の地位に上げられることだ。それは、イタリア北部の田舎町アルバで1914年に活動を始めてから約90年後のことだった。なお日本においては、2017年にキリシタン大名の高山右近の列福式が行われ、大きなニュースになったことを記憶している方もいると思うが、カトリックの世界では大変名誉なことだ。ちなみに高山右近の列福式は、聖パウロ会がYouTubeで世界に 配信した。大瀧シスターらの進取の精神は、70年後も受け継がれている。

次回(最終回)に続く

 

 

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