第5スタジオは礼拝堂 第43章「格が違うと言われて燃えた男」
「プロローグ」はこちら
第1章:「それはチマッティ神父の買い物から始まった」はこちら
第2章:「マルチェリーノ、憧れの日本へ」はこちら
第3章:「コンテ・ヴェルデ号に乗って東洋へ」はこちら
第4章:「暴風雨の中を上海、そして日本へ」はこちら
第5章:「ひと月の旅の末、ついに神戸に着く」
第6章:「帝都の玄関口、東京駅に救世主が現れた」
第7章:「東京・三河島で迎えた夜」
第8章:「今すぐイタリアに帰りなさい」
第9章:「今すぐ教会を出ていきなさい」
第10章:「大森での新生活がスタートした」
第11章:「初めての信徒」
第12章:「紙の町で、神の教えを広めることに」
第13章:「戦争の足音が近づいてきた」
第14章:「ベロテロ、ニューヨークに向かう」
第15章:「印刷の責任者に」
第16章:「イタリアの政変で苦境に」
第17章:「警察官と一緒にNHKに出勤」
第18章:「裏口から入ってきた警察署長」
第19章:「王子から四谷へ〜マルチェリーノの逮捕」
第20回:「本格的な空襲が始まる」
第21回:「東京大空襲」
第22章:「修道院も印刷所も出版社も」
第23章:「終戦」
第24章:「焼け跡に立つ」
第25章:「横浜港で驚きの再会」
第26章:「四谷は瓦礫の山の中」
第27章:「民間放送局を作っても良い」
第28章:「社団法人セントポール放送協会」
第29章:「ザビエルの聖腕がやってきた!」
第30章:「映画封切りデーの勘違いが、運命を変えた」
第31章:「ついに帰化を決断し、丸瀬利能に」
第32章:「放送局の申し込みが殺到」
第33章:「勝ち抜くためのキーワードは、文化」
第34章:「そして最終決戦へ」
第35章:「放送局認可へ、徹夜会議が開かれる」
第36章:「局舎建設と人材集めの日々」
第37章:「マルチェリーノに猛烈抗議」
第38章:「スモウチュウケイガヤリタケレバスグニコイ」
第39章:「局舎が完成、試験電波の発信に成功」
第40章:「新ロマネスク様式の文化放送会館」
第41章:「開局前夜祭」
第42章:「四谷見附の交差点が最大の関所」
第43章:格が違うと言われて燃えた男
1952年3月31日、文化放送は無事「財団法人文化放送協会」として開局を果たした。
初期のベリカード 周波数がまだ1310khz
1951年に民放ラジオの先頭を切ったのが、名古屋の中部日本放送と大阪の新日本放送(現在の毎日放送)で、その後朝日放送(大阪)、ラジオ九州(福岡、現在のRKB毎日放送)、京都放送(京都)、ラジオ東京(現在のTBS)、北海道放送(札幌)と続き文化放送は8番目だった。当時の東京地区のラジオ欄を見ると中部日本放送の名前がある。まだラジオのネットワークが確立されていなかった時代で、現在でも中日新聞東京本社として東京新聞があるように、中部日本放送もまた全国的な展開を考えていたようだ。ラジオ業界も混沌としていた。文化放送開局の翌日には神戸に神戸放送(現在のラジオ関西)が開局。その後も、仙台にラジオ仙台(現東北放送)、金沢に北陸文化放送(現北陸放送)と続いた。この北陸文化放送という社名で当時「文化」という単語がトレンドキーワードだったことが良くわかるが、リスナー向けの呼称は「ラジオ北陸」としていたので表立った形ではなかった。このように一連の民放AMラジオの開局ラッシュは東京五輪前年の1963年(茨城放送と栃木放送)まで続く。AMだけではなく文化放送開局の2年後には、日本短波放送(現在の日経ラジオ)も開局している。
早くもテレビ開局の動きが
じわりじわりと新局が全国で始まっていったわけだが、一方でテレビジョンという新たなメディアの動きも始まっていた。文化放送開局翌年の1953年2月にはNHKが東京テレビジョンという名前でテレビ放送を開始。夏には正力松太郎を社長とした民間テレビ第一号の日本テレビが開局した。実は文化放送も開局してすぐの1953年7月には早速テレビ免許を申請したのだが、周波数不足を理由に却下されている(5年後にニッポン放送と共同で富士テレビジョン、現在のフジテレビを設立)。つまり民放ラジオはスタートとほぼ時を同じくしてテレビとの競争も始まったと言えるが、1953年の1月に発売されたシャープ製の国産テレビ第一号は14インチで価格が14万円以上もした。この価格は当時の大卒初任給の約2年分に相当する額だったので庶民には手が届かなかった。ちなみに1953年のテレビ受信契約の数は7603。テレビの電波が届くエリアも狭く、VTRも導入されていないため全て生放送だった。外中継の技術も機動力もまだなく、つまりテレビという媒体で表現できることは限られていた。メディアとしての将来も未知数だった。その後テレビは日本テレビの設置した街頭テレビで、プロレス中継や野球中継で何千人という人だかりができるという社会現象を作ることに成功する。今でいうパブリックビューイングのような国民的娯楽装置だ。受信契約数も着実に増えていった。特にミッチーブームに湧いたご成婚パレードが起爆剤となり、受信契約数が爆発的に増えて、あっという間に100万台を突破するのだが、まだ1952年の段階ではベンチャー企業的要素が強かった。1957年に富士テレビジョンが開局した際にも、文化放送からの出向や転籍を拒んだ社員が多かった。一方で、転社は願ったりかなったりという社員もいた。後に作曲家として成功するすぎやまこういち氏は「ラジオは今後レコードをかけることが中心になるので、生のオーケストラの時代ではなくなる。これからも生オケ、生バンの世界でやっていくためにテレビに行こう」と判断したと言う。原和男アナウンサーはフジテレビが開局する前に退社し、日本テレビに移った。「相撲実況を続けたかったが、文化放送の相撲放送が終了してしまったので相撲実況を続けるためだった」と振り返った。その後の隆盛を考えると、テレビには行かないという判断をした社員が多くいたことに素朴な疑問を持つ人もいると思うが、当時の時代の空気に身を置いて考えてみないとわからないことでもあるし、前回紹介した伊藤満ディレクターのように「音の世界が好きだったので、行く気もなかったし行かなくて良かった」と迷いのなかった人もいる。要は十人十色、人それぞれの判断ということにつきるのだが、最近、テレビ局の若手アナウンサーたちが退社して、ネットメディア系の企業に移るケースが増えているのを見ると、歴史は繰り返しているのかなとも感じる。
時計の針を1952年の春に戻そう。当時は民放ラジオにもどのような道が開けるのか皆目予測できなかった。数年後には全部消えているかも知れないと考える人もいた。民放開設認可を受けた社の中では、福岡の久留米市に本拠を置いた「ラジオ西日本」が、発起人にブリヂストンなど大企業を連ねていたにも関わらず、西日本新聞の協力が得られず予備免許を返上している。文化放送協会にとっても他人事では無い。利益を追求しない財団法人であるという極めて特殊な事情に置かれ、開局後も経済的に逆風は続いていた。公序良俗を意識した番組作りは、歌詞の内容に問題と思われる表現が入っている歌は放送でかけないという流れを作った。後に「要注意歌謡曲指定制度」という放送局の自主基準となり「放送禁止歌」を設ける風潮にも繋がってゆくのだが、その原因のひとつは文化放送にあるといっても過言ではない。ただしマルチェリーノたちがそれを指示したわけではない。そもそも「要注意歌謡曲指定制度」という内規の制度が定められたのは1959年のことで、その時すでにマルチェリーノは文化放送を離れている。そもそもは聖職者がキリスト教の精神に基づく放送局を作ろうとしたわけなので「堅物」なのは当たり前と言えば当たり前だった。一方、NHKでは作れなかった自由な番組を作ろうと張り切って入社してきた現場社員たちにとっては、ある意味「NHKよりも厳しい放送基準」に驚きを隠せず現場と経営の対立の火種となってゆく。
宮城道雄さんの収録中 隣にディレクターが立って指示を出す姿はほとんど映画の「ラヂオの時間」の風景だ
ここまで書いてくると、文化放送は「日本文化の向上をはかり、正義人道を貴重とした健全なる民主主義思想の普及をはかる」という崇高な理念を掲げての船出となった…と言いたいところだが、一方で本当にそうだったのだろうかという疑念も残る。前回触れた通り、開局初日からタンゴを演奏したり、「アジャパー」と叫ぶことで一斉を風靡した伴淳三郎さんを出演させているのが気になる。色々と「融通」を利かせていた節も見えるし、何よりも文化放送には初期から強烈な洋楽志向があった。当時の洋楽は十分不良の音楽だった(ちなみに不良の極致であるプレスリーがデビューしたのは翌年の1953年)。つまりは、表向きと本音の部分がない混ぜの状態だったと言えるのではないだろうか。考えてみれば、アメリカ帰りのイタリア人が集めたお金で、GHQの後押しもあって生まれた放送局だ。一方、在日米軍も終戦の翌月に早々とNHK東京放送会館の一部を接収してFEN(現在のAFN)の放送を始めていた。小林克也さんなど現在の日本を代表するDJの多くがこのFENの洗礼を浴びて洋楽への思いを深くしていったのは知られるところだ。そして文化放送にもFENを超える音楽ファンへの影響力を持つ洋楽番組が生まれることになる。
本題に入る前にまた余談を一つ。セントポール放送という名のキリスト教放送局を日本に誕生させるというマルチェリーノの夢はかなわなかったが、実はアメリカによる統治が続いていた沖縄では、その夢がプロテスタントの手によって実現している。1958年にアメリカのキリスト教系法人組織「極東放送」(Far East Broadcasting Company)がそのまま「極東放送」という名前の放送局を開設した。この極東放送は先述したようにプロテスタントの放送局。英語と日本語2カ国語による放送で、宗教音楽、クラシックなどを放送し、運営費用は法人資金や寄付金などで賄われたと言う。ある意味、当初マルチェリーノが目指そうとした形に近いものであったとも言える(後に沖縄が本土復帰を果たすと極東放送は民間放送に移行し、1984年にFM局に転換。FM沖縄として生まれ変わることになる)
アメリカの占領下において、日本人は敗戦のショックの中で、米兵たちとともに入ってきた洋楽という名の新しい風を胸いっぱいに喫いたいという好奇心も高まっていた。一方で、いくら興味を持っても肝心のレコードを手に入れることは至難の技だった。FENの聴こえる地域に住んでいないと洋楽に接することは容易ではない。進駐軍から流れてきた輸入盤を手にすることができた人はひと握りで、当時アメリカで売れていたナット・キング・コールもエイムズ・ブラザーズもハンク・ウイリアムスも名前は聞けども声は聴こえてこない都市伝説のような存在だった。しかし民間放送の開局で一気に状況が変わる。スイッチをひねるだけで欧米の音楽が流れてくるのだ。その思いは受け手だけではなく送り手側にとっても同じだった。そして夢を実現した人物は局の外側からやってきた。自分が見つけた音楽を一度に多くの人に届けるという夢の仕掛け箱を操る側に立ちたいと夢を膨らませたのは、ひとりのレコード会社の社員だった。男の名前は小藤武門氏(ことうたけと)という。
S盤アワーはなぜ誕生したのか
小藤は文化放送の社員ではなく、日本ビクター株式会社の社員で、この小藤が企画を持ち込んで制作も請け負い夢を形にしたのが「S盤アワー」というポピュラー音楽番組の走りとも言えるいわゆるDJ番組だった。立教大学出身者の方ならこの小藤武門という名前を別の形でご存じかもしれない。小藤は立教大学の応援団に所属していた在学中に応援歌である「行け 立教健児」という曲の作詞をしていて、今も立教生にとっては応援に必須の曲となっている。注目したいのは、この「行け 立教健児」の歌詞。
「見よや十字の旗かざす 立教健児の精鋭が 武蔵野原をいでゆけば 若き心の血は燃えて我等のゆく手に敵ぞなし 立教 セントポール おお我が母校」
立教の英語名はセントポールだ。マルチェリーノが念願した聖パウロの英語発音にあたるセントポール放送局との因縁を感じてしまう。そう言えば、後に文化放送で花形アナウンサーとして活躍する土居まさるさんやみのもんたさんも立教OB。他にも文化放送には立教出身者が多かった。
小藤は大学在学中に海軍予備学生となり終戦を迎えると復学した。就職では憧れの業界だった映画会社を目指したがうまく話が進まない。そこで立教の先輩である花形歌手の灰田勝彦を訪ね就職相談をした。戦前からスターとして君臨していた灰田は、戦後も「東京の空の下」「アルプスの牧場」「野球小僧」と大ヒットを連発し、飛ぶ鳥の勢いは衰えるところを知らず日本ビクター所属の大御所歌手だった。短気だが義理や人情に厚く「ハワイ生まれの江戸っ子」と呼ばれた灰田は、頼ってきた小藤を無下には扱わなかった。レコーディング作業の合間にビクターのディレクターを呼ぶと、小藤を自分の舎弟だと紹介。「なぜうちの会社は早稲田と慶応ばかりで立教がいないんだ?ここにいる小藤君は立教の応援団長だ。小藤君を会社にいれてくれ。入れてくれなかったら他のレコード会社に移るからね」と脅してみせた。当時の洋楽業界は日本コロンビアの天下。ビング・クロスビーの「ホワイトクリスマス」やザビア。クガード楽団の「べサメ・ムーチョ」など当時の日本人でも知っている主だった洋楽はほとんどアメリカのコロンビアレコード(CBS)と契約していた日本コロンビアから発売されていた。日本コロンビアと言う巨人の背中を追う日本ビクターにとって灰田は数少ないスターだった。慌てたディレクターは大至急社長に連絡を取る。そして小藤は、晴れて大歌手灰田勝彦の推薦と言う大コネを引っさげて、1948年に日本ビクター入社を果たす。ちなみに灰田勝彦は「野球小僧」を歌うほどの大の野球好き。南海から巨人に移籍した別所毅彦投手の親友だった。別所さんは後に文化放送の野球解説者となり長くご活躍頂いた。私も若いころ、野球中継の仕事で出張に行くと朝は別所さんと一緒にホテルでモーニングを食べるのが習慣だった。食べ終えると「じゃあ現場で会おうな」と行って軽やかに去ってゆく実に穏やかで世話好きな方だった。灰田のイメージが別所毅彦に重なる。
小藤に話を戻すと、晴れてビクターに入社をしたは良いが実社会は甘くは無かった。配属先は憧れの音楽ディレクターではなくラジオ企画部。挫折からスタートした小藤氏の社員生活だったが、応援団で鍛えた体力と気力で半ば強引にレコード部門への移動を果たすと、宣伝マンとして竹山逸郎の「異国の丘」や高峰秀子の「銀座カンカン娘」などの新曲宣伝に成功するなど実績を積んでゆく。しかしどれだけあがいてもガリバーにような存在のコロンビアを乗り越えることは容易ではない。小藤は新しくスタートする民放ラジオこそが逆転のチャンスになると考えた。しかし会社の出足は遅く、それに対してコロンビアの動きは早かった。小藤武門著「S盤アワー わが青春のポップス」(アドパックセンター刊)」には、当時の悔しい気持ちが綴られている。
「(コロンビアは)開局する民放には片っ端から番組をスタートさせ、これに莫大な宣伝費を投入していた。歌謡曲番組「コロンビアアワー」を中心にコロンビアのネットワークは次々と、全国津々浦々に広がっていた。キングレコードさえ、開局したラジオ東京に番組を作ったというのに、残念ながらビクターの対応は鈍い。われわれがいくら声を大にしても、『予算がない、ラジオは役に立たない』のひと言で、放送番組の計画は何度出しても却下された。」
小藤は、「せめてS盤によるラジオ番組だけは実現させたい」という思いを持ち、日本コロンビアと同様にラジオ東京に企画を持ち込んだ。この時点で小藤の頭に文化放送協会の名前は無い。1951年の暮れの時点で、ラジオ東京は開局していたが文化放送はまだ存在していなかったからだ。ちなみにS盤のSとはスペシャルのS。Sとは、ビクターのSP盤洋楽レーベルの略称だった。S盤の企画とは即ち「洋楽」の番組を意味していて、日本コロンビアの洋楽部門の総称「L盤(Limitedの略)」に対抗したネーミングだった。小藤が提出した企画は、制作も自分たちで行い、提供も「日本ビクター」として行うという丸抱え案。全てを自分たちでプロデュースするという言わば放送局の中に自分たちの放送局を持つような話だった。放送曜日や時間に関しても、「週の半ばの夜の時間帯」という指定をつけた。しかし、電通の担当者から伝えられたラジオ東京側の回答は非常に厳しいものだった。「ラジオ東京では、ゴールデンアワーのAタイム(午後7時~10時)では、レコード番組は放送しないことになっているそうです。いくら交渉してもダメなんです」小藤は思わず「えらい高姿勢だね」と答えた。しかし電通の担当者はラジオ東京側のさらに厳しい言葉を重ねた。「それに番組の制作は局が担当する、レコード会社には作らせないそうです」(出典:小藤著「S盤アワー わが青春のポップス」より) しかし小藤は引き下がらなかった。小藤はラジオ東京の本社に直接押しかけるという強行に出た。怪訝な面持ちで対応に現れたラジオ東京の営業担当者に小藤は疑問をぶつけた。「おかしいですよ。御社のコロンビアアワーはコロンビアさん自身が制作することになっているそうですね。どうしてコロンビアは良いのにビクターではダメなんですか?」 「コロンビアさんとビクターさんでは、会社の格が違います」 営業担当者は困った顔をしながら冷たく告げた。まさに門前払いだった。さすがの小藤も打ちひしがれた。放送局との交渉や社内での戦いに疲れ果て、万事休すかと覚悟を決めかけた矢先にチャンスは不意にやってきた。ラジオ東京のに門前払いを食らったわずか3日後に電通の担当者が小藤を訪ねてきた。「小藤さん、知ってますか? 3月に日本文化放送協会という放送局が東京に開局するらしいですよ。こっちを攻めてみませんか?」 小藤も一瞬嬉しい思いをしたが、聞けばラジオ東京の出力は50kwだが、この文化放送とやらの出力はわずか5分の1の10kwだという。たったの5分の1で、この開きはコロンビアとビクターの差よりずっと大きいものに感じられた。まるで滑り止めの学校に入学するような敗北感とでも言うのだろうか。だが、東京地区で最初のラジオ東京、2番目の文化放送に続く3番目の開局の話はこの時点では全く聞こえてこなかった(ニッポン放送の開局は2年後)。冷静に考えれば、悔しくてもこの新しい局にかけるしかないのだ。出力が少ないという事はおそらく広告費も安いだろう。となると社内の調整もし易くなるだろう。少し考えて小藤は覚悟を決めた。「宜しくお願いします。ぜひラジオ番組を持たせてください。ラジオ東京をあっと言わせて、世間をあっと言わせるような番組を作りたいのです」
年が明けて1952年1月中旬の寒い日のことだった。電通の担当者がコートの襟を立てて首をすくめ再び小藤に会いにやってきた。体は震わせていたが担当者は笑顔だった。「小藤さん、いい知らせですよ! 文化放送の岩本さん(当時の営業部長、後の社長)がオーケーしてくれました。小藤さんの条件を全部吞んでくれましたよ。しかも歌謡曲を紹介する『平凡アワー』が、ラジオ東京から文化放送に移ってくるので、平凡アワーと同じ日に並べてくれるそうです!」歌謡曲と洋楽を並べれば音楽好きの聴取者も増えるだろうことは容易に想像できた。
満額回答を超える担当者の報告に、小藤は思わず飛び上がって喜んだ。紆余曲折の末辿り着いた吉報。いよいよ本格的に動ける。まずは出演者選びだが、まだ小藤に腹案はなかった。
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Profile
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1964年、奈良県生まれ。関西学院大学卒業後、1988年、文化放送にアナウンサーとして入社。その後、報道記者、報道デスクとして現在に至る。趣味は映画鑑賞(映画ペンクラブ会員)。2013年「4つの空白~拉致事件から35年」で民間放送連盟賞優秀賞、2016年「探しています」で民間放送連盟賞最優秀賞、2020年「戦争はあった」で放送文化基金賞および民間放送連盟賞優秀賞。出演番組(過去を含む)「梶原しげるの本気でDONDON」「聖飢魔Ⅱの電波帝国」「激闘!SWSプロレス」「高木美保クロストゥユー」「玉川美沙ハピリー」「NEWS MASTERS TOKYO」「伊東四朗・吉田照美 親父熱愛」「田村淳のニュースクラブ」ほか