第5スタジオは礼拝堂 第39章「局舎が完成、試験電波の発信に成功」
「プロローグ」はこちら
第1章:「それはチマッティ神父の買い物から始まった」はこちら
第2章:「マルチェリーノ、憧れの日本へ」はこちら
第3章:「コンテ・ヴェルデ号に乗って東洋へ」はこちら
第4章:「暴風雨の中を上海、そして日本へ」はこちら
第5章:「ひと月の旅の末、ついに神戸に着く」
第6章:「帝都の玄関口、東京駅に救世主が現れた」
第7章:「東京・三河島で迎えた夜」
第8章:「今すぐイタリアに帰りなさい」
第9章:「今すぐ教会を出ていきなさい」
第10章:「大森での新生活がスタートした」
第11章:「初めての信徒」
第12章:「紙の町で、神の教えを広めることに」
第13章:「戦争の足音が近づいてきた」
第14章:「ベロテロ、ニューヨークに向かう」
第15章:「印刷の責任者に」
第16章:「イタリアの政変で苦境に」
第17章:「警察官と一緒にNHKに出勤」
第18章:「裏口から入ってきた警察署長」
第19章:「王子から四谷へ〜マルチェリーノの逮捕」
第20回:「本格的な空襲が始まる」
第21回:「東京大空襲」
第22章:「修道院も印刷所も出版社も」
第23章:「終戦」
第24章:「焼け跡に立つ」
第25章:「横浜港で驚きの再会」
第26章:「四谷は瓦礫の山の中」
第27章:「民間放送局を作っても良い」
第28章:「社団法人セントポール放送協会」
第29章:「ザビエルの聖腕がやってきた!」
第30章:「映画封切りデーの勘違いが、運命を変えた」
第31章:「ついに帰化を決断し、丸瀬利能に」
第32章:「放送局の申し込みが殺到」
第33章:「勝ち抜くためのキーワードは、文化」
第34章:「そして最終決戦へ」
第35章:「放送局認可へ、徹夜会議が開かれる」
第36章:「局舎建設と人材集めの日々」
第37章:「マルチェリーノに猛烈抗議」
第38章:「スモウチュウケイガヤリタケレバスグニコイ」
第39章:局舎が完成、試験電波の発信に成功
電波監理委員会の認可を受けてから11か月。文化放送の経営陣は人材を集めて、会社組織としての形を作る作業を懸命に進めていた。遅れていたアメリカRCA社製の機材もようやく届き、局舎の整備も追い込みに入っていた。建物そのものは一年近く前の4月11日に一応の完成を見ていた。つまり放送局の認可を受けた段階では箱はできていたことになる。先に局舎を建設して準備万端であるという、マルチェリーノが考えた一種の作戦でもあったわけだが、とは言え「仏作って魂入れず」で肝心の機材や人材は揃っていなかった。社屋の外壁は当初は黄緑色だった。放送局としてはまだ魂が入っていなかったものの、建築家の思いは十二分に詰まっていた。繰り返すが戦後の東京に突如現れた斬新で且つクラシカルでもあるぴっかぴかの建物だったのだ。だからこそ機材がセッティングされ、マイクが整備され、ピアノも置いた瞬間、当然のように機材と建物と人がぴたりと調和を奏でた。そして1952年3月31日の正式開局日が迫る中、ようやく「全て」が揃った。
第5スタジオに設置された最初のテープ録音機
試験電波を発信
1952年3月18日(火)、文化放送はようやく試験電波を発信する日を迎えた。出力は10KWだ。現在では100KWなので、一桁違う。思えばずいぶんと小さいのだが、当時の東京は今とは全く違うので単純比較はできない。東京は焼野原から立ち上がり、ようやく街らしい形を取り戻しつつはあったものの、まだまだビルが点在する程度の街並みが広がっているだけ。しかも高低の少ないだだっ広い関東平野では、埼玉の川口から都心に飛んでくる電波を邪魔する建物はほとんど無かったため、サービスエリアをひとまずカバーすることができたのだ。とは言え、一足早く開局したラジオ東京の出力は5倍の50KWとその差は歴然だった。「必ずや50KWにしてみせる。まずはせめて30KWに増力しなければ勝負にならない..」技術担当者たちはそのような思いを新たにした。ちなみに出力50KWに増力するという悲願がかなうのは案外早く開局から2年後の1954年3月31日のことだ。さらに1971年の11月には出力が100KWになった。しかし雨後の筍のごとく高層ビルが林立する現在の東京では100KWでも難聴取地域が数多く存在してしまうことから、今ではワイドFM放送やスマートフォンアプリ「Radiko」でカバーする体制が作られているのはご存じの通りだ。
雑誌「新建築」1952年5月号から
開局準備が進んでいた1950年代前半は、戦後の近代建築がようやく本格化し始めた時代と重なる。なぜ本格化したかと言えば、景気が良くなったから。そして景気が一気に上向いた最大の理由は「朝鮮戦争」だ。戦後の激しいインフレと、それに続くドッジラインという名の財政金融引き締め策によるデフレで苦しみ抜いていた日本人の厳しい生活を救ったのが皮肉にも戦争による朝鮮特需だった。広い意味での特需効果は1955年までに36億ドルにのぼり、これはアメリカの対日援助を上回る。これにより経済大国への道を歩むきっかけとなり、国民総生産もようやく戦前水準まで戻ってきた。その時期がちょうど民間放送の準備期~黎明期と重なる。廃材を使ったバラック小屋が立ち並んでいた街が、瞬く間に鉄筋やコンクリートジャングルにその姿を変えていった。鉄を使うということについて戦前、戦中と政府の統制は非常に厳しくかった。国民に対して金属を供出せよと命じられている中で、貴重な鉄鋼資材を使った建築が許されることはあり得ない。だから、戦後になり自由と好景気が転がり込んできたタイミングで、気鋭のアーキテクトたちは燃えた。ようやく自分の頭の中だけで眠っていた建築という夢を現実の空間に創り上げることができるのだ。彼らは昼夜をいとわず設計図と格闘し、戦時中ため込んでいた創作エネルギーを爆発させてゆく。空襲で焼かれてしまった家屋の跡に、憧れの鉄骨や鉄筋やコンクリートを使った近代建築が次々と生まれていった。板倉準三が設計した「神奈川県立近代美術館」、前川國男の「日本相互銀行」など名建築と呼ばれるものは1950年代に作られたものが多い。良いデザインは色褪せない。前川や板倉らがル・ジルビュジエの設計を継いで完成させた「国立西洋美術館」は2016年に世界遺産に認定されている。美術館や銀行とは違うが、我々が日常もっとも目にする1950年代の建築物ということになると、内藤多仲が設計し1958年に完成した「東京タワー」ということになるかもしれない。驚くべきことに、この高さ333メートルのタワーの名前は、一般投票段階では「昭和塔」が1位だった。しかし最終的には、名称選定の審査員を務めた弁士の徳川夢声氏の提案で、人気投票では13位にすぎなかった東京タワーに決定したと言う。夢声氏の鶴の一声が無かったら、我々は今、あの赤いタワーを「昭和塔」と呼んでいたのだろうか。名前が違うだけで東京の景色も違って見える気がする。
前川や板倉、丹下健三ら新進気鋭の建築家が競うようにデザイン性の高い建物を作った。そして東京の景色を急激に変わっていったわけだが、そう言った戦後の変革の節目の中に文化放送会館も含まれていたと言える。今では地上6階と聞いても全くピンとこないが、当時はまごうことなき高層建築で、四谷からでも青山の絵画館が鮮やかに見えた時代に、このカトリック風の建物は四谷の人達を多いに驚かせた。
完成間近の文化放送会館
文化放送をきっかけに羽田空港や東京五輪へ
この文化放送会館を設計したのは、建築家の清田文永(きよたふみなが)と彼を中心とする梓建築の社員たちだった。清田は大分県の生まれで、早稲田大学を卒業後、逓信省や大日本航空(今の日本航空)を経て、戦後の混乱期の中、大竹十一(おおたけじゅういち)らと「梓建築」を立ち上げた。梓建築は梓設計と社名を変え、今では日本を代表する設計会社のひとつだが、当時はまだ創立5年の若い会社だった。なぜ「梓」なのか?梓設計のホームページを拝見すると、「梓(あずさ)という社名には、大らかにして雅び、しかも強く貫く力があり、凛と立つ梓の木に合わせ見た」と書いてあり、「梓」という言葉に込めた思いが伝わってくる。「おおらかで雅でそして力がある」とはまさに文化放送会館の姿そのものではなかったか。ちなみに清田は自身の名前を社名に使わなかった。自分の名前よりも公的な存在としての社名を優先させることが大事だと考えていたようだ。清田のこの考えは、自身の名前を遺すことや修道会の活動よりも、まずは文化放送設立を優先させることに迷いが無かったマルチェリーノの姿と重なる。清田とマルチェリーノは、設計段階のプレゼンテーションなどで顔をあわせていたはずだが、どのような意見を戦わせのだろうか。梓設計のホームぺージには「1949 年の日本文化放送会館の設計が、事務所の足固めの仕事となった。」とも書かれてある。創業時の精神や歴史を忘れない社の熱い精神を感じる。翻って文化放送は、姿を消した文化放送会館に対して、先人たちが籠めた思いをどこまで受け継いでいるのだろうかと改めて考えさせられる。
清田文永のサインが入った文化放送のイラスト(新建築1952年5月号より)
当時まだ40歳を少し過ぎたばかりだった若い清田の、文化放送会館完成へ向けた熱い思いは4年越しで形となった。そしてこの文化放送会館の設計をホップに、梓建築(後の梓設計)はステップ、ジャンプを繰り返し、東京国際空港(羽田空港)など日本の空港設計における中核企業となってゆく。さらに文化放送を設計したノウハウは、1970年代に入って東京・渋谷のNHK放送センターを設計するというビッグプロジェクトに結実してゆく。その後の梓設計の仕事は、埼玉スタジアム2002や新国立競技場設計への参画など枚挙にいとまがないが、その端緒にあったのが文化放送会館の設計であったことは我々にとっても誇らしい事実だ。
蛇足になるが、文化放送会館は54年間余りでその役目を終えたが、当時生まれた名建築の中にはもっと短命に終わったものもある。文化放送会館とほぼ同じ時代に建設されたものの中でよく知られているのは、千代田区の竹橋にあったリーダーズダイジェストの日本支社だ。世界的な建築家アントニン・レーモンドが設計し、造園をイサムノグチが担当した。まさに戦後の東京を代表する名建築だったが、東京五輪が行われた1964年にパレスサイドビル(現在も毎日新聞本社が入る)にその姿を変えた。わずか13年の命だった。1964年の東京オリンピックを境に消えた東京の姿がここにもある。
文化放送会館の話に戻そう。教会とも放送局ともつかないこの建物は、そのうち東京中の話題となった。アメリカから帰国したベルテロが、灰塵と帰した四谷の街をタクシーの後部座席から唖然して眺めた日からわずか6年弱。夕景に映えるその姿を感慨深い思いで眺めるマルチェリーノやベルテロの姿が頭に浮かんでくる。先述したように当時の東京に電波障害となる建物はほとんど無く、放送サービスエリアの大半を問題なくカバーできた。そしてこの試験電波発射の成功を持って、文化放送の局舎が完成したことになる。翌日の19日(水)、関係者たちは盛大に工事の落成を祝い、いよいよ東京ではラジオ東京(TBS)に次ぐ2番目の開局の準備が整った。ちなみに川口送信所から電波を発信する放送機器の正式名称は、RCA社製のBTA-10型という人の背丈よりも大きい鉄の塊のような機材であった。アンテナは空中線・指向性-63M鉄塔が3基。創業費用は229240000円であったと記録されている。
開局当時の写真 確かにアンテナが3基立っているが、周囲はまだ田園が広がっていた ©文化放送
ちなみに初期の周波数は1310khzでラジオ東京は1130khzだった。文化放送の周波数は開局から1年半後、ラジオ東京が持っていた1130khzに変更されるのだが、その理由は1130khzという周波数を、開局を控えるニッポン放送に譲渡することになったからだ。周波数が若いほど電波は飛びやすいので、文化放送にとってはある意味願ったりかなったりだったと思うが、ラジオ東京を聴こうとしたら文化放送が流れ、文化放送を聴こうとしたら開局したばかりのニッポン放送が流れるということでリスナーは戸惑ったであろう。そのニッポン放送はラジオ東京や文化放送から2年余り遅れて1954年4月13日に開局しているのだが、財界が中心となって作られた放送局で、会長には日本貿易会の稲垣会長が就任し、経団連や日経連といった財界の幹部たちが経営に名前を連ねた。新聞社が主体のラジオ東京、カトリックが主体の文化放送、財界が主体のニッポン放送。3者3様のルーツが今も社風に影響している気がして興味深い。
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Profile
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1964年、奈良県生まれ。関西学院大学卒業後、1988年、文化放送にアナウンサーとして入社。その後、報道記者、報道デスクとして現在に至る。趣味は映画鑑賞(映画ペンクラブ会員)。2013年「4つの空白~拉致事件から35年」で民間放送連盟賞優秀賞、2016年「探しています」で民間放送連盟賞最優秀賞、2020年「戦争はあった」で放送文化基金賞および民間放送連盟賞優秀賞。出演番組(過去を含む)「梶原しげるの本気でDONDON」「聖飢魔Ⅱの電波帝国」「激闘!SWSプロレス」「高木美保クロストゥユー」「玉川美沙ハピリー」「NEWS MASTERS TOKYO」「伊東四朗・吉田照美 親父熱愛」「田村淳のニュースクラブ」ほか