第5スタジオは礼拝堂 第37章「マルチェリーノに猛烈抗議」
「プロローグ」はこちら
第1章:「それはチマッティ神父の買い物から始まった」はこちら
第2章:「マルチェリーノ、憧れの日本へ」はこちら
第3章:「コンテ・ヴェルデ号に乗って東洋へ」はこちら
第4章:「暴風雨の中を上海、そして日本へ」はこちら
第5章:「ひと月の旅の末、ついに神戸に着く」
第6章:「帝都の玄関口、東京駅に救世主が現れた」
第7章:「東京・三河島で迎えた夜」
第8章:「今すぐイタリアに帰りなさい」
第9章:「今すぐ教会を出ていきなさい」
第10章:「大森での新生活がスタートした」
第11章:「初めての信徒」
第12章:「紙の町で、神の教えを広めることに」
第13章:「戦争の足音が近づいてきた」
第14章:「ベロテロ、ニューヨークに向かう」
第15章:「印刷の責任者に」
第16章:「イタリアの政変で苦境に」
第17章:「警察官と一緒にNHKに出勤」
第18章:「裏口から入ってきた警察署長」
第19章:「王子から四谷へ〜マルチェリーノの逮捕」
第20回:「本格的な空襲が始まる」
第21回:「東京大空襲」
第22章:「修道院も印刷所も出版社も」
第23章:「終戦」
第24章:「焼け跡に立つ」
第25章:「横浜港で驚きの再会」
第26章:「四谷は瓦礫の山の中」
第27章:「民間放送局を作っても良い」
第28章:「社団法人セントポール放送協会」
第29章:「ザビエルの聖腕がやってきた!」
第30章:「映画封切りデーの勘違いが、運命を変えた」
第31章:「ついに帰化を決断し、丸瀬利能に」
第32章:「放送局の申し込みが殺到」
第33章:「勝ち抜くためのキーワードは、文化」
第34章:「そして最終決戦へ」
第35章:「放送局認可へ、徹夜会議が開かれる」
第36章:「局舎建設と人材集めの日々」
第37章:マルチェリーノに猛烈抗議
先週ご紹介した開局時からの社員である伊藤満さんは、放送指揮室という所に配属となった(この部署は現在は無い)。放送指揮室は、ディレクターが制作した録音番組を放送を送出する副調整室に運び調整するのが仕事だ。「調整」とはどういうことなのか?これが今では想像もつかないくらい大変な仕事だった。今回も伊藤さんの話からスタートしよう(以下、敬称略)。
伊藤「当時はまだ電力のサイクルが不安定で一定していないんだ。収録の際には50サイクルで収録したのに、放送の時には48サイクルに下がっているんだよ。 大体1秒に2パーセント狂っていく計算で、すると30分の番組では36秒狂うことになる。それを調整するのが大変で、寸法が足らない場合は、アナウンサーをスタジオに入れて放送後に天気予報などを読ませて調整すれば良いが、逆に長くなっている場合は、スプライシングテープで編集し、間を詰めるなど軽業師の様な作業を続けた。 放送指揮室は本当に大変だったよ 」
スプライシングテープとは、編集のためにハサミで切ったオープンテープを繋ぎ合わせるための強度なセロテープのようなものだ。ディレクターは20分の録音番組を20分ぶんのテープで完成させれば良いが、それが放送当日の電力の機嫌によって、20分よりも長くなったり短くなったりするというわけだ。これは実に始末が悪い。そして放送指揮室はその日の電力のご機嫌(テープスピード)にあわせて完成した番組を、放送直前に長くしたり短くするという非常に面倒で責任の重い仕上げ係だった。
伊藤「50サイクルや48サイクルという数字がなぜわかるかというと、当時マスターには必ずサイクル計というものが置いてあったんだ。それを見ながらテープの編集をし直すんだよ。番組を送出し始めてから、途中で電気が切れたこともあった。大変な時代だった。とにかく右往左往していたよ」
放送指揮室は、日勤の場合は朝の8時に出社して夕方の6時か7時まで。泊まり勤務の場合は、夕方の6時に出社して翌朝の8時まで。いずれもずっとこの時間調整の仕事を続けるハードな職場だった。
アスピラントの研修も始まる
一方、アスピラントの大瀧玲子さん(現平塚修道院シスター、以下敬称略)も、開局を前に文化放送で研修を兼ねて仕事を始めることとなったが、エピソードは伊藤に比べるともう少しおおらかなものだ。
大瀧「私たち志願者(アスピラント)が文化放送で仕事をはじめたのは、開局前の1951年10月からでした。聖パウロ女子修道会から次々に文化放送に人を派遣して協力することになりましたが、私はその第一陣のメンバーの中にいたと思います。12、3人で派遣された気がしますが、そんなにはいなかったかもしれない。ちなみに修道会からではない一般社員たちも、開局半年前の入社の人が多かったと思いますよ。」
大瀧たちはもちろんアナウンサー採用では無かったが、彼女たちに対してもアナウンスの訓練を行うということになった。
大瀧「開局する前に、NHKから移ってきたカトリック信者の松田義郎さんというアナウンサーがいました。松田さんは、NHKで、野球の早慶戦の実況アナウンスをしていた人。早稲田が好きで早稲田が勝つとワーと騒いでいた勇ましい方でしたよ(笑)。その松田アナが私たちにアナウンス訓練をしてくれたんです。私は東京の出身で、研修をともに受けた他の3人もいずれも東京出身でした。現代ではそういうことは無いと思うけど、当時は地方出身者にとって標準語は難しかったと思います。」
先週も少し触れたが、若手アナ8名とともに経験を積んだベテランアナとしてNHK出身の松田義郎らが先生役として採用されていた。松田は昭和初期からNHK東京放送局で活躍してきた人物で、大正天皇の大喪の礼や東郷平八郎の国葬の中継を担当したのも松田だった。児童文学作家・松谷みよ子が放送局のエピソードとして書き記しているちょっと面白い文章がある。NHKで宿直中に急にニュースを読めと言われて、服も着ないままでニュースを読み、ラジオなのに「裸のままで失礼します」と言ってしまったという話だ。松谷は言及していないが、そのアナウンサーは松田であるという説もある。真偽は不明だが、そのようなエピソードで名前が出るほどお茶の間に浸透した人物であったとも言える。穏やかに話しかけるのが特徴の名アナウンサーで後に紫綬褒章も受章した。大瀧の文化放送の思い出はユーモアとともにある。
大瀧「ある日、研修を受けていると、アナウンスの教本にひらがなで、『おやがもめ こがもめ』と書いてあったんです。私は『親が揉め、子が揉め』と読んだんですが、「変なの~」と松田先生が不思議そうな顔をして私を見つめていました。そうしたら、それは『親鴎(がもめ)、子鴎(がもめ)』のことでした(笑)本当に面白いエピソードです。私たちも若かったから、笑っていることのほうが多いくらいでしたよ。」
開局後、大瀧たちがアナウンスを担当することは無かった。しかし外にデンスケを担いでいってインタビューをするような機会はあった。
大瀧「私は実践でアナウンスを担当することは無かったのですが、外に録音に行きインタビューをするくらいの機会はありました。大きいリールをどう掛けるのかなどテープレコーダーの使い方を覚えました。私たちの修道院でも、小さいテープレコーダーを買い、神父様のミサの際の講話などを録音することによって慣れていきました。録音機を扱うのは、あの時代には私たちくらいだったと思います。でも、映画を撮っていた人間ですから、新しいものにびっくりということはありませんでした。」
開局に向けた準備においても、聖パウロ会は一般社員と比べて遜色はなかった。むしろもっと前向きだったと言える。出版や映画撮影などの実践を積み重ねて来ている経験者たちなので、当然と言えば当然とも言える。今ではICレコーダーやスマートフォンを使って録音をすることは誰にでもできるが、戦争終結からまだ数年しか経っていないあの時代に、録音機を扱うことのできる人間の数は限られていた。しかもそのような最先端の機材を自由自在に扱っていたのが、普段は祈りの生活を送るシスターやアスピラントたちであったことを考えると実に興味深い。 大瀧は「マルチェリーノ神父の肉声も探せばどこかにあるかもしれませんね。テープはCD―ROMに焼いているはずだから」と語っていた。マルチェリーノの肉声。ぜひ聴いてみたい音声だ。
ところで、女子修道会にいるイタリア人を中心とした外国出身のシスターたちは、戦後に来日したばかりなので殆ど日本語を理解できなかった。一方、マルチェリーノやベルテロたち男子修道会の面々は日本で20年近く暮らし、実に流暢に日本語を使いこなしていたので、アスピラントたちとの交流役は、シスターたちよりもむしろ神父たちであった。
大瀧「マルチェリーノ神父様はミサの時に私たちにいつも話をしてくれましたよ。食事も一緒に摂りました。『どう?元気かね』と話しかけてくれて、まるで父親のようでした」 シスターやアスピラントの中には、父親を戦地や空襲で亡くした人がいたであろう。父親のように振る舞う陽気なマルチェリーノは、そのあたりの事情も汲んで接していたのかも知れない。ところで、映画制作経験をバネにラジオ現場に備えて準備に励む大瀧シスターに、一種の事件が起きてしまった。開局前の人事で事務関係の職場に配置されたのだ。しばらく我慢していた大瀧だったが、ある日ついにマルチェリーノの元へ抗議に向かった。
抗議をして配置換えに成功
大瀧「つまらない仕事です!」 マルチェリーノ「何がつまらないんだ?」 大瀧「だいたい、せっかく放送局に来たのになぜ事務仕事をしなくちゃいけないですか?」 マルチェリーノはほとほと困り顔になりこう言った。「そういう文句は私に言ってもだめだ。現場の上の人に言いなさい」 すると大瀧シスターは、その足で上層部に抗議に向かった。大瀧「だって上の人に言いなさいと言ったのはマルチェリーノ神父様なのだから、上司に文句を言うのも、マルチェリーノ様のお墨付きじゃない(笑)だって、私は映画を作った人間だもの!」向かった先は音楽部長の有坂愛彦だった。
大瀧は有坂に「番組を作りたいです」と訴えた。余談だが、有坂は、クラシックの音楽評論家として知られた人物だ。開局当時は、46歳。余談になるが、先日亡くなった作曲家のすぎやまこういち氏は、東大を卒業し、最初は文化放送に入社したのだが、そのすぎやまが高校時代に作曲した作品を有坂が気にいったのが入社のきっかけだったと言われている(すぎやまは後にフジテレビに移籍)。とにかく、アスピラントだった大瀧は音楽部長の有坂に抗議をした。黒衣に身を包んだ若いアスピラントが怒りの表情で「私がなぜディレクターじゃないんですか!」と抗議している姿を想像するとまるで映画のシーンのようだ。事実は小説よりも奇なりというが、当時のエピソードのひとつひとつが人間臭くて楽しい。
大瀧「抗議したのよ。そうしたら番組をくださった(笑)」大瀧の直訴は功を奏し、文芸部というところに配属されることになった。
次回へ続く
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土居まさるアナの司会で大人気だった公開録音番組の「ハローパーティ」開局から20年でいかに激動したかが分かる2枚の写真だ。
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Profile
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1964年、奈良県生まれ。関西学院大学卒業後、1988年、文化放送にアナウンサーとして入社。その後、報道記者、報道デスクとして現在に至る。趣味は映画鑑賞(映画ペンクラブ会員)。2013年「4つの空白~拉致事件から35年」で民間放送連盟賞優秀賞、2016年「探しています」で民間放送連盟賞最優秀賞、2020年「戦争はあった」で放送文化基金賞および民間放送連盟賞優秀賞。出演番組(過去を含む)「梶原しげるの本気でDONDON」「聖飢魔Ⅱの電波帝国」「激闘!SWSプロレス」「高木美保クロストゥユー」「玉川美沙ハピリー」「NEWS MASTERS TOKYO」「伊東四朗・吉田照美 親父熱愛」「田村淳のニュースクラブ」ほか