「象のRadio~キャンティの時代」1月3日午後8時から
伝説の音楽プロデューサー、川添象郎(かわぞえしょうろう)氏とともに「キャンティの時代」にタイムトリップしよう
「象の記憶~キャンティの時代」
文化放送で新春1月3日(火)午後8時~8時55分放送
出演者 川添象郎(音楽プロデューサー)
川添象郎とは? 明治維新の功労者、後藤象二郎の曾孫でキャンティ創業者である川添浩史の長男として東京に生まれ、高校卒業後渡米し、ラスベガスでショーの演出家に。さらにニューヨークに移りフラメンコギタリストになる。パリでミュージカル「ヘアー」に出会うとサルバドール・ダリを連れて交渉に行き、プロデューサーとして日本公演を成功させる。その後、ミッキー・カーチス、内田裕也らとともに音楽レーベル「マッシュルームレーベル」を創立し、ガロの「学生街の喫茶店」などをヒットさせる。1970年代後半には作曲家の村井邦彦の「アルファレコード」に事業参加し、プロデューサーとして荒井由実やYMO、ハイ・ファイ・セットなどを世に送り出す。その鬼才ぶりに加え数多くのスキャンダラスな話題とともに規格外の豪傑プロデューサーとしての破天荒ぶりは、もはや都市伝説の域に達している。御年81歳にして意気軒高。そんな川添氏が、初めて文化放送のマイクの前に座ります。
番組内容
「YMOはなぜ欧米でヒットしたのか?」「ユーミンはどのようにしてスターになっていったのか?」「青山テルマが世にでたきっかけは?」1970年代のニューミュージックから現代のシティポップスブームに至るまで、日本の音楽シーンにおいて欠かせない存在である伝説のプロデューサー、川添象郎(しょうろう)。しかし、彼の実像は今まであまり伝わってこなかった。番組では、この川添象郎氏が自らの半生を語りながら、ヒット曲がどのように生まれていったのか驚きのエピソードとともに語る。そしてフラメンコギタリスト、音楽プロデューサー、空間プロデューサーとして日本の文化を作ってきた仕掛け人、川添象郎という人物を培っていったのが、父親である浩史氏が開業した東京・飯倉にあるイタリアン・レストラン「キャンティ」だ。番組ではキャンティに集った加賀まりこや大原麗子、三島由紀夫、大江健三郎、イブ・サンローラン、イブ・モンタン、シャーリー・マクレーン、ジャン・リュック・ゴダールらの横顔にも触れ、彼らが集まることによって化学反応が生まれていった背景にも触れる。番組は、そのキャンティでも収録し、今から数十年前に同じテーブルに腰掛け音楽や哲学や芸術談義を交わした人たちの時空を超えた姿にも思いをはせる。
おかけする曲は、カシオペアの「ONTHEMOVE」、細野晴臣とイエロー・マジック・バンドで「はらいそ」、川添象郎と三谷真言で「ブレリア」、ミュージカルのヘアーから「アクエリアス」、ガロで「学生街の喫茶店」、荒井由実で「あの日に帰りたい」、イエロー・マジック・オーケストラで「ライディーン」「ファイアークラッカー」、Souljaで「ここにいるよ」feat.青山テルマ、サーカスで「アメリカン・フィーリング」、ハイ・ファイ・セットで「卒業写真」ほか。
僭越ながら番組プロデューサーを務めました。文化放送 鈴木敏夫
それはとても遠い所から急に接近してきた合縁奇縁とも言える話でした。
私が取材を始めたのは、音楽とは全く関係のない「食」の話についてです。スポットをあてたのは戦前戦中、食の通人として知られた鬼才・北大路魯山人…ではなく、その魯山人を経済的にも精神的にもバックアップし手綱を捌いた中村竹四郎(なかむらたけしろう)という人物でした。竹四郎は魯山人を陰で支え続けた、現代で言うところのイベントプロデューサーであり空間プロデューサーで、伝説の社交サロン「星ヶ丘茶寮」を再興したことでも知られています。そしてその中村竹四郎の取材過程で、中村の娘婿にあたる井上清一という人物の存在も知りました。井上は戦前建築を学ぶためにフランスに留学し、カメラマンのロバート・キャパやフランシス・ハール、建築家の坂倉準三、画家の岡本太郎、仏文学者の丸山静雄らと親交を結んだインテリゲンチャな人物なのですが、その井上のパリ時代からの友人だったのが、後に国際交流のエキスパートとして名を残す川添浩史でした。
その川添浩史が東京・飯倉片町に開店したのが伝説のイタリアンレストラン「キャンティ」で、そのキャンティの初代社長(のちの相談役)を引き受けることになったのが、友人の井上清一だったというわけです。今から60年以上前の話です。「食」をテーマに始めた取材。気がつくと近代の社交サロン「星ヶ丘茶寮」から現代の社交サロン「キャンティ」へと話が繋がっていました。そう言った歴史や人脈図について井上清一のご子息である井上清起さん(中村竹四郎の孫)から直接伺っていたのですが、少し休憩をとって雑談を交わしていた時に、ふと井上さんから「ところで鈴木さん、象(しょう)ちゃんの本を読んだ?」という言葉を投げかけられたのです。「象ちゃん…ですか?」ときょとんとする私に、井上さんの返事は「川添浩史さんの息子の象郎さんが書いた、「象の記憶」という本だよ。一度読んでみると面白いよ」とのこと。早速読んでみました。
面白かったです。面白すぎました。ユーミンやYMOは私の成長期に触れた思い出のアーティストたちですが、川添象郎さんが様々な形で彼らや彼らの創り出す曲とつながってきたことを改めて学ぶこととなりました。そしてその姿が「食」「社交サロン」といったシンクロする単語とともに先述の中村竹四郎と重なってきました。「天才の陰には、名プロデューサーがいる」ということです。
早速、私は川添さんの横顔についてネット検索などをしてみたのですが、正直言ってあまりの武勇伝の多さに少し引きました(苦笑)。しかし、「象の記憶」を編集した稲葉編集長や幼馴染の井上清紀さんら、直接知る人たちの話から受ける川添さんの印象は、ネットで踊る活字とは少し違うものでした。そして、何よりこれだけの名曲の仕掛け人として活躍(暗躍?)した人物に会ってみたいという欲求が俄然湧いてきました。そのような経緯で、今回のラジオ番組を企画し、、タイトルも川添さんの自叙伝である「象の記憶(DU BOOKS刊)」にちゃっかりのっかる形で「象のRadio」にしたというわけです。
実際にお会いした川添さんは、陽気でお茶目でとても紳士的な人物。そして、その口から飛び出す音楽にまつわる話は、まさに現代のファンタジーでした。とにかく面白い!そしてウソのようなホントの話ばかり! 経験したことのない1970年代の東京やパリやニューヨークの街の香りを追体験することもできました。そういった「世界の空気」を胸いっぱいに吸い込んだ川添さんが、今から半世紀前に、村井邦彦さんや細野晴臣さん、荒井由実さんと言った音楽を紡ぐプロフェッショナルたちとともに、飯倉キャンティやアルファレコードで毎夜集い、その中で化学反応が生まれて、宝石のように輝く音楽のたちが生まれていったという「史実」に本当に興奮しました。それは現代のおとぎ話で有ると同時に、日本の音楽史です。過去を学ばずして今を語ることはできません。自身の名前を表には出さずに動き続けた川添さんの生き方にも興味が湧きました。そのように様々な群像劇が重なり、日本のポップスが生まれていった歴史を紐解くことで、世界を席巻するジャパニーズ・シティポップスのブームが決して偶然ではなく、必然から生まれてきたのだということも肌身で分かってきました。
YMOの面々と川添プロデューサー
私はこの「象のRadio」の「なんちゃってプロデューサー」を務めていますが、リスナーの皆様が耳にするのは、川添象郎という「本物のプロデューサー」の語りであり、仕事や人生に真摯に熱く向き合う姿です。燃える闘魂、アントニオ猪木さんの名言は「迷わず行けよ、行けばわかるさ」でしたが、おとそでも嗜みながら、御年81歳の伝説のプロデューサーが語る「迷わず行こう、ちょっと行きすぎちゃったかも」的な破天荒な生き方に酔いしれて下さい。1月3日と言えば、そろそろお正月休みも終わりが近づいて、黄昏感に沈みがちです。そんな1月3日の夜にこの番組を聴けば、きっと元気よく仕事始めを迎えられるはずです(^^♪
川添象郎氏、文化放送スタジオにて
追伸が3つあります。ひとつは、中村竹四郎氏の特番取材も続けているということのご報告。そしてもうひとつは、川添象郎さんの実母である名ピアニストの原千恵子氏は、何と70年前の1952年に文化放送の開局前夜祭で日比谷公会堂から演奏した方なのです!ここにも合縁奇縁がありました。
最後に村井邦彦さん、吉田美奈子さんら時代を築いてきた音楽の達人たちにも次回ぜひお話を伺いたいという思いがふつふつと沸いてきているということ。もちろんそれはリスナーの皆様の反響にかかっています。一緒に良い音楽を探す旅に出かけることができる2023年であります様に!55分間ノンストップでお届けする「川添ワールド」をどうぞお楽しみください!1月3日(火)午後8時、音楽のワンダーランドの世界が広がります(^^♪
なお、今回の番組は「象の記憶」の編集責任者であるDU BOOKS(ディスクユニオン)の稲葉編集長にもアドバイスをいただきました。稲葉編集長に寄稿していただいた文章で是非、「象の記憶」誕生の裏話を知るとともに、「象のRadio」放送の背景を知って下さい。また番組スタッフの佐藤さんのガロへの思いもぜひお読みください。番組が一層楽しめると思います。
稲葉将樹(DU BOOKSリーダー兼編集長「象の記憶」担当)
ビートルズにブライアン・エプスタインがいたように、YMOの世界進出に川添象郎という仕掛け人がいたことは、音楽ファンなら周知の事実。
書籍『象の記憶』の元になった「団塊パンチ」の連載は夢中になって読んでおり(もちろん『キャンティ物語』も)、私にとって川添さんは、会えるなら会っておきたい伝説の音楽プロデューサーであった。光栄にも出版のお話をいただきお会いできることになり、破天荒なイメージもあったので、とても緊張したのだが、誰に対しても長い友人のように接してくださる川添さんの魅力に一瞬でやられてしまった。ラスベガス、ニューヨーク、パリといったエンタメとアートの中心地で、海外のセレブと外人コンプレックス皆無で対等に渡り歩くことができた川添さんの根底にあるのは、裏を返せば「人間は平等、人間は自由」という考え方(これは、今でもキャンティのホームぺージにある川添浩史氏の言葉そのもの)に尽きると、肌で感じる瞬間が何度もあった。川添さんは、宮様からアウトサイダーまで分け隔てなく交流してきたオープンな方なのだ。
川添さんの運んできたそんなコスモポリタンな空気感、ダサいものが嫌い(美は力なり)という価値観は、クレジットのあるなしに問わず、1971年の小坂忠「ありがとう」からはじまり、ユーミン、吉田美奈子、ハイ・ファイ・セット、サーカス…そして、その才能に惚れこみ晩年をサポートした佐藤博(20年代を代表する世界的なバンドThe 1975が2020年にサンプリングし、広く世界の音楽ファンの知るところとなる)にも一貫して流れていると思えてならない。世界進出といえば、今やYMOだけではなく、川添さんが村井邦彦さんをはじめ仲間たちとリリースしてきたレコードは、シティポップとして海外でも評価されている。
最後に、『象の記憶』の制作について、さぞや破天荒なエピソードや面倒なこともあったと思う方もいるかもしれませんが、川添さんからのディレクションは、タイトルと挿画に木村英輝さんの象の絵を使ってほしいという2点だけ。あとは自由に編集させてもらいました(もっとも次男の太嗣さん、大宮浩平さん、鈴木康弘さんたちの手も経由して整理されていたお原稿にはほとんど手を入れるところはなかった。感謝!)。私からは、ちょっと書きづらいかなと思ったあるパ―トの加筆を是非にとお願いしたが、これまた、少年のような素敵な文章をいただくことができた。ちなみに、川添さんは字がとても丁寧だ。文章にも読みにくい、わかりづらいということがまったくない。見習いたい。
まさに、キャンティのキャッチフレーズでもある「子供の心をもつ大人」を絵に描いたような川添さんが、今回の番組では、キャンティで友人たちに話しているエピソードを、ラジオでそのまま語ってくれています。人生と仕事を楽しんできた大先輩からの贅沢すぎる時間です。
佐藤理恵子(フリーディレクター)
川添さんプロデュース作品の魅力
川添さんがプロデュースされた作品には、個人的にたくさんの想い出があります。例えばガロ。ガロとの出会いは幼稚園生の時、家族で出かけた遊園地で開かれていたガロのデビューコンサートでした。ハーモニーの美しさと長髪の外国人のようなルックスに魅了された姉と私は「ガロと言うグループがデビューしまーす!ファンクラブ入会したい人はこちらに並んでくださーい!」と言う呼び声に応えて列に並びましたが、姉は当時小学5年、私はまだ5歳、姉はかろうじて入会できたものの、私は未就学児という事で入会できませんでした(笑)。ファンクラブに入った姉から会報を見せてもらい、レコードを一緒に聴きました。ガロはブレッド、ビートルズ等の日本語カバー曲も歌っていたのですが、その中でも「GARO2」に収録された、「Good Morning Star Shine」が大好きで、レコードに合わせて、「グッドモーニング、スターシャイン、輝いて~」と歌っていました。この曲は今回番組でも取り上げているミュージカル「ヘアー」の挿入歌でもあるのですが、収録の際、この曲の日本語詞を作詞されたのは川添さんだとお聞きし、とても感動しました。
荒井由実も姉のお気に入りで「すごくいい曲がある」と言って「翳りゆく部屋」や「あの日に帰りたい」、「やさしさに包まれたなら」を聴かせてくれました。洗練された美しいメロディーとアレンジに圧倒され、私自身もすぐ夢中になりました。「YUMING BRAND」に付いていた3Dメガネを従妹達と一緒に見て遊んだことも楽しい想い出です。そしてイエロー・マジック・オーケストラ。「すごく流行っているから」と言って姉が父と一緒に銀座の山野楽器に行って「PUBLIC PRESSURE」を買ってきました。早速家族みんなで聴いたのですが、ジャケットも音楽も近未来的で、ワクワクしながら聴いたことを覚えています。また川添さんが立ち上げに協力されたレストラン「エル・フラメンコ」は福島に住んでいる叔父が是非行ってみたいと言ってわざわざ上京して、私たち家族と訪れた店でした。異国情緒漂う店内と、本格的な料理、迫力満点のフラメンコのパフォーマンスに叔父は大変喜び、帰りに家族全員にお土産を買ってくれました。
川添さんが手掛けられた作品に共通して言えることは、質が良く、受け手に感動や驚きを与えてくれるということ。収録の後、川添さんは「やっぱり、いいものをつくらなきゃね」と仰っていました。この言葉に川添さんのプロデューサーとしての美学が集約されているように思います。この番組を通して、川添さんの美学を皆さんと共有できたらと思います。限られた時間の中で今回ご紹介できなかった川添さんの作品は、第2弾の放送が実現した際、ご紹介できることを願っています!