第5スタジオは礼拝堂 第33章「勝ち抜くためのキーワードは、文化」

第5スタジオは礼拝堂 第33章「勝ち抜くためのキーワードは、文化」

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「プロローグ」はこちら

第1章:「それはチマッティ神父の買い物から始まった」はこちら

第2章:「マルチェリーノ、憧れの日本へ」はこちら

第3章:「コンテ・ヴェルデ号に乗って東洋へ」はこちら

第4章:「暴風雨の中を上海、そして日本へ」はこちら

第5章:「ひと月の旅の末、ついに神戸に着く」

第6章:「帝都の玄関口、東京駅に救世主が現れた」

第7章:「東京・三河島で迎えた夜」

第8章:「今すぐイタリアに帰りなさい」

第9章:「今すぐ教会を出ていきなさい」

第10章:「大森での新生活がスタートした」

第11章:「初めての信徒」

第12章:「紙の町で、神の教えを広めることに」

第13章:「戦争の足音が近づいてきた」

第14章:「ベロテロ、ニューヨークに向かう」

第15章:「印刷の責任者に」

第16章:「イタリアの政変で苦境に」

第17章:「警察官と一緒にNHKに出勤」

第18章:「裏口から入ってきた警察署長」

第19章:「王子から四谷へ〜マルチェリーノの逮捕」

第20回:「本格的な空襲が始まる」

第21回:「東京大空襲」

第22章:「修道院も印刷所も出版社も」

第23章:「終戦」

第24章:「焼け跡に立つ」

第25章:「横浜港で驚きの再会」

第26章:「四谷は瓦礫の山の中」

第27章:「民間放送局を作っても良い」

第28章:「社団法人セントポール放送協会」

第29章:「ザビエルの聖腕がやってきた!」

第30章:「映画封切りデーの勘違いが、運命を変えた」

第31章:「ついに帰化を決断し、丸瀬利能に」

第32章:「放送局の申し込みが殺到」

第33章:勝ち抜くためのキーワードは、文化

 澤田節蔵を代表に、設立発起人に作家の大仏次郎、時事通信代表の長谷川才次、さらに以前紹介した田中耕太郎、犬養健らが名を連ね、放送局設立ための申請をしたセントポール放送協会だったが、まだまだライバルは多かった。電波監理委員会や逓信大臣による発言で、既存の3局(NHK第一、NHK第二、AFRS進駐軍放送)以外に、東京地区で認められる放送局の数はおそらく2局のみだという状況が見えてきた。しかし東京地区だけで申請した数は28局で、ある程度淘汰されてきたとは言え、まだまだ余談を許さなかった。そして、徐々にその「2枠」に関する電波監理委員会の考えも分かってきた。1950年12月1日、電波監理委員会の冨安謙次委員長は「東京にはさしあたり性格を異にするもの2局、他の地方には、1地1局ずつ免許する」という方針を正式に発表する。この冨安談話を受けて、政府や財界も動いた。まずは「ラジオ日本(毎日新聞系で現在の同名局とは別物)」「朝日放送(朝日新聞系)」「読売放送(読売新聞系)」「東京放送(電通系)」の新聞通信系の4社が対等合併し、放送局名を「ラジオ東京(現在のTBS)」とすることが決定した。もちろんこの合併も順調に進んだわけではない。そもそもライバル新聞による呉越同舟など考えられないことだった。中でも毎日新聞は有楽町の東京本社を改修してラジオスタジオの建設を一足早く進めていた。文化放送が局舎の建設を急いだのと同様に「早い者勝ち」狙いだった。とは言え電通を中心に財界も加わって話し合った結果、最終的に4社が対等合併するということで決着しラジオ東京は誕生した。もちろんそれでも広告集めなどには相当苦労したようだ。受信料を払って公共放送を聴くというスタイルに慣れていた国民にとっては「タダで聴ける商業放送」はかなり怪しいシロモノだった。スポンサーにとっても「本当に商売として成立するのか」という疑念を解くことは容易では無かったようだ。7月に開催された日本民間連盟の設立総会で挨拶に立った財界の要人が「私はラジオのスポンサーにはならない」と締めくくり出席者たちが皆青くなったという逸話も残されている。夢は多くても厳しい門出となった。

営利を目的としない民間放送とは

さてラジオ東京の骨格は固まったたが、問題は東京地区の残り1局をどうするかだった。電波監理委員会は「1局は純然たる商業放送局にして、もうひとつは営利を目的にしない放送局にしよう」という棲み分ける方針を固めていた。営利だけを目的としない「国民文化の向上を目指すための放送局にしよう」というもので、そしてセントポール放送協会が有力候補として浮上してきたのだ。ここに、連載の最初に書いた疑問を解くヒントが含まれている。民放創成期の放送局の社名にはいずれも、朝日放送などの「新聞社名」か、あるいは高知放送などの「地域名」が付いている。なのになぜ1社だけが「文化」という「一般名詞」なのかという疑問だが、どうやらこの「文化」と言う言葉自体が戦後日本のトレンドワードだったようなのだ。当時は文化運動などと言う言葉もよく使われた、新生日本を象徴する「文化」という言葉を冠にすることこそが、営利第一主義ではないという重要なアピールだったと言える。例えば、現代において、LGBTQや環境問題、ダイバーシティといった言葉を意識した番組作りを行うことが重要視されるのと似ているかも知れない。戦後日本において国力の向上とは「軍事力の向上」ではなく「文化力の向上」であり、守らねばならないものは「力」ではなく「自由」であり「平和」であり、そして「文化」であった。公共の利益に資するために株式会社ではなく社団法人という形をとるのも、本来は地区に1局のところを2局にするための関係各所が知恵を絞った産物だったと言える。ただし最終的には近畿地区においても2局が生まれることになる。東京ではひとつにまとまった朝日新聞と毎日新聞が、大阪ではどちらも譲らなかっため、毎日系の新日本放送(現毎日放送)と朝日系の朝日放送がともに認められることになったからだ。

ちなみに東京地区の商業放送枠で当確となったラジオ東京は電通と新聞が組んだガリバー軍団だったが、当初の社名は「民衆放送会社」だった。民衆という言葉もまた文化と並んで戦後日本の姿を表す言葉で、当時の空気を濃密に感じる。電波監理委員会としては、どの地区も揉めずに複数の会社がまとまってくれたほうが安心だった。そのためにラジオ東京のように統合を進める会社を優先的に認可していったような側面もあった。ひとつにまとまったラジオ東京に比べ、もう1局の「国民文化の向上」枠争いの行方はこの時点ではまだ見えない。セントポール放送協会が最有力候補になってはいたが、それでも候補のひとつに過ぎなかった。しかも、ひと枠の争いに何とプロテスタントの団体「日本キリスト教放送協会」が参入してきたのだ。「カトリックが申請するのならばうちだって」と思うのは当然だろう。

激しい競争に勝ち抜くために、司法界や政界、教育界などから錚々たるメンバーを集めたセントポールだったが、電波監理委員会の態度は慎重というより、むしろ冷淡なものだった。布教目的で免許を与えるのは問題ではないかという意見が大勢を占めたと言う。そのような逆風の中で、寺師文二の「決してカトリックの布教宣伝機関ではございません。やはり商業放送でございます」という言葉も出てきたのだろう。しかし、理由はそれだけであっただろうか。帰化したとは言え、マルチェリーノが外国人であったことも大きな要因だったと考えるのが自然ではないか。日本最初の民間放送のトップがなぜイタリア人なのかと、しかもなぜ宗教人なのかと官僚たちが考えたとしても不思議ではない。

名乗りを上げた宗教関係の団体はセントポール放送協会や日本キリスト教放送教会だけではなかった。仏教界からも、真宗大谷派の大谷瑩潤(えいじゅん)元宗務総長(元衆議院議員でもある)を中心に全国のお寺から潤沢な資金を調達した「日本仏教放送」が。さらにプロテスタント系で青山学院院長の阿部義宗氏を中心とする東京ラジオセンターなどが手を上げた。いずれも宗教界の大物が舵取りをし、それぞれがアメリカの団体や世界連盟などのバックアップを受けるという形での本格参戦。まるでW杯で次々に強豪とぶち当たるような厳しい戦いであった。セントポール放送教会は、マルチェリーノや澤田、岩本、寺師、そして木内らが、連日作戦を練りに練った。そして出した結論は、純粋なカトリック放送の衣を脱いで、キリスト教的、カトリック的な想いを背景にした商業放送設立を目指すという現実路線への転換だった。新たに打ち出したスローガンは「真・善・美」という言葉。今も文化放送の社内の壁には、この「真・善・美」と書かれた紙が貼られている。

セントポール協会から日本文化放送協会へ

さらに1951年2月13日に「セントポール協会」は名称を「日本文化放送協会」に改名した。キリスト教らしさに溢れた「セントポール」という洒落た社名の変更に際して、マルチェリーノはどのように考えたであろうか。悲願であったカトリック放送局誕生の夢は少しずつ後退を余儀なくされたと考えたであろうか、それとも後ろは振り返らない性格のマルチェリーノらしく、何はともあれ放送局の設立が第一だと猪突猛進に進んでいったであろうか? 

 セントポールの動きをみて、今度はライバルも思わぬ動きに出た。それはプロテスタントと仏教のタッグの結成だ。「日本キリスト教放送協会」と「日本仏教株式会社」「国民教育放送協会」の3社が1社にまとまったのだ。そして、社名は何と「日本文化放送株式会社」。なぜあえて同じ「文化」という単語を使ったのだろうかと考えると、一つの推測も成り立つ。それは電波監理委員会の思惑だ。電監委は、一つの団体に絞り込んだ場合、他の団体、中でも他の宗教系団体からの苦情を恐れたのではないだろうか。「有力な団体はまとまって、仲良くやってください」と言う官僚的、日本的な発想。この合従連衡作戦には接着剤役の大物も登場する。それは当時日銀総裁だった一万田尚登(いちまんだひさと)で、戦争で疲弊した日本経済復活のキーマンとして辣腕を振るった人物。一万田のことを人は「一万田法王」と呼んだ。ローマ教皇(法王)並みの力を持っていると言う意味で、後に吉田茂とともにサンフランシスコ講和会議調印のためにアメリカに渡った大物だ。電波監理委員の一人が一万田氏に対して、新聞社以外の申請を一本にまとめるならば、免許を付与すると約束したと言われている。ローマ教皇のカトリックを背景とする文化放送協会のライバルが、一万田法王をキーマンにしてまとまる文化放送株式会社という皮肉な構図となった。一万田氏自身が表に出ることはなかったが、様々な圧力がセントポール教会側にかけられたと言われている。もちろん、それで萎縮するマルチェリーノでは無い。セントポール側も、新たな動きに出た。まず、仏教関係の有力者、安藤正純氏、さらに文化人として辰野隆氏を賛同者に加えたのだ。安藤氏は戦前から軍部を批判してきた気骨溢れる与党政治家で、著名な建築家、辰野金吾の息子である辰野隆氏も日本におけるフランス文学の父とも言える教養人だ。こうした政治家や文化人たちが応援に加わる一方、マルチェリーノは文化放送協会の理事から監事に退くという苦渋の決断もした。さらに電波監理委員会の冨安委員長に宛てて、24名の連名で「免許促進陳情書」も提出した。これによって「どうせカトリック放送に違いない」との誤解を解きたかったのだが、電監委側は変わらず頑なに「文化放送株式会社(旧名 新国民放送)との合併を強く勧めて来た。この申し出を飲めば放送局設立が認可される、しかし断れば結果は約束できないというという踏み絵を踏ませてきた。マルチェリーノたちも侃々諤々の議論をしたが、やはりこの申し出を断ることにした。このような膠着状態の中、ついにGHQが動いた。正確にはGHQの特別部局として設置された民間通信局のCCSという組織で、彼らがしびれを切らしたのだ。CCSは「提出済みの申請の適格性と優劣で裁定すべきで、理由のない引き伸ばしは止めよ」という真っ当な批判を電監委にぶつけてきた。これは文化放送協会の認可問題に関して電監委を痛烈に批判するもので、納得できるまでラジオ東京などの免許も認めないという厳しいものだった。ラジオ東京にとってはいい迷惑な話だったが、このCCSの態度にさすがの電監委も焦り始める。その状況の中で、文化放送協会はさらに動きをみせた。

次回に続く

 

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