第5スタジオは礼拝堂 第32章「放送局設立の申し込みが殺到」

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「プロローグ」はこちら

第1章:「それはチマッティ神父の買い物から始まった」はこちら

第2章:「マルチェリーノ、憧れの日本へ」はこちら

第3章:「コンテ・ヴェルデ号に乗って東洋へ」はこちら

第4章:「暴風雨の中を上海、そして日本へ」はこちら

第5章:「ひと月の旅の末、ついに神戸に着く」

第6章:「帝都の玄関口、東京駅に救世主が現れた」

第7章:「東京・三河島で迎えた夜」

第8章:「今すぐイタリアに帰りなさい」

第9章:「今すぐ教会を出ていきなさい」

第10章:「大森での新生活がスタートした」

第11章:「初めての信徒」

第12章:「紙の町で、神の教えを広めることに」

第13章:「戦争の足音が近づいてきた」

第14章:「ベロテロ、ニューヨークに向かう」

第15章:「印刷の責任者に」

第16章:「イタリアの政変で苦境に」

第17章:「警察官と一緒にNHKに出勤」

第18章:「裏口から入ってきた警察署長」

第19章:「王子から四谷へ〜マルチェリーノの逮捕」

第20回:「本格的な空襲が始まる」

第21回:「東京大空襲」

第22章:「修道院も印刷所も出版社も」

第23章:「終戦」

第24章:「焼け跡に立つ」

第25章:「横浜港で驚きの再会」

第26章:「四谷は瓦礫の山の中」

第27章:「民間放送局を作っても良い」

第28章:「社団法人セントポール放送協会」

第29章:「ザビエルの聖腕がやってきた!」

第30章:「映画封切りデーの勘違いが、運命を変えた」

第31章:「ついに帰化を決断し、丸瀬利能に」

第32章:放送局設立の申し込みが殺到

 1950年(昭和25年)6月の電波三法(「電波法」「放送法」「電波監理委員会設置法」)の成立前後には、日本初となる民間放送設置を希望する出願者が相次いだ。1948年の夏ごろを中心に全国で申し込みが殺到し72社に達した。北海道で3社、東北で6社、東京を含む関東はもっとも激戦で28社、甲信越で2社、北陸で2社、東海で2社、近畿で13社、中国で6社、四国で4社、九州で6社だった。大阪の新日本放送(現在の毎日放送)のように毎日新聞や松下幸之助など「看板」も「カバン」もある会社もあれば、とりあえず申請だけしてみようというような財政基盤がぜい弱な会社もあったようだ。色々と決まり事もあった。例えばNHKの出力である50kwを超えないとか、事業の確実性であるとか、今につながることだが不偏不党であることなどだ。この不偏不党という位置づけにおいて当初カトリック放送を標ぼうしたセントポールにとっては、カトリック精神をバックボーンにしているが故に公正無私なのだことを声高に訴えねばならなかった。

民間放送申請者座談会

1949年2月12日に東京会館で開かれた「民間放送申請者座談会」の会議録が残されているが、出席者は、国会議員から参議院通信委員の小林勝馬氏、後藤隆吉氏ら4、5名、そして逓信省電波局からは西原林之介氏、吉田修二氏ら4名が出席している。彼らがいわば放送局を「選ぶ側」だ。そして申請者側からは全部で8社が出席している。ラインナップは、国民放送協会(NHKと名前が似ているが無関係)、東京放送、セントラル放送、全日本放送、セントポール放送(文化放送)以上5社が在京社で、このほか大牟田の大牟田放送、山口の新興公知、岡山の山陽放送だった。後に放送局として認可されたのは、東京放送、文化放送、山陽放送の3社。申請者座談会の会議録に、我がセントポール放送の寺師の発言記録もあるのだが、当時セントポールが置かれた立場を反映していて興味深い。

寺師(セントポール放送)「私共の方はその名前からお分かりのことと存じますが、カトリックの宗教団体を背景としておりますが、決してカトリックの布教宣伝機関ではございません。したがって放送事項も説教とかいう種類のものではなく、他の皆様の放送計画とそれほど異なったものではありません。やはり商業放送でございます。放送用機械は、大体米国から輸入したいと考えておりますが、これは貿易と異なるルートを宗教団体の方でもっております。広告放送は前例がございませんので、はっきりした予算はたてかねますが、その収入だけでは当分は自立はできぬと存じますので、米国の中古セットを販売するなどということも考えております。勿論これは国内産業に大きな影響を与える程のものでなく特種のものについてです。」

他社の代表者も同様に意見を述べているが、「資本金としては約1億円程度を準備しております(東京放送)」「NHKの中継を取り扱いたいと思っております。増加聴取者よりNHKに入る聴取料の何パーセントかを割戻して頂きたいなどと考えております(新興公知)」「終戦以来のNHKの放送内容の低劣さより奮起したもので優れた、真の民主的放送を全国的に作らんという大計画でございます(国民放送)」など、かなり自信や確信に満ちた発言が相次ぐ中で、寺師の発言は謙虚というか、やや自信無さげにも聞こえる。逆に言えば、分を超える大きな風呂敷は広げないように注意しつつ、かつ宗教放送ではないかという警戒心を持たれないように慎重に言葉を重ねている様子が窺い知れる。その上で「うちはアメリカとのパイプを持ってますよ」というのも滲ませていて、なかなか計算されたコメントだと感じる。他社の発言には、今聞くと荒唐無稽にも思えるものもあるが、戦後の混乱期に、初の民間放送を作るという想像を超えた不透明な状況であったことは考慮に入れねばならない。焼け野原が残る復興期、皆が放送局開局という「壮大な夢」に賭けていた。開局には辿り着かなかったものの、大牟田放送は鉱山関係者を主なリスナーとして計画されたもので、土地柄も時代も感じさせる。ちなみに九州朝日放送(福岡)は、本社が福岡市ではなく久留米市からスタートしているそうだ。山口放送は、現在も本社が県庁所在地の山口市ではなく、周南市(かつての徳山市)にあるし、山陰放送はサービスエリアの島根と鳥取の中間地点である鳥取県米子市に本社がある。なぜその場所にできたのかなど、戦後の黎明期に生まれた老舗局は、時代背景や人間模様も絡めて、掘れば掘るほど面白い話が出てくるのではないか。そのような中で、名前の宗教色が濃いだけで無く、実質のトップもイタリア人と言うその異色さで極めつけだったセントポール放送。カトリック放送ではありません、お金もあまり有りませんと訴える謙虚さと同時に、ちゃっかりアメリカさんとの強いパイプを示唆している。寺師は相当練ってこの発言を考えたのだろう。クリスマスの日に申請を出してから約2か月後の会合で、文化放送(セントポール)は自社の弱さと強みをしっかりと把握できていた。

国会でも議論が進む

その後、10月になり「放送局開設の根本的基準」制定の聴聞会が開かれたときには、免許審査に値する対象として電監委(電波監理委員会)から認められた社が42社に減っていた。一次試験突破と言っても良いが、先はまだまだ長い。電監委がスタートする以前の第7国会、1950年5月25日(水)に開かれた参議院電気通信委員会と文部委員会の連合委員会の会議録の中に、このようなやり取りを見つけた。

○大隈信幸君 一つ飼いたいのですけれども、一般の民間放送が盛んになることは非常に望ましいことでありますが、使用いたしますところの電波の範囲とか、或いは現在一般国民が使用しております受信機の性能とか、或いは放送の機械設備といつた面から、非常な制限を受けると思いますけれども、実際問題として、近い将来に一般の民間放送がどれだけできる見通しがあるかどうか。そういうことを一つ御説明を願いたいと思います。

○網島毅君 (前略)御承知のように現在の日本放送協会は、全国に放送の電波を普及させるという目的を與えられましたために、全国に亘りまして約百局に近い放送局を建設、維持、運用しております。(中略)この日本放送協会が相当局を持つておりますところの現在におきましても、これを合理的に再編成することによりまして、その波長を再編成することによりまして、尚民間放送としてこれを全国的に考えました場合に、三十局前後の放送局が割込み得るのではないかというふうに考えております。勿論この数は純技術的に、いわゆる混信の面を考慮いたしまして出した数字でございまして、今後できますところの電波監理委員会がどういう政策を以てこれを民間放送に対処して行くかということによりまして、この数が変つて来ることは当然でございます。(中略)現に約四十に近い民間放送の出願がございまするが、これらは殆んど東京とか大阪に集中しておるという状況でございます。(中略)そうなつて参りますと、東京とか、大阪とかいう所には五つ、精々五つ、或いは技術的に相当な制限を加えまして六つという程度の放送局しか置けないということになるのであります。現在すでに東京、大阪にはそれぞれ第一、第二及び進駐軍放送と三つの放送がございまするからして、そう考えますると、ここに割込む余地は二つ、或いは非常な技術的考慮を拂つて三つということになるわけであります。従いまして差向きそう多くの民間放送ができるということは、これは技術的見地からいたしましても、これは不可能でございます。但し受信機が逐次改善されて参りまするならば、この放送局の設置し得る数は逐次増加して参るのでございまして、現にアメリカの一部市のごときは一つの町に放送局が十二も十三もあるという町はざらにございます。将来政府とそれから国民が一致協力いたしまして、できるだけ速やかにこの受信機の向上を図つて、更に多くの民間放送というものができて行くということを希つておる次第でございます。

この網島氏は当時の電波監理長官で、放送法や電波法を作った立役者のひとり。その網島長官は、①東京や大阪には放送局を5つか6つしか置けない②しかしすでに東京大阪には、NHK第1放送と第2放送、さらに進駐軍放送(今のFEN)があるので、追加で割り込めるのは2つ、せいぜい3つと述べている。非常な技術的考慮(電力その他混信防止に努力)しても3局と言っているので、要は首都の東京に新たに設置できる局はたったの2局だ。これはなかなか狭き門と言わざるをえない。この時、小沢佐重喜(さえき)電気通信大臣も「東京、大阪では2ないし3局の民放を認める」との意見をもらしている。蛇足だが、質問した大隈信幸議員は大隈重信元総理の孫、小沢電気通信大臣は小沢一郎氏の父親だ。 答弁の中で、網島長官は40近いという表現をしているので、電監委の認めた42から、さらに何らかの理由でいくつかの事業者が脱落したのだろう。東京地区2枠の椅子取り競争には強力なライバルたちもいたが、その中で、朝日など新聞社3社と、ラジオ東京、そしてセントポール放送協会(現文化放送)の計5社がリードしていた。それに加えて有名無名の各社が入り乱れる状況で、「うちに放送局を作らせてくれ」と言うアピール合戦が続いていたのだ。果たしてバックはキリスト教、トップはイタリア人、かなり異色のセントポールがいかにしてこの激しい競走を勝ち抜けたくことができたのだろうか?

次回に続く

 

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