9月12日(月)ONAIR 片山右京 DREAM REVIEW レポート!!
今月のゲスト、「車いすラグビー」競技で3大会連続でパラリンピックに出場された、
三阪洋行(みさかひろゆき)にお話を伺いました。
【三阪洋行さんのプロフィール】
大阪府東大阪市のご出身。高校時代、ラグビーの練習中に起きた事故で頸けい椎ついを損傷し、車いす生活となる。入院中に車いすラグビーを知って、新たな競技人生をスタート。4年後に最年少で日本代表に選出され、2004年アテネ・2008年北京・2012年ロンドンの3大会連続でパラリンピックに出場。現役引退後は、日本代表のアシスタントコーチに就任し、2016年リオパラリンピックで銅メダルを獲得。
現在は、自身の経験を活かして障害者への認識や理解を促進する講演や活動に取り組んでいる
●パラリンピック3大会連続出場について右京さんは・・・
(競技特性や、肉体の負担もある事を感考えて)3大会出られることがすごいよね。と一言。
それだけチャンスをもらえたことがありがたかった。ただ激しくぶつかり合うので体のダメージは年々蓄積してるなと。笑
スポーツで酷使している体だなと感じています。
でも、それ以上に挑戦することのエネルギーが、選手として3回パラリンピックに出られた原動力になったと思います。
パラリンピック車いすラグビーについて、too wildで怖いイメージがあるんだけれども、こうしてお会いするとスマートなITエンジニアに見える柔らかな印象の三阪さん。
●どんな子供だった?
スポーツが大好きで、小学生の頃から地元でソフトボールをやっていた。花園ラグビー場が家から近くにあり、ラグビーが当たり前にある街に生まれたので草野球ならぬ草ラグビーで、小学校でもラグビーボール持って遊びに行くような感じだった。
スポーツが大好きで冬でも汗を流すような少年だったようですね。
●そのラグビーで練習中の事故で怪我をしてしまいますが・・・
中学から本格的に始めて高校も花園目指して強豪校に進んで、ラグビーに明け暮れていた毎日。高校3年の時に全国に向けての予選に入ったところで、いつも通りの練習をしていた中で、首の骨を骨折する事故が起きて頸椎損傷。体に麻痺が残る障害を負ってしまいました
●入院中どんな気持ちだったか?・・・
17歳18歳の多感な時期だったので「なんで自分が」とは思いました。でも「ラグビーなんてやるんじゃなかった」と言う思いは出なかった。それ以上に、時間がたっても自分の体が動かない毎日に対する悲しみや絶望の方が強かった。日が経つにつれて、未来・将来の不安が募る日々が1番が堪えた。ラグビーが嫌いだとか言うんじゃなく、もうできなくなってしまうんではないかと言う悲しみの方が強かったです。
現実に起きている状況を理解をしつつも、受け入れていくような時間を過ごしていたなと思います。それでもその時間に耐え切れず命を絶とうと言う思いも何度かあったけれども、結果としてそこまで至らなかったのは、自分でもよく耐え抜いたなと言う思いはあります。
悲しみと同時に出てきたのは将来への不安でした
そういった部分から自分を救ってくれたのは車椅子ラグビー。このスポーツの出会いが僕をまた変えてくれました。
出会いのきっかけは入院中のリハビリを担当していた作業療法士の先生から車いすラグビーのビデオを見せてもらったこと。
(20年位前は車椅子ラグビーが日本に入ってきてちょうど1 、2年位という状況)
悲しみの入院生活から、まだできるかもわからない車椅子ラグビーについてずっと調べて、自分の希望に叶うかもしれないワクワクする思いや、前向きに明日を迎えることができるんだなと言う経験ができたのはこの時でした。
歳をとったせいか、俺は絶対車椅子ラグビーなんて無理と言う右京さんに、
はじめて車いすのタックルを体験したときは、高校時代に夢中になって体をぶつけていたものと同じ感じの衝撃と熱量を感じ、スポーツをもっと頑張ってみたいなと言う気力や活力が湧いてきました。
あんなに絶望する毎日を過ごしていたのに、自分が楽しめるもの・価値あるものに出会える場所って、どこにでもあるんだな。
と、これまでを振り返りました。
来週も引き続き、お話を伺います。
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