第5スタジオは礼拝堂 第24章「焼け跡に立つ」

第5スタジオは礼拝堂 第24章「焼け跡に立つ」

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「プロローグ」はこちら

第1章:「それはチマッティ神父の買い物から始まった」はこちら

第2章:「マルチェリーノ、憧れの日本へ」はこちら

第3章:「コンテ・ヴェルデ号に乗って東洋へ」はこちら

第4章:「暴風雨の中を上海、そして日本へ」はこちら

第5章:「ひと月の旅の末、ついに神戸に着く」

第6章:「帝都の玄関口、東京駅に救世主が現れた」

第7章:「東京・三河島で迎えた夜」

第8章:「今すぐイタリアに帰りなさい」

第9章:「今すぐ教会を出ていきなさい」

第10章:「大森での新生活がスタートした」

第11章:「初めての信徒」

第12章:「紙の町で、神の教えを広めることに」

第13章:「戦争の足音が近づいてきた」

第14章:「ベロテロ、ニューヨークに向かう」

第15章:「印刷の責任者に」

第16章:「イタリアの政変で苦境に」

第17章:「警察官と一緒にNHKに出勤」

第18章:「裏口から入ってきた警察署長」

第19章:「王子から四谷へ〜マルチェリーノの逮捕」

第20回:「本格的な空襲が始まる」

第21回:「東京大空襲」

第22章:「修道院も印刷所も出版社も」

第23章:「終戦」

第24章:「焼け跡に立つ」

記録では、マルチェリーノたちの使徒職としての活動は、終戦の15日後から再び始まったとある。この記録が正確で8月30日ということであれば、それは連合国最高司令官ダグラス・マッカーサーが厚木基地に降り立った日だ。大げさに言えば、マッカーサーが葉巻をくわえて専用機バターン号のタラップを降りてきた1945年8月30日が、日本の戦後の本当の始まりの日であり、且つ文化放送誕生に向けて、聖パウロ修道会の日本支部が廃墟の中で新たなスタートを切った日とも言える。

瓦礫と化した四谷の修道院(ベルテロ著「日本と韓国の最初の宣教師たち」より)

聖パウロ修道会に与えられた使命は印刷という名のメディア活動だ。修道会はマルチェリーノの奮闘もあってカトリック・プレスセンターの仕事を任され、日本における印刷の責任を担うまでになっていた。したがって、マルチェリーノには、出版活動の再開は聖パウロ修道会の問題にとどまらず、日本のカトリック全体の再起のために優先的せねばならないという思いがあった。彼らは、印刷担当の再びパガニーニらを中心に、焼け残った印刷機材をかき集めて、2カ月余りのうちに数冊の本を出版すると言う驚異的な動きを見せた。家も焼けてしまい、着る物もままならなかったが、本を作り出版することへの情熱は戦争が終わり、今まで以上に高まっていた。

カトリック新聞の発行を委託

11月30日、日本カトリック司教協議会は機関紙「カトリック新聞」の発行を聖パウロ修道会に委託する。年が明けて1946年の春になると、伝統ある機関紙「聲」も発行された。出版事業の再開と並行して、マルチェリーノたちは、四谷の廃虚に資材を集めバラックを建て始めた。断面が半円形の細長い兵舎は、その形から「かまぼこ兵舎」と呼ばれていたが、軍隊も消えて必要がなくなった。そんな兵舎の廃材などを根気よく交渉して譲り受けたことで、何とか「修道会らしき」建物も出来上がった。そうしているうちに信徒たちも疎開先や戦地から次々に国内外の戦地や兵営から帰ってきた。当時、都内殆どのカトリック関連施設は、アメリカ軍の空襲を受け破壊され尽くしていた。そのような中、比較的被害が少なかったのが、四谷駅の東側に立つ上智大学だ。上智から皇居までは約1.5キロと近い。誤って攻撃したケースはあったものの米軍も皇居への攻撃は基本的に避けていたので、集中的に狙われることは無かった。四谷・麹町は皇居の西側だが、東側に位置する丸ノ内界隈も比較的被害が少なかった。戦争に勝った後の日本統治の青写真も描いていたアメリカは、ビジネス街の丸ノ内界隈も温存した。9月8日に、東京に入ったマッカーサーは、帝国ホテルで行われた昼食会の前に先立って周辺を歩き、鎮座するシンプル且つモダンな第一生命館(第一生命ビル)に目をつけて接収する。一週間後に、ビルはGHQに引き渡され、6年10か月に渡って接収される。周辺は多くもGHQに接収された。日比谷松本楼前会長の故小坂哲瑯さんもそのひとり。埼玉の深谷に疎開していた小坂さん一家がラジオをつけると、NHKのアナウンサーが接収施設を読みあげていたのだが、何とその中に「日比谷松本楼」も含まれていた。事前通告などは一切無い。小坂さんの父親は驚いて上京し交渉したが聞き入れられるはずもなかった。松本楼はアメリカ軍の将校らの宿舎に変えられてしまったのだが、そこで小坂さんの父親はさらに粘り強く交渉して従業員として雇ってもらうことになったのだそうだ。戦後の日本人は逞しかった。接収されたその日から松本楼も日比谷公園も「アメリカ」になってしまったので、小坂さんはパスポートを手に自宅(アメリカ)と学校(日本)の間を行き来する毎日を送ることとなる。そんな混沌とした時代に、マッカーサーの自邸代わりとなった赤坂のアメリカ大使公邸の前には、「犬のおまわりさん」などで知られる作曲家の故大中恩(めぐむ)さん一家が暮らしていた。大中さんが自室の窓を開けると、自宅で執務するマッカーサーの姿が見えた。隣の窓で家事をする美しいジーン夫人や窓から手を振る子供たちの姿も。大中さんの自宅周辺はアメリカの軍関係者の出入りが多かったが、中でも大中さんにとって忘れられない思い出がある。終戦の年のクリスマスの日、クリスチャンでもある大中家が自宅で合唱をしていると(父親の大中櫛二氏も著名な作曲家)、窓の下に米兵たちが集まってきたのだ。かれらは「一緒に歌わせてほしい」と懇願してきたので、大中家と米兵たちが皆で賛美歌を歌うなどしたのだと言う。今は天国に召された大中さんから聞いたエピソードだ。戦後日本の新しい空気の中で、キリスト教はすでに敵国の邪教ではなかった。聖パウロ修道会も新たに入会したいと言う若い日本人たちがドアを叩き始めた。人が増えるのは嬉しいが、そうなると、バラック仕立ての建物では狭すぎる。マルチェリーノたちは堅牢な建物の建設に着手する。そのような状況だからこそ、ベルテロが4年間アメリカで暮らした意味は大きかった。彼が築いた人脈で、中古衣料を大量にアメリカから輸入し販売するなどする事で資金も集まり始めた。「ララ物資」とは、終戦後、アメリカの宗教団体や慈善団体からなる「アジア救済連盟によって供与された様々な物資のこと。正式名称のLicensed Agency for Relief on Asiaの頭文字を取って「ララ物資」と呼ばれた。戦後の日本人の記憶には学校給食で配られた脱脂粉乳の印象が強いが、衣料品も多く届けられていたので、この「ララ物資」の輸送ルートも大いに生かしたと考えられる。アメリカのカトリック関係からの義援金も集まり始め、少しずつ余裕が生まれると、四谷の周囲の土地を買い足すなど、修道会の基盤づくりにも動き始めた。

ベルテロの帰国を望んで
日本も聖パウロも廃墟の中から立ち上がり、新たな歴史を刻もうとしていた。そしてマルチェリーノの頭に中にはひとつの思いが生まれてくる。それは、そろそろベルテロに戻ってきて欲しいということだ。日本にたった2人でやってきたオリジナルメンバーで盟友。様々な苦労も共有してきたベルテロだが、財政難対策のため渡米している最中に太平洋戦争が勃発、4年間も会えなくなってしまっていた。一方、焼夷弾が雨あられと降る東京と違い、ニューヨークにいたベルテロにとって、どこか戦争は遠いものでもあった。ようやく東京から届いたマルチェリーノの手紙を読んでベルテロは愕然とする。日本の状況は想像をはるかに超え、まさに絶望的なものだったからだ。王子から、都心に近い四谷に修道会が移転したこと。その四谷の建物も灰燼に帰したこと。マルチェリーノやパガニーニが官憲に身柄を拘束されたこと。皆、満足に食糧も取れずやせ衰えてしまったことなど全て初耳だった。信徒たちにも戦場から帰らなかったものや空襲の犠牲になったものがいることなどベルテロにはにわかに信じがたい話ばかりだったが、それも無理はない。戦時中は、日米間で船便の行き来もないし、電話をかけたりや電報を送ろうものならたちまちスパイ扱いだ。だから全く情報が入って来なかった。多くのアメリカ国民が、日本でアメリカ軍が行ったことを理解していなかったのと同様、ベルテロも事実を知ってそのショックは大きかった。マルチェリーノの手紙には最後に「早く日本に戻ってきて欲しい」としたためてあった。もちろん、今すぐにでも戻りたいという気持ちでいっぱいのベルテロであったが、帰りたいと言ってすぐに帰れる時代ではない。日本は廃墟となりアメリカの施政下におかれている。ベルテロはひとまずワシントンのアメリカ軍総司令部に、マッカーサー元帥に宛てた手紙を書き、日本に戻る許可を得たいと訴えた。ワシントンから届いた返事は丁寧なもので、本来は日本への入国許可を与えることはできないが、日本で長く活動してきた宣教師であるという実績を勘案して特別な許可を与えるという旨のことが書いてあった。変わり果てた日本を見たいような見たくないような、複雑な思いの中ではあったが、ベルテロはようやく日本への帰国の準備を始める。するとその準備が整う前に、早速マルチェリーノから、役所関係の手続きが整ったとの連絡が届いた。そう言えば、12年前に来日する際にも、マルチェリーノが首尾よく段取りをしてくれたことを思い出した。「パウロ神父は相変わらずせっかちだな」ベルテロは苦笑いを浮かべて手紙を眺め、マルチェリーノのバイタリティが衰えていないことを確認してほっとした。

後は日本に帰るだけだ。そう考えて、サンフランシスコの港に向かったベルテロだったが、事務的な手続きに思いのほか時間がかかり、横浜港に向けた乗船許可が下りるまでさらに半年を要してしまう。しかしその間も寸暇を惜しんでベルテロは支援金を集めて回った。ようやく1946年6月13日に、ベルテロを載せたアメリカ輸送船メイグス号が、サン・フランシスコから日本に向けて出港した。メイグス号の乗客の大半は、日本で職務に就く軍人や軍属だったが、これから日本に支店を作り事業を広げようとする民間企業の責任者たちも多くいた。そうした中に混じって、ベルテロがいた。他の乗客たちは、誰もこのイタリア人神父を「日本に戻る人」だとは思わなかったであろう。ベルデロは日本に帰れる喜びと、日本の惨状を気遣う不安で興奮が冷めないまま2週間を過ごした。ある日、甲板に立っているとベルテロの視界に陽炎のような横浜港が浮かび、その輪郭がはっきりしてきた。神戸に到着した12年前をふと思いだすが、今回あの時のような希望に満ちた思いは無い。ハイカラな洋館が立ち並んでいた港町の横浜は、あまりにも無残な姿でベルテロを迎えた。甲板にいたアメリカ人の2人組が呟いた。「横浜がこれなら、東京はもっとひどいことになっているだろうな」 ベルテロの脳裏に王子の町や、まだ見ぬ四谷の町の様子が浮かんでは消えた。

次回に続く

 

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