第21章 第5スタジオは礼拝堂「東京大空襲」
「プロローグ」はこちら
第1章:「それはチマッティ神父の買い物から始まった」はこちら
第2章:「マルチェリーノ、憧れの日本へ」はこちら
第3章:「コンテ・ヴェルデ号に乗って東洋へ」はこちら
第4章:「暴風雨の中を上海、そして日本へ」はこちら
第5章:「ひと月の旅の末、ついに神戸に着く」
第6章:「帝都の玄関口、東京駅に救世主が現れた」
第7章:「東京・三河島で迎えた夜」
第8章:「今すぐイタリアに帰りなさい」
第9章:「今すぐ教会を出ていきなさい」
第10章:「大森での新生活がスタートした」
第11章:「初めての信徒」
第12章:「紙の町で、神の教えを広めることに」
第13章:「戦争の足音が近づいてきた」
第14章:「ベロテロ、ニューヨークに向かう」
第15章:「印刷の責任者に」
第16章:「イタリアの政変で苦境に」
第17章:「警察官と一緒にNHKに出勤」
第18章:「裏口から入ってきた警察署長」
第19章:「王子から四谷へ〜マルチェリーノの逮捕」
第20回:「本格的な空襲が始まる」
第21章 「東京大空襲」
アメリカ空軍カーチス・ルメイ将軍による日本本土の攻撃の対象は、軍需工場も住宅地も見境ない殺戮作戦だった。東京大空襲と言えば3月の下町空襲を指すことが多いが、もうひとつの東京大空襲と言われる5月の山の手空襲も、下町空襲の次に大きな被害を出している。下町空襲は、本所区(現在の墨田区)、深川区と城東区(いずれも現在の江東区)、神田区(現在の千代田区)、日本橋区(現在の中央区)、浅草区と下谷区(現在の台東区)、そして荒川区が主たる空爆の対象になった。人々が密集して暮らす木造住宅密集地域だ。それ以外にも芝区や葛飾区、足立区、渋谷区など東京全般に渡って米軍は雨あられと焼夷弾を投下し、下町を火の海にした。10万人以上の人たちが犠牲になり、その数は、一度の空襲としては今も世界最悪の数字だ。ところが、国による追悼式は現在も行われていない。ちなみに当時の新聞は、見出しに「東京大焼殺」と書いている。悲しく恐ろしい言葉だが、空襲よりも的確に表現できているのではないか。空襲(空から襲う)は落とす側のB29の視点だ。しかし、彼らが地上に何が起きていたか本当に理解できていたのだろうか。焼夷弾(ナパーム弾)は、家や服や肌にまとわりついて炎を拡げていく。水をかけても毛布でくるんでも消えない恐怖の殺戮弾だった。
3月空襲を上回る焼夷弾の数
一方、5月24日と25日~26日にかけての山の手空襲は、下町ではなく、東京都心から山の手を狙ったものだった。東京大空襲・戦災資料センターの資料によると、24日の空襲では、荏原区、品川区(いずれも現在の品川区)、大森区(現在の大田区)、目黒区、渋谷区などの住宅地が空襲を受けた。520機のB29が3646トンの焼夷弾を投下。B29の数、焼夷弾の投下トン数は下町空襲を上回っている。罹災家屋約64万戸、罹災者約22万人、死者は警視庁の調べでは762人、東京都の調べでは530人。翌日25から26日にかけての空襲では、さらに凄まじく悲惨なものになった。都心地域から杉並区にかけての西部住宅地が、主に空襲を受けたのだが、都心部は下町と違って、コンクリートの近代建築も多く東京東部ほどは住宅も密集していない。そこで、米軍は油脂焼夷弾だけでなく、貫通力の強い焼夷弾も使った。まさに計算されつくした破壊行為、殺戮行為だったことがわかる。そして、この山の手空襲では、今まで攻撃を控えてきた皇居にも誤爆してしまう。現在憲政記念館がある桜田壕沿いの参謀本部が爆撃され、火の粉が明治宮殿にも類焼、宮殿が焼失した。総理大臣官邸も焼かれたが、鈴木貫太郎総理は官邸を離れていたので無事だった。そしてマルチェリーノたちが11年前に降り立ち、三河島に向けてタクシーに乗り込んだ東京駅丸の内北口にも焼夷弾が着弾して炎上し、辰野金吾が設計し、1914年に完成した美しい屋根は崩落した。それでも、駅員・乗客ともに1人の負傷者も出すことが無かったのはまさに奇跡だったとも言える。
焼け落ちて屋根の無い東京駅のホーム。しばらく乗車券の販売は、バラック小屋を建てて行っていたと言う。玉ねぎ型の屋根が復活するのは、この空襲から62年後の2007年のこと。
そして、あくる25~26日の空襲では、464機のB29が3258トンの焼夷弾と4トンの爆弾を投下。被害は、罹災家屋約16万戸、罹災者約56万人。死者は警視庁の調べで3242人、東京都の調べでは3352人という甚大な被害となった。警視庁と東京都で数字は少し変わるが、いずれにせよこの山の手空襲でも4千人近い人たちが殺されたのだ。中でも悲惨だったのは、表参道交差点付近で、安田銀行(現在のみずほ銀行)の前には、神宮方面を目指して逃げようとして行き場を失った人々の遺体が累々と積み上げられたという。山の手空襲は、罹災者は約56万人、家屋の焼失は16万6千戸に及ぶ大惨事となった。焼夷弾の雨の下には、罪の無い人々の暮らしがあった。そして、この山の手空襲で、東洋・四谷の聖パウロ修道会の建物も焼失した。
ポアノ神父の日記
修道会のメンバーのひとり、カルロ・ポアノ神父が、その様子を詳細に日記として書き残している。ポアノは、マルチェリーノやベルテロの応援のため、神父のパガニーニやキエザ、修道士のトラポリーニとともにイタリアや中国から渡ってきた4人の中のひとり。筆まめな人物で、そのリアルな記述は、空襲の様子を物語る非常に貴重な資料だ。
以下、中略しながら抜粋して紹介
「24日の21時30分ごろ、空襲警戒警報が発令。ラジオはB29の大編隊が南方洋から北上しつつあると報じている。私はベッドに入ったばかりであったが、起きて服を着て布団を畳み、下の階に運んだ。ベランダを開け、そんな場合にはいつもしているとおり、聖堂の品物を運び出した。しかし私は、『何も大変なことは起きはしない』という期待感を持っていた。それまでの何回もの爆撃は、周囲を完全に破壊していた。残っているのは私たちの家と後ろの学校、南側の谷の下の何軒かの民家、そしてお寺だけであった。私は幾つかのカバンを、防空壕に入れようか外に出しておこうかと迷った。会員たちは動いていなかった。ただ、ミケーレ修道士だけが米軍機に向かって悪態をついていた。パウロ神父は病院に行っていた。」
ポアノの日記はこのような描写で始まる。そして22時ごろ、再び空襲警報が発令された。
「一機の米軍機が飛来して来た。それはサーチライトの光に捕らえられ、青銀色に反射していた。高射砲が激しく発砲していた。しかし命中することなく、米軍機は飛び去っていった。私はふたのないもう一つの防空壕に寝布団の大きな包みを押し込み、上からしっかりと土をかぶせた。数機の米軍機が上空を通過していき、何発かの爆弾が炸裂する音を聞いた。新橋方面が火災で真っ赤になっていた。逃げる時の邪魔になると思って他の荷物も防空壕に入れた。防空壕のふたにも土をかぶせた。」
ここで、ポアノは、大事なことを思い出した。
「そうだ!ご聖体を安全な場所に移さなければ! 私はご聖体の入った器を手に持ち、倉庫の中の決められている場所に運んだ。それから外を見ようと倉庫を出た。あちこちから米軍機が襲来していた。焼夷弾がたびたび落下してきて、私は三、四回地面に突っ伏した。爆弾が落下してくるヒュー、ヒューという音が近かったからである。」
24日の23時ごろになって、空が赤く染まっていることに気が付いた。4月の2度の空襲で、四谷の修道院の周りにはほとんど建物は残っていなかったので、少し遠くまで見渡すことができる。ポアノたちはとりあえず2階に駆け上がった。すると印刷工場がある中央出版社の一帯は、火の海になっている。ポアノたちにとっては、現実のこととは思えず、まるで遠い国の出来事のように皇居方面の麹町に広がる火の海を茫然と眺めてるしかなかった。振り向いて西の方角を見やると、新宿や品川・五反田方面にも火の海が確認できた。四谷の周囲はどこも燃えている。しばらくすると、ポアノの視界に、炎に包まれて墜落してゆく米軍機の姿が見えた。3月の下町空襲を受け、日本軍側も迎撃態勢を整えていたので、実はこの時、多くの米軍機が墜落および損傷の憂き目に遭っている。ポアノは米軍機が墜落してゆくのを眺めながら、爆撃が四谷にも近づいていることに気が付いた。暗闇に向かって日本の高射砲も発砲を続けていたが、とうとう焼夷弾が修道院の南側、現在商店街がある坂下の路地に落ちた。ちょうど南風が吹いていて、焼夷弾の破片が修道院の方まで飛んできた。その時は、一瞬ヒヤッとしたものの修道院への類焼は無かった。一息ついたのも束の間、ついに真夜中になり、大きな危険が口を開けて近づいてきた。
「ヒューッという音がして、私たちは地面に伏せた!キエザ神父がすぐそばにいた。爆発の音……。爆弾が私たちの家の後ろにある学校に落ちたのだ。爆弾の破片で左側の住宅と壁に火がついた。私たちは急いでそれを消し止めた。庭から二階の私の部屋を見上げたら、そこは赤い光で輝いていた。私は心臓が止まる思いがした、家が燃えている!急いで裏手に回った。そして間違いに気づいた。家は今のところは無事で、私の部屋の窓ガラスを通して見えた赤い光は、実は燃えている学校の反射だったのだ。学校は今や巨大な燃える薪となっていた。」
風が信濃町方面の南側の谷から火の粉を運んでくる。ポアノたちが、まさに心臓が止まりそうな思いで見ていると、兵士らしき人物が近づいてきて「大丈夫か?危険はないから安心しろ」と言ってくれたが、とても信じる気持ちにはなれなかった。ポアノはその時の様子をこのように書き綴っている。
「午前零時十五分、ミケーレ修道士が庭で叫んだ。「危ない! 危ない! 水! 水!」。
庭の木に火がついて燃え出したのである。誰かが二杯ほどバケツの水をかけたが、火に包まれたお寺から立ち上る火を食い止めることは不可能だと、すぐに分かった。
火は燃える木の葉に勢いを得て、木々の間を瞬く間に広がった。賄いのおばあさんが廊下の隅にあったパンの小箱を探しにきた。もうどうしてよいのか、私たちには分からなかった。猛烈な風が、らせん状のつむじ風を巻き起こし、おびただしい火の粉や燃えている木片を運んできた。」
火の手が修道院に近づいているのは間違いないとポアノは確信した。もう爆撃機のことや高射砲の音は気にならなくなっていた。まずは自分と仲間たち、そして自分たちが今いる建物がどうなってしまうのかという不安でいっぱいだった。そしてその不安は残念ながら的中する。ポアノは綴っている。
「突然ミケーレ修道士が叫んだ、『火事だ!』と。確かに日本家屋の壁に張ってある板を炎の舌がちろちろ這っている。それはキエザ神父の部屋の窓のすぐそばだった。水はもうなく、どうすることもできない。私は家の裏に回って、洋風の建物に目を向けた。そこはすでに燃え上がっていた。もう万事休す! 生き延びること、逃げることだけを考えるべきだ!」
ポアノ神父の日記はあまりにも迫真に満ちていて、あの日の夜の光景が77年経った今も刺すような追体験を我々に強いる力がある。そうして、修道院の建物は燃え始めた。こうなると、とにかくまずは逃げることを考えねばならない。その時、パガニーニが「印刷工場に行こう!」と叫んだ。印刷の責任者であるパガニーニにとっては、印刷工場は自分の分身のようなものだった。そして物資の調達が特異なポアノは、米が入った箱を見つけて胸に抱えると東の四谷駅方向に向かって歩き始めた。建物は空に向かって火炎を吐ているように見えた。そして異様な音を立てつつ、さらに火勢を強めて燃え続けている。ポアノは「それはまるで松明のようだった。」と書き残している。悲しく叫ぶ松明だった。
-
Profile
-
1964年、奈良県生まれ。関西学院大学卒業後、1988年、文化放送にアナウンサーとして入社。その後、報道記者、報道デスクとして現在に至る。趣味は映画鑑賞(映画ペンクラブ会員)。2013年「4つの空白~拉致事件から35年」で民間放送連盟賞優秀賞、2016年「探しています」で民間放送連盟賞最優秀賞、2020年「戦争はあった」で放送文化基金賞および民間放送連盟賞優秀賞。出演番組(過去を含む)「梶原しげるの本気でDONDON」「聖飢魔Ⅱの電波帝国」「激闘!SWSプロレス」「高木美保クロストゥユー」「玉川美沙ハピリー」「NEWS MASTERS TOKYO」「伊東四朗・吉田照美 親父熱愛」「田村淳のニュースクラブ」ほか