第5スタジオは礼拝堂 第19章「王子から四谷へ〜マルチェリーノの逮捕」
「プロローグ」はこちら
第1章:「それはチマッティ神父の買い物から始まった」はこちら
第2章:「マルチェリーノ、憧れの日本へ」はこちら
第3章:「コンテ・ヴェルデ号に乗って東洋へ」はこちら
第4章:「暴風雨の中を上海、そして日本へ」はこちら
第5章:「ひと月の旅の末、ついに神戸に着く」
第6章:「帝都の玄関口、東京駅に救世主が現れた」
第7章:「東京・三河島で迎えた夜」
第8章:「今すぐイタリアに帰りなさい」
第9章:「今すぐ教会を出ていきなさい」
第10章:「大森での新生活がスタートした」
第11章:「初めての信徒」
第12章:「紙の町で、神の教えを広めることに」
第13章:「戦争の足音が近づいてきた」
第14章:「ベロテロ、ニューヨークに向かう」
第15章:「印刷の責任者に」
第16章:「イタリアの政変で苦境に」
第17章:「警察官と一緒にNHKに出勤」
第18章:「裏口から入ってきた警察署長」
第19章「王子から四谷へ〜マルチェリーノの逮捕」
1944年の春。マルチェリーノたちは、来日以来、修道会の礎を築いてきた王子の地を離れる決断をする。前にも触れたが、王子には印刷工場だけではなく軍需関連工場も多く立ち並んでいた。1887年に工兵隊が赤羽に移転して以降、板橋火薬製造所の王子工場も設置されると、軍の工場や兵舎などが次々に建設された。マルチェリーノたちが東京の地を踏んだ1930年代には、重化学工業の中心として「軍都」という異名も与えられていた。その少し埃っぽい印刷工場の空気が、マルチェリーノたちに活気や刺激を与えてくれたわけだが、日本の基幹産業を支えてきた町であるがゆえに、そのままアメリカ軍の恰好の標的になってしまった。
この年の1月から、王子は強制疎開の対象区域となるが、軍都・王子の疎開対象地域は都内の他の地域と比べてもずっと広かった。もちろん疎開を拒否することはできない。し、1944年2月から1945年5月にかけて、北区の人口は何と半減しているが、大半は疎開によるものであった。44年の夏には子供たちも学童疎開で群馬県に疎開することになる。子供たちにとっては親と引き離され、孤独と飢餓との闘いとなった。そのような中、聖パウロ修道会も王子を離れることにしたのだ。このまま軍都・王子に残ることは大変危険であった。
王子から四谷へ
そして新しい活動の場所として選んだのは、より都心に近い四谷だ。四谷には周囲に軍需工場は無く安心と思われた。マルチェリーノは、西洋風の瀟洒な建物や倉庫、そして大好きな「庭」のある建物を見つけた。それだけではない。マルチェリーノがつかんだもっとも大きな功績と言って良いのは「カトリック・プレスセンター」の仕事であったが、四谷からカトリック・プレスセンターは徒歩圏にあり職住接近であった。そのカトリック・プレスセンターの敷地内で印刷を続けることもできたので、四谷はまさに一石三鳥と言って良いポテンシャルの高い場所だった。とは言え、戦時中で、しかも負け戦であることが隠し切れない状況にあって、とにかく日本はモノ不足だった。「欲しがりません、勝つまでは」と皆が叫んでいる時代に、タクシーや運搬車を使って引っ越しなどという悠長なことは許されない。当時はほとんどの人がリヤカーを引いての引っ越しだった。マルチェリーノたちも例にもれず、修道院の資材、中でも重い印刷機材をリヤカーに積んで、十数キロ離れた四谷へ、坂を上り下りしての重労働の引っ越しとなった。ミケーレ修道士は何日もかけ、日本人の若い信者の協力を得てひたすらリヤカーを引き続けた。そのような奮闘があって、聖パウロ修道会は無事、1944年の5月末に四谷への引っ越しを完了する。なおマルチェリーノだけは、そのまま王子教会に留まることになった。
1944年7月になると、中国の南京で活動をしているテスティ・ヴィンチェンツォ神父が、日本語を学ぶために来日した。テスティは日本語の勉強をしながら、印刷工場で校正の手伝いをしてくれ、マルチェリーノたちはおおいに助かった。なぜかと言えば、カトリック・プレスセンターが、外国人向けの『仏日辞典』の組版作業に追われていたからだ。戦争の影響は印刷業界にも大きな影響を与えていて、仕事を断念した同業者から印刷機械と共に、仏日辞典を作る作業を引き継いだため、修道会のメンバーも手が回らなくなっていた。この仏日辞典制作の作業は、結局、1945年に印刷工場がアメリカ軍の爆撃を受けたことにより悲しい最後を迎えるのだが、当時のマルチェリーノ達は知る由も無い。修道会には、イタリア大使館の手配で2人のイタリア人の船員たちも印刷工場に助けに来てくれていた。こうしてイタリア人たちは、異国の地で助け合いながら、戦禍の中で使徒職活動を続けていた。コメもパンも配給はみるみる減り、日本全体にとって飢餓との闘いが始まっていたが、日本語も話せないテスティ神父は、なぜか食料を調達してくる名人だった。彼の働きによって、マルチェリーノやパガニーニたちは何とか糊口を凌ぐことができたのであったが、食事の量は激減していた。キエザは自身が撮影し現像した一枚の写真を見つめて考え込んでいた。そこには、別人のようにやせ衰えた修道院のメンバーたちが写っていた。
マルチェリーノとパガニーニの逮捕
このような厳しい生活の中でも、聖パウロ修道会は8月20日、日本創立10年を、新天地の四谷で迎えることができた。式典にはパウロ・マレラ教皇施設も列席し、10年前にマルチェリーノたちがバチカンの推薦も持たずに日本にやって来て皆を驚かせた時のことを笑い話にして花を咲かせた。あれから10年も経ったのだ。自分たちも変わったかもしれないが、日本という国も母国のイタリアもずいぶん変わった。思えば、この日の式典は戦時中においては最後の楽しい語らいの日であった。
日本創立10年の 式典の数日後、パガニーニは逮捕された。なぜかはわからない。日本政府を批判したわけでも無いし、バドリオを支持したわけでもムッソリーニを非難したわけでもない。しかし、その恐怖の日は突然やってきた。四谷の修道院に現れたのは、私服の刑事だった。彼らの態度は最初から攻撃的で、パガニーニは激しい口調で数時間に渡って尋問を受け、所持品を調べられた。警察は告げた。「お前を署まで連行する。」パガニーニは麹町警察署に連れていかれる。呆然とする修道院のメンバーにさらにショッキングな一報が伝えられた。マルチェリーノもまたほぼ同時に王子で逮捕されていたのだ。一体何が起きているのかわからないまま、キエザもトラポリーニも椅子に腰を落として考え込むことしかできなかった。考えられる理由はひとつだけ。トラポリーニの時と同じように、どこかの誰かが、「あの外国人たちはスパイだ」と偽りの密告をしたのだ。マルチェリーノを捕らえに来たのは、気のいい王子警察の署員ではなく、泣く子も黙る特高(特別高等警察)で、それはパガニーニにおいても同様だった。戦況が厳しくなり、モノも不足し窮乏する中で、人々は皆、懸命に虚構の犯人捜しをしていた。「こんなはずではない。こんな苦しい生活になったのは、きっと誰かが罠を仕組んでいるのだ。」人心はただ荒れるばかりであった。
ちなみに今回もまた、陸軍の憲兵が動こうとしていたことが後からわかってきた。むしろ特高が先に動き、全員ではなくリーダー格の2人を逮捕することで決着を図ったようだった。憲兵に連れていかれた場合、拷問のような過酷な取り調べが待っていた可能性も否定できない。そう言った意味では「不幸中の幸いであった」とも言える。結局は、外国人であるか否かでも、バドリオ派かムッソリーニ派かが問題でもない。怪しいと目論んだ人間(あるいは怪しくなくても気に食わない人間)は片っ端から、特高や憲兵の餌食になっていった。
とにかく、中心メンバーの2人が不条理に逮捕されてしまった修道会のメンバーは、落ち込むしかなかった。ピンチでも盛り上げる力のあるマルチェリーノは、文京区内の勾留施設の中だ。残されたメンバーたちも皆、「次は自分なのではないか」と眠れない日々が続く。そのような中でも、警察はマルチェリーノとパガニーニに対して食事を差し入れる許可を与えてくれた。警察が、差し入れ係に選んだのはテスティであった。スパイ活動疑惑が問題であるならば、日本に来たばかりのテスティがもっとも怪しく無かったからだ。差し入れと言っても贅沢なものは何も無い。賄いさんが作ってくれた「すいとん」など質素な食事を包んで、テスティはいそいそと警察署に持っていくことを繰り返していた。2週間経って、ようやくパガニーニが「嫌疑不十分」とのことで釈放された。もちろん、嫌疑など最初からあるわけもない。
一方、リーダーであるマルチェリーノの勾留は続く。テスティ以外のメンバーも一度だけマルチェリーノを見舞うことが許された。会話は日本語を使うことが条件だ。鉄格子の中にいたマルチェリーノは別人だった。2畳間に数人が押し込まれていて汗の臭いで満ちている。マルチェリーノはトレードマークの眼鏡をかけていなかった。髪も髭も伸びたままで、顔色も青白い。胃潰瘍も悪化しているように見える。あの大声のマルチェリーノが、まるで蚊の鳴くような声で話すことにも驚いた。会う前には冗談を言ってマルチェリーノを笑わせて元気づけるつもりだった。しかし、とてもじゃないが、冗談を言える空気ではない。しかも警察が見張っている中で、うかつな話をしようものなら、マルチェリーノにも自分たちにも危険が及ぶ可能性もある。同室の男たちの、険しい視線も気になった。面会の帰り道、4人は同じことを考えていた。それは、マルチェリーノが死を覚悟しているのではないかということだった。暗い気持ちで4人はとぼとぼと四谷に戻っていったのだ。
勾留されて1か月半後、地獄のような日々を耐え抜いてようやくマルチェリーノは解放された。よくぞ無事で帰ってきたと、修道院の日本人の信徒も集まり、マルチェリーノの帰宅を心から祝った。数日後、カトリック・プレスセンターにおける仕事も何とか再開した。「これ以上、ひどいことは無いだろうな。」マルチェリーノにも笑って答える余裕が戻ってきた。しかし、その約8か月後に、さらにひどい事態が待っていた。それは、東京大空襲だった。
-
Profile
-
1964年、奈良県生まれ。関西学院大学卒業後、1988年、文化放送にアナウンサーとして入社。その後、報道記者、報道デスクとして現在に至る。趣味は映画鑑賞(映画ペンクラブ会員)。2013年「4つの空白~拉致事件から35年」で民間放送連盟賞優秀賞、2016年「探しています」で民間放送連盟賞最優秀賞、2020年「戦争はあった」で放送文化基金賞および民間放送連盟賞優秀賞。出演番組(過去を含む)「梶原しげるの本気でDONDON」「聖飢魔Ⅱの電波帝国」「激闘!SWSプロレス」「高木美保クロストゥユー」「玉川美沙ハピリー」「NEWS MASTERS TOKYO」「伊東四朗・吉田照美 親父熱愛」「田村淳のニュースクラブ」ほか