「第5スタジオは礼拝堂~文化放送 開局物語」第9章 今すぐ教会を出ていきなさい

「第5スタジオは礼拝堂~文化放送 開局物語」第9章 今すぐ教会を出ていきなさい

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「プロローグ」はこちら

第1章:「それはチマッティ神父の買い物から始まった」はこちら

第2章:「マルチェリーノ、憧れの日本へ」はこちら

第3章:「コンテ・ヴェルデ号に乗って東洋へ」はこちら

第4章:「暴風雨の中を上海、そして日本へ」はこちら

第5章:「ひと月の旅の末、ついに神戸に着く」

第6章:「帝都の玄関口、東京駅に救世主が現れた」

第7章:「東京・三河島で迎えた夜」

第8章:「今すぐイタリアに帰りなさい」

第9章「今すぐ教会を出ていきなさい」

 シャンボン大司教から「今すぐイタリアに帰りなさい」と諭されたマルチェリーノとベルテロであったが、ひとまずサレジオ会が身元引受人になってくれた。マルチェリーノは、生来の強気な性格と抜群のプレゼンテーション能力で、シャンボン大司教に対して、メディアを使徒職とする自分たちを日本に残すことがいかにカトリック教会全体にとって有用であるかを粘り強く訴え続けた。一方、東京大司教区にも事情があった。ここで登場するのが、ホロコーストの殉教者として知られるコルベ神父だ。ポーランド人の神父だったコルベ神父は、ナチスに抵抗して逮捕され、アウシュビッツ強制収容所に送られた後、ユダヤ教徒のためにもカトリック教徒のためにも祈り続け、最後は身代わりとなって餓死室に送られたことで知られる。ガス室ではなく餓死室だ。餓死室の中でも賛美歌を歌い続けたと言われるコルベ神父は1982年にローマ教皇ヨハネ・パウロ二世によって列聖されている。列聖とは、聖人の位に叙せられることだ。そのコルベ神父は日本でも布教活動を行っていて、1930年に長崎に入り、約6年間滞在したのだが、コルベ神父も、実はバチカンの許可を取ったわけではないようなのだ。そのコルベ神父の一件があって、今後新しい人を許可なく教区の中には入れないという決議が取られたとマルチェリーノは、後に語っている。ただし、この話はベルテロの手記の中には無いので、何か別の事情があった可能性も考えられる。

いずれにせよ、2人が歓迎されたわけではないことだけは確かだ。少なくともシャンボン大司教にとって2人の行動は、決して愉快では無かった。しかしめげないマルチェリーノは、ひたすら訴え続ける。「これからは出版や映画やラジオでキリストの教えを広めてゆく必要があるのです。社会的なコミュニケーションを通じた福音宣教なのです!」「そして日本人は世界でも類まれなほど、庶民に至るまで読み書きができ、出版による布教がもっともふさわしい国なのです」このマルチェリーノの主張には説得力があった。「寺子屋制度」が功を奏して、江戸時代にはすでに識字率が7割を超えていたと推定される日本。特に江戸や京都、大坂といった都会では字の読めない人の率が非常に低かったと考えられている。戦後のGHQの調査でも、日本人で字の読めない人は全国平均で2%以下だ。現代よりも近代の日本の方がずっと教育というものを大事にしていたし、それが国家の隆盛につながっていたと言えるのかも知れない。詳しい統計は無いものの、当時のイギリスやフランスの識字率はずっと低かったと言われる。日本では、庶民も普通に本を読みこなすことへの驚きは、シャンボン大司教もよく理解していたのではないだろうか。そういったマルチェリーノの必死の訴えに根負けし、シャンボン大司教は、少しずつ胸襟を開いていく。

「確かに、冷静になって聞いてみれば、この男のいう事も一理あるな」シャンボン大司教は、そう考えるようになった。シャンボン大司教は、4人いる評議員を説得しつつ、自身も熟慮を重ねた結果、ひとつの判断に至る。「マルチェリーノ神父の説明は、新奇な感じはするが、全面的に評価できる」

ついにシャンボン大司教が2人の日本滞在を認めてくれた。「メディアを通じて教えを広めるという方法は、おとなしい日本人の性格に合っているかもしれない」とシャンボン大司教は理解した。マルチェリーノの粘り勝ちだ。ただしシャンボン大司教は、2人が日本において、まず日本語を学んだ上で、布教活動を行うところまでは認めたが、出版活動を行うなどのいわゆる使徒職を認めたわけではなかった。仕事はするなというわけだ。それは霞を食いながらただ居るだけということを意味する。

戦前の三河島教会(提供:サレジオ修道会)

マルチェリーノは考えた。なぜこのような事態になってしまったのだろう。バチカンの許可をもらい晴れて日本の土を踏めば、こんなに大変な思いをすることは無かった。ローマから唯一届いたのは、創立者アルベリオーネ神父からの1通の手紙のみ。そこには「あなたたちが無事、東京に着いたことを神に感謝しています。健康に留意しなさい。お祈りし、ピアチェンツア神父様に感謝しなさい」などとしたためられていたが、それ以上の言及は無かった。考えれば考えるほど、ピアチェンツア神父には感謝するしかなかった。このような苦境の中でも、ピアチェンツア神父らサレジオ会のメンバーは2人を仲間として迎え入れ、常に温かくもてなしてくれたのだ。

彼らのお陰で、2人はその年のクリスマスも、あくる1935年の新年も、三河島教会で楽しく迎えることができた。日本で初めて迎えるとても思い出深いクリスマス。サレジオ会の神父やシスターのみならず信者達ともすっかり仲良くなり、彼らに対して「家族なのだ」という思いを強く感じた。「聖パウロとしての出版の使徒職を始められるまで、この教会で暮らし続けたい。シャンボン大司教も日本滞在を認めくれたし、ひとまず大丈夫だろう」そのようなことまで考え、2人は新世界での生活に少しずつ馴染み始めていた。

しかし、そんな三河島生活に突然、終わりの日がやってきた。ある日のこと、ピアチェンツア神父にシャンボン大司教から電話がかかってきたのだ。シャンボン大司教は電話口で告げた。「2人のイタリア人はそろそろサレジオ会から出てもらってください。あなたたちに頼るのではなく、どこかほかの横浜に近い場所で自活させねばなりません。」三河島教会のいわば大家は東京大司教区なので、出て行けと言われれば出ていかねばならない。そもそもが一時的な寄宿なのだ。

ピアチェンツア神父は2人に声をかけた。「マルチェリーノさん、ベルテロさん。こちらに来ていただけますか?」いつも笑顔のピアチェンツア神父が、妙に神妙な面持ちだ。嫌な予感がし、指先にヒヤリと冷たさを感じた。ピアチェンツア神父は2人に対して、こう言った。「マルチェリーノさん、ベルテロさん。落ち着いて聞いて下さい。私たちの会と聖パウロ修道会は誕生の地も同じビエモンテ州で、出版が大事だという考え方も近い。私たちは、あなたたちがこのままずっと寄宿してくれても良いとまで思っていました。しかしシャンボン大司教から今日連絡があり、それではダメだと言うのです」ピアチェンツア神父の表情は苦渋に満ちていたが、マルチェリーノもまた泣きたい気分だった。しかし、これ以上、ピアチェンツア神父に心労をかけてはいけないという思いも強く湧いてきた。ピアチェンツア神父は言葉を続けた。「あなたたちがこの教会を離れても、私たちとあなたたちの友好関係はこれからも変わりません。慣れない日本では家探しも大変でしょうから私たちが手伝いますし、これからも困ったことがあれば私たちが力になります」

マルチェリーノはショックを隠しながら、眼鏡の位置を急いで直すと口を開いた。「ピアチェンツアさん、承知しました。何の異論もありません。今まで面倒を見て頂いて本当にありがとうございました」

「力になれず申し訳ありません。これからも何でも相談してください」ピアチェンツア神父は2人が状況を理解してくれたことに安堵の表情を浮かべて席を立った。マルチェリーノはベルテロの方に改めて向き直り言った。「ロレンツォ神父、貸家を探しに行こう。そうする方が私たちのためになる。私たちは後にきっと日本の聖パウロ修道会が、貧しい中でも設立したことを感謝することだろう。さあ、行こう!プリモ・マエストロがお祈りしてくださっている。おヒゲの神父、ピアチェンツァ神父も私たちを決して見捨てはしないだろう」

ロレンツォはベルテロのファーストネーム、プリモ・マエストロとは「第一の先生」つまり創立者アルベリオーネのことだ。ピアチェンツア神父は、豊かなあごひげを蓄えていた。おヒゲの神父と呼ぶほどに打ち解けていた。

とりあえず三河島は出ていかねばならない。横浜に近いところとシャンボン大司教が言った意味は、パリ外国宣教会が設立したカトリック山手教会の近くでマルチェリーノたちを見守りたい、もしくは見張りたいという思いがあったと考えられる。

現在のカトリック山手教会(関東大震災で倒壊し、1933年に再建)

しかしまずマルチェリーノたちが探したのは、三河島と遠くない杉並区・高円寺にある貸家だった。ところが無事契約したはずなのに、すぐに契約を一方的に破棄されてしまう。理由は「お金を持っていないことがばれてしまったから」だ。2人の行く先々に貧しさがつきまとう。シャンボン大司教からも高円寺の家主からも出ていけと言われ、困り果てた2人だったが、ようやく見つかったのが、現在の大田区大森の一軒家だった。ここだと、横浜のなるべく近くにと言っていたシャンボン大司教の意に沿ってもいる。大森と言っても、国鉄大森駅のそばではなく、もう少し海側で京急の大森町駅から歩いてすぐの大森山谷というところだ。当時は駅名もまだ大森町ではなく大森山谷と呼んでいた。まだ大田区ではなく大森区だ。都民ならご存じだろうが、大森区と蒲田区が合併した際に、名前を一文字ずつ取って大田区となったのは戦後のこと。1935年は、まだ東京市に編入されて2年あまり。東京郊外ののどかな場所だった。

当時は、借家の場合、家の持主(大家)の連絡先が塀に書いてあり、その電話番号に連絡をして下見や交渉をするという仕組みだった。家探しには、ピアチェンツア神父に命じられたサレジオ会の日本人神学生がつきあってくれていたので、その神学生が連絡をすると、しばらくして大家が現れた。マルチェリーノたちは大家に頭をペコリと下げた。徐々に、日本の習慣も身につき始めていた。マルチェリーノ、ベルテロ、神学生、そして大家の4人で家の中に入る。家は小さいものの、とても清潔で据え付けの家具も大事に使われていた。マルチェリーノは、靴を脱いで畳というものの上を初めて歩いた。スリッパが置いてあるが、これは廊下を歩くためのものであって畳の上を歩くものではないと神学生に教えられた。部屋の真ん中には丸く足の短いテーブルが置かれ、周りに座布団が並べられている。庭は案外広い。植木が並べられ、庭石が点在し、草花が咲き、そして小さな池があった。その箱庭的な美しさに、ベルテロは感動して言葉を無くした。マルチェリーノは庭に降りて花を摘み、上着のポケットに挿してみた。すると、そのタイミングで大家の家族であろうか、着物姿の少女がお茶を運んできてくれたのだ。まるで桃源郷じゃないか。マルチェリーノたちはこの家をすっかり気に入ってしまったが、気持ちを表情に出すと大家に足元を見られる。おもむろにカバンから日伊辞書を取り出すと、通訳の神学生も交えて真剣に交渉を始めた。3時間に及んだ交渉で、ようやく双方は合意に達した。月の家賃は30円、イタリアのリラに換算すると70リラ。その時、アルベリオーネ神父に渡した2人あわせて5万リラの札束がふと頭に浮かんだが、懸命に振り払った。金ならきっと何とかなる。ついに見つけた東京の我が家。今までは仮住まいだったが、これからは本当の意味で日本での新生活が始まるのだ。いや、本当に生活していけるのだろうか。不安と喜びが交互に襲ってくる。それは三河島を離れることになった寂しさと新居を見つけた喜び、一方、これからの不安とそれを凌駕する熱い思い。いろいろな考えがない交ぜとなって、マルチェリーノとベルテロを包んでいた。

次回に続く

 

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