「第5スタジオは礼拝堂~文化放送 開局物語」第7章 東京・三河島で迎えた夜

「第5スタジオは礼拝堂~文化放送 開局物語」第7章 東京・三河島で迎えた夜

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「プロローグ」はこちら

第1章:「それはチマッティ神父の買い物から始まった」はこちら

第2章:「マルチェリーノ、憧れの日本へ」はこちら

第3章:「コンテ・ヴェルデ号に乗って東洋へ」はこちら

第4章:「暴風雨の中を上海、そして日本へ」はこちら

第5章:「ひと月の旅の末、ついに神戸に着く」

第6章;「帝都の玄関口、東京駅に救世主が現れた」

第7章「東京・三河島で迎えた夜」

神戸から国鉄特急つばめに乗って、1935年12月10日の朝に東京駅に到着したマルチェリーノとベルテロ。押し寄せる人の波に流されながら、コンコースを抜けて丸の内北口の改札から外に出た。

現在の東京駅丸の内北口 修復工事で美しい天井の美しいレリーフが復活した

円柱にもたれて通勤、通学ラッシュの風景を眺めていた2人の前に現れたのは、サレジオ会東京支部のピアチェンツァ神父。年は40歳過ぎで背がひときわ高い。小柄なマルチェリーノは、見上げながらピアチェンツァと握手をした。見知らぬ異国で不安にかられる中、救世主は満面の笑みを浮かべて挨拶してくれた。

「おはようございます マルチェリーノ神父とベルテロ神父ですね」

「そうです。あなたは、ピアチェンツァ神父ですか?」

「はい、ピアチェンツァです。遅れてしまってごめんなさい。お二人のことは、上海のスッポ神父から聞いていますよ。長旅、本当にお疲れ様でした。では、早速参りましょう」

そう言いながら、ピアチェンツァは膝を折って2人のバッグを軽々と持ち上げた。ピアチェンツァ神父の挨拶を聞きながら、マルチェリーノは、はっとした。

「ところでピアチェンツァさん、あなたのお生まれはどちらですか?」

「私は北イタリアのピエモンテの出身なのです。訛りがありますか?」

「やはり、そうですか!実は私もピエモンテのトリノの生まれです」

「そうですか!同郷ですね」

ピアチェンツァはもう一度笑顔を見せた。初対面なのに、まるで懐かしい友と再会したような気分だ。こんな遠い異国の地で、同郷の人間が迎えに来てくれた神の導きにマルチェリーノは感謝した。ビエモンテ州はイタリアのもっとも北西部に位置し、州都はマルチェリーノが生まれたトリノ。聖パウロ修道会が生まれたアルバもビエモンテ州に位置している。一方、ベルテロはビエモンテ州の北側に隣接し、スイスやフランスにより近いヴァッレ・ダオスタ州の生まれで、すぐお隣。サレジオ会自体が、やはりビエモンテ州で生まれているので、サレジオ会は聖パウロ会にとって近所に住む兄のような存在だったと言える。3人は歩きながら、ひたすら故郷の話に花を咲かせた。すると、ピアチェンツァの兄がアルバ近郊の町の主任司祭を務めていることもわかった。マルチェリーノは、ピアチェンツァとの会話の楽しさで疲れを忘れた。よく見ると、ピアチェンツァは体格が良いが少し足が不自由そうにみえた。聞くと、ピアチェンツァはかつて将校で、戦争で負傷したという話をしてくれた。

ピアチェンツァの後ろをついて丸ノ内北口へ

ピアチェンツァとマルチェリーノ、そしてベルテロは、駅の人混みを抜け、ようやく丸ノ内側北口から外に出て、深呼吸した。正面には大きな広場が広がっていて、北側方向には当時東洋一と呼ばれた8階建ての丸ノ内ビルヂングが堂々とそびえていた。冷たく乾燥した空気に触れながら「ビルヂング」を眺める。「ビルディング」ではなく「ビルヂング」というのは三菱地所のビルの特徴で、大正時代から2002年までに建てられたビルは「ビルヂング」だった。今も丸ノ内に15棟が残る。立地場所も必ず駅前の要所を抑えていて、当時は三菱財閥三代目総帥の岩崎久弥も健在。旧「丸ビル」は政商と呼ばれた三菱にふさわしい風格と勢いを身に纏った近代建築だった。しかし、この(旧)丸ビルは不運にも1923年に完成するとすぐに関東大震災に遭遇し、大きな被害を受けてしまい、修復工事には約3年の月日を要した。

写真は、いずれも丸ノ内にあったビルの数々。写真上が、丸ノ内ビルヂング 下右が東京海上ビルヂング 下左が郵船ビルヂング 当時の風景が浮かぶ(国立国会図書館所蔵)

タクシー乗り場でボンネット型の黒いタクシーに乗り込むと、運転手が無言で頭を下げた。ピアチェンツァ神父が、流暢(と思われる)日本語で行き先を告げ、タクシーは大手町の方向にすべり出る。三菱一号館の赤レンガが眩い。中世から変わらぬ景色が広がるイタリアからやって来たマルチェリーノやベルテロにとっては、ハイカラな洋風建築が不自然な形で点在している東京の街並みが少し奇妙なものにも思えた、大手町のオフィス街を抜け、外堀通りを超えるととたんに庶民の街並みが出現する。かすりの着物を着た女性や、駅の中でも見かけた脚絆を巻いた職人、地べたに腰掛け煙管で煙草をのんでいる男たちもいて、マルチェリーノには駅の喧騒よりも庶民の町ののどかさの方がずっと好ましかった。

初めての東京は荒川区三河島

神田、お茶の水を抜けて湯島へ。上野池之端を過ぎると、ますます庶民の町の色合いが濃くなっていく。途中、ピアンチェンツァは、左手に見える立派な正門を指さして「ここが東京帝国大学という日本でもっとも優秀な学生が学ぶ学校だ」と教えてくれた。日暮里から国鉄の線路を渡ると、質素な暮らしも鮮明になったきた。東京駅からタクシーに乗ること30分。「さあ、着きましたよ」とピアチェンツァ神父は言った。「ここは、三河島というところです。どちらかと言えば貧しい人々の住む地区です」と説明した。ここには、サレジオ修道会の修道院があり、ピアチェンツァ神父が管理する小教区教会があった。

東京都荒川区三河島は江戸時代、三河島大根などで知られたのどかな農村だったが、明治以降の殖産興業政策で、荒川を工業用水として利用するため中小の工場が立ち並ぶ町となった。集団就職者や朝鮮半島の出身者らも多く集まり、西洋列強に追いつき追い越せで日本経済を下支えした街だ。1932年に東京市に編入され、三河島や日暮里など4つの町が合併して誕生したのが荒川区で、当時は東京都内で最も人口の多い区だった。小さな家が密集し、どこも子沢山だったので、カトリック東京大司教区のシャンボン大司教が、青少年の育成のため、この地にサレジオ会を招いたのだ。

明治通りに面したサレジオ会のカトリック三河島教会。保育園が隣接され、YMCAなどの活動も盛ん。今も子供たちの育成に大きく貢献している。

教会の目の前には荒川公園があり、その中に、荒川区役所がある。公園は地元の人たちの憩いの場だ。近隣には荒川郵便局や荒川警察もあり、ここが街の行政機能の中心をなしているとわかる。そんなわけで、当初は荒川区ではなく三河島区になる予定だったという。今は三河島の名前は駅名などでは残るものの、町名からは失われ、住所は「荒川」になっている。一説には、多くの死者を出した国鉄三河島駅列車事故の影響だとも言われているが、正確なことはわからない。ちなみにマルチェリーノたちが三河島の土を踏んだ当時、そばには、千住製絨所(せいじゅうじょ)という衣服を作る公営の工場もあった。その場所は戦後、東京オリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)の本拠地、東京スタジアムになり、さらに荒川総合スポーツセンターに生まれ変わった。水泳、平泳ぎで五輪金メダリストのとなった北島康介選手がトレーニングを積んだ場所として有名だ。現在では、共働き夫婦が子育てがしやすい区、暮らしやすい区として東京都内でもランキング1位に入る荒川区だが、マルチェリーノたちが着いた当時は、今よりずっと貧富の格差が横たわる下町だった。街の景観も、その後の東京大空襲で大きく変わったことは言うまでもない。

初めて東京で迎えた夜、ピアチェンツァ神父はマルチェリーノたちに日本、東京におけるカトリックの活動に着いて様々な説明をしてくれた。お金はないので、まずは落ち着くまでこちらに厄介になるしかない。そうでないと日本に着いて早々に路頭に迷ってしまう。ピアチェンツァ神父は「いつまででも居てください」と温かい言葉をかけてくれた。マルチェリーノとベルテロは東京駅に着いてから今まで一つのことを考えていた。それは奇妙な発音と不思議な響きを持つ日本語についてだ。「この謎めいた言葉と我々は格闘せねばならない。果たしてこの日本語というものを覚えることはできるだろうか」常に強気なマルチェリーノも、この日本語との闘いには弱気の虫が湧いてくる思いで、眠りについた。

次回に続く

 

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