「第5スタジオは礼拝堂~文化放送 開局物語」第1章 それはチマッティ神父の買い物から始まった

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前回「プロローグ」はこちら

 

第1章「それはチマッティ神父の買い物から始まった」

まずはこの写真をご覧頂きたい。

前週のプロローグで、文化放送の成り立ちがいかに他の放送局と違っていたかについて触れたが、この写真ほど雄弁にそのことを物語っている一枚は無い。彼らが文化放送の設立に関わったイタリア人たちで、そしてこの写真は1950年代前半に、何と文化放送社内で撮影されたものだ。この写真からは日本的なものを想像することすらできないが、よく見ると、当時放送に使用した大型のテープが平積みされているのが確認できる。ここが放送局なのだという証明のために置いたものかも知れない。リールテープと呼ばれたこのようなテープは、実は私が平成の時代に入っても使用していたものとほぼ同じだ。そのことに改めて気づき、そして驚く。場所も同じ文化放送の社内。つまりこの一枚の写真とリールテープが、彼ら神父たちと私を、時空を超えて繋ぐ魔法の鍵だ。

さて、この写真には重要な人物たちが写っている。まず向かって一番左の人物は、聖パウロ修道会の創立者ヤコブ・アルベリオーネ神父。フランスに近い北イタリアのフォッサーノで生まれ、アルバの神学校の教授となる。1914年に聖パウロ修道会を、翌年には女子修道会を設立した。1971年に亡くなったが、2003年に、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世によって列福されている。列福とは、聖人に次ぐ地位として認められた福者のことを言う。偉人だ。ローマから(当時の聖パウロ修道会の本部はローマにあった)来日し、自分たちが創り上げた放送局の見学に訪れたのだろう。礼拝堂である第5スタジオでミサも捧げたのではないだろうか。

そして、その隣に座っている左から2番目のメガネをかけた人物が、物語の主人公だ。カソック(神父が着る黒い立て襟の服)に身を包んだ小柄な体躯とその上に乗った大きな顔。顔の上半分は占めようかと言うほど大きく広がった額。特徴的なのは、眼鏡の奥からこちらを見つめる鋭い眼差し。怒っているようにも、笑っているようにも見えるが、意志の強い人物であることは間違いない。何枚かの集合写真の中でも、必ずこの人物に目がいってしまう。この「くせの強そうな」イタリア人の名前は、パウロ・マルチェリーノ。北イタリア•トリノ生まれで正真正銘カトリックの神父。そして文化放送の創立者だ。

 なぜイタリア人の神父が日本のラジオ局を作ったのか?どう考えてもピンとこない話なのだが、簡単に言えば、北イタリアでひとりの神父が、別の街の修道院まで本を買いに出かけたからということになる。簡単と言ったが、どうやら簡単じゃ無さそうだ。煙にまくような話で恐縮なのだが、本当なのだから仕方がない。これからじっくりご説明していこう。

70年前の四谷・若葉の風景

文化放送と言うラジオ局。 開局するまでも、そして開局してからも大変なことばかりだったようだ。黎明期には経営危機に陥ったり、「内紛放送」と言うありがたくない異名を頂戴するほど経営陣の暗闘も続いた。そのような中でも「S盤アワー」や「ユア・ヒットパレード」などのヒット番組にも恵まれ、何とかやってきた。それは土居まさるさんやみのもんたさん、落合惠子さんと言った人気アナウンサーたちが登場するよりもずっと前の話。むかしむかしの物話だ。

聖パウロ修道会は東京四谷の若葉町に本部を構え、若葉修道院と呼ばれている。四谷といえば、おいしいたい焼き屋さんや服部半蔵ゆかりのお寺、映画「君の名は」で描かれアニメの聖地となった須賀神社。そしてお岩稲荷も有名だ。

都心の中でも、ひときわ色濃く下町の風情を残すこの街の一角に、若葉修道院は今もその瀟洒な姿でひそやかに佇んでいる。修道院の隣には、かつて不思議な建物が建っていた。最初の名前は「聖パウロ会館」。いかにもカトリックという感じの新ロマネスク様式の建物で、ステンドグラスのようなファサードが特徴的だった。この「聖パウロ会館」の2階には礼拝堂として利用できる第5スタジオがあった。1階の小さなロビーから螺旋階段を上ってゆくと、別世界にいざなうようなスタジオの扉が待っている。本当にここが放送局なのかというほど、ひんやりとした空気が漂う、心安らぐ一角であった。

扉を開けて中に入ると、間接照明に照らされたバレーボールコートくらいの広さのスタジオが広がっている。そして、その奥に、祭壇としか思えないステージが鎮座ましましている。この第5スタジオは、開局後、長い間、礼拝堂として使用されていた。放送局開局の免許が下りて日本文化放送協会と名前を変えることになるこの「聖パウロ会館」そのものが教会の役割を果たしていたということになる。その役割は開局後も続いた。分厚い壁でできたこの堅牢な建物は、焼野原に点在するバラック小屋がようやく家やビルに姿を変えつつあった1951年、東京・四谷の街に突如として堂々とした姿を現し周辺に住む人たちを驚かせた。

しかし戦後復興が進み周囲に高層ビルが建ち並び始めると、少しずつ目抜き通りから隠れてゆく。路面電車が走っていた新宿通りが拡幅され、雑居ビルやマンションが新宿通りの両脇を固めると、建物はビル群の後ろに隠れ、路地裏の住宅地の中に溶け込んでいった。結果的にこのことによって、目抜き通りの角を曲がると、突然下町のような住宅地が広がり、さらにその奥にラジオ局が姿を見せるという洒落た仕掛けの風景も生まれた。

小学校を左手に眺めながら歩くと、教会のような建物が「ようこそ、いらっしゃい」と言わんばかりに、ゆったりと構えていた。今思い出しても、この2006年に姿を消した旧社屋は、独特の奥深さを感じさせる古いながらも魅力的な空間だったと思う。

これからご紹介してゆくのは、そんなラジオ局・文化放送が生まれた当時の、少しユーモラスで、時には深刻過ぎて笑えないエピソードの数々。イタリアから日本に渡り、想像を超える艱難辛苦に耐えながら、時には怒り、時には笑いながらも決して泣くことなくひたすら走り続けた、かなり無鉄砲な神父の闘いのドラマだ。75年前、焼野原の中から蘇り、再び歩み始めた東京の景色も想像して欲しいが、まずは、皆様とともに、軍靴の音が聞こえ始めた97年前のイタリアに時間旅行をしてみよう。

文化放送のルーツは北イタリアにあり

北イタリア、トリノとジェノバの中間に位置する山間にアルバという町がある。現在の人口は3万人あまり。トリュフや桃、ワインの生産で知られる農業が盛んな所だ。美しいブドウ畑が広がるのどかな「田舎町」に、カトリックに属する聖パウロ修道会が、創立者ヤコブ・アルベリオーネ神父の手によって誕生したのが1914年8月のこと。時をほぼ同じくして、ヨーロッパ中を戦火に巻き込む第一次世界大戦が始まっている。イタリアはドイツ、オーストリアと三国同盟を結んでいたが、翌年イギリス・フランスとロンドン秘密条約なるものを締結し同盟を離脱、連合国(協商国)側に回りオーストリア・ハンガリー帝国を相手に宣戦布告する。そして北イタリアは戦場になった。

アルバの町は幸いにも大きな戦禍に巻き込まれることは無かった。このアルバの街が、パルチザンの市民部隊と、ファシストによるナチスドイツ傀儡政権、サロ共和国軍の戦いの場になるのは、第2次世界大戦のこと。脇道にそれてしまった。そろそろ文化放送が生まれるきっかけとなった最初のエピソードについてご紹介していこう。嘘のような本当の話だ。故池田敏雄神父が書き遺した「日本のパウロ会の歴史」という文章を基に、少しだけ想像を膨らませて再現してみた。ちなみに、このイタリア戦線に従軍記者として同行したのが若き日のアーネスト・ヘミングウェイで、彼が後に自伝的小説として発表した作品が「武器よ、さらば」だ。北イタリアと雑駁に表現したが、主に戦場になったのはスロベニア国境のトリエステやオーストリア国境の山岳地帯などの北東部。第一次世界大戦において北西部に位置する。

それは1925年のある日の風景だ。一面に広がるブドウ畑と青い空を想像して欲しい。木々に囲まれたのどかな小径、でこぼこ道に左右に揺られながら車で向かう一人の神父の姿が見える。彼の名は、トリノに住むサレジオ会のヴィンチェンツォ・チマッティ神父だ。この時、46歳。司祭であり、教育者であり、作家でもあり、作曲家でもある才人だった。ちなみに、チマッティ神父の記念館は、現在、東京・調布市のサレジオ神学院の中にある。

3年前の1922年に、ムッソリーニ率いるファシスト党が政権を握り、軍靴の音が聞こえ始めたイタリアだが、まだ穏やかな空気も流れていた。もしこの日、チマッティ神父が60キロも離れた田舎町のアルバまで車で2時間近くかけて本を買いに来なかったら、文化放送は誕生していなかったということになる。

彼の目指す先は、出版物を多く扱う、というよりもそのこと自体が大きな布教の手段であった若き修道会、聖パウロ修道会だった。この年、聖パウロ大聖堂の基礎工事が始まっている。3年後の1928年、立派な建物が建立されるのであるが、当時はまだ素朴な佇まいだった。

 

 1928年完成の、現在の聖パウロ大聖堂(イタリア・アルバ) 聖パウロ女子修道会提供

車を降りたチマッティが建物の中に入ると、そこには若い神父がひとり店番をしていた。その神父こそが、修道会の印刷工場と出版の責任者を任されていた当時23歳のマルチェリーノだ。トリノで1902年に生まれた都会っ子だったが、当時は聖パウロ修道会の本拠であるのどかなアルバで修練の日々だった。このとき交わしたチマッティとの会話が全ての始まりだった。マルチェリーノは、後に遠く離れた日本に渡り、ラジオ局を作るという数奇な運命を辿ることになる。

チマッティは、親子ほど年の離れたマルチェリーノに、挨拶した。

「マルッチェリーノ神父、こんにちは」

「おや、これはサレジオ会のチマッティ神父じゃありませんか。トリノからはるばるおいでになったのですね。ようこそいらっしゃいました。今日はどういたしましたか?」

「実は、私は日本に行くことになったのですよ」

「えっ、日本ですか?」

「そうです、東洋に浮かぶ島、極東の国、あの日本です。私は彼の地で布教するため、キリスト教に関する本の出版を行いたいと思っていましてね。だから、今日、たくさんの本を出版している聖パウロ修道会さんで発行している本をまとめて買いに来たというわけです」

「そうでしたか? それはありがとうございます。日本への長旅、どうか気をつけていらしてください」

マルチェリーノはそう話しながら、大量の本をまとめて手渡した。

チマッティ神父は代金を支払ったあと、微笑みを浮かべながら若いマルチェリーノにこう話しかけた。

「どうもありがとう。ところであなたがたパウロ会は出版事業を専門的にやっているのでしょう。だったら、むしろあなたたちこそが日本に行って、キリスト教の本の普及をするべきではないですか?」

マルチェリーノは、苦笑いを浮かべて答えた。

「本当のことを言えば、私もそれが念願です。でもうちの会はまだ10年前にできたばかりで、何かと忙しいのですよ。 だから宣教師になることはあきらめました。まずは、この修道会をまとめなければいけませんからね。ありがたいアドバイスですが、正直申し上げて、私には外国で布教する時間は取れそうにもありません」

「そうですか、それは残念ですね。では、私がイタリアに戻ってきたら、日本のことをあなたに色々とお話ししますよ。それじゃあ、失礼します。マルチェリーノ神父、ごきげんよう」

「ごきげんよう、チマッティ神父。長旅、お気をつけて!」

笑顔を取り繕ったマルチェリーノであったが、内心うらやましい思いでチマッティ神父の背中を見送っていた。実は当のチマッティ神父もまた、重い責任にプレッシャーも感じながら、本を買いに来たと考えられる。その理由は、ローマ教皇ピウス11世(1857年~1939年)が、直々にサレジオ会に対して日本での宣教の一部を担当するように命じていたからだ。2人が会話を交わした1925年は、サレジオ会が最初の宣教団を日本に派遣してから50周年にあたる年だった。その節目の年に9名のサレジオ会の会員が日本行きを指名されたというわけで、チマッティ神父は団長という要職を拝命していた。重責を担っていたのだ。彼らは日本で本格的な出版活動を行う準備のために、聖パウロ修道会で発行した全ての書籍を1冊ずつ買いに来たと言われている。その時、たまたま修道会にいたのが、出版・販売部門を担当し、印刷工場の工場長でもあったパウロ・マルチェリーノだったというわけだ。マルチェリーノは、夏に司祭に叙階されたばかりだった。記録によると、チマッティ神父たちが日本行きを指名されたのは夏、そして出発したのは年の暮れなので、本を買いに来たのは秋ごろだったのでは無いかと想像できる。アルバは紅葉に満ちた美しい季節であったに違いない。

話は急に変わる。

日本におけるカトリックの歴史をたどれば、イエズス会の宣教師が、16世紀に初めて来日している。それは教科書のインクの香りを思い出す名前、フランシスコ・ザビエルだ。古い修道会で、天正遣欧少年使節団の伊東マンショや中浦ジュリアンらもイエズス会。しかし、その後、徳川家康の時代に、キリシタンは弾圧を受けて国外退去処分になってしまった。「隠れキリシタン」や「潜伏キリシタン」の説明は割愛するが、とにかく300年以上に及ぶ長い空白期間を経て、明治の御代を迎えると、事態は好転する。イエズス会は再び日本における活動を再開した。ザビエルは、中世の日本で大学を設立する夢を持っていたとされ、その遺志を引き継ぐ形で、夢を具現化したのが東京・四谷にある上智大学だ。四谷はお寺も多いが、カトリックにもゆかりの深い街だ。余談だが、カトリックの施設は寺町にあるケースが多い。ところで上智大学は1913年に設立されている。つまりチマッティ神父がアルバの聖パウロ修道会に本を買いに来た時、上智大学は設立からすでに10年以上の時が過ぎ、イエズス会に関して言えば、日本において十分な礎を築いていたと言える。サレジオ会もまた、イタリアで19世紀初頭に発足していた。一方、聖パウロ修道会は20世紀初頭の1914年にスタートしたばかりの若い修道会。イエズス会は「教育」という形で日本での目的を成就させたが、若い聖パウロ会はおよそ20年後に「メディア」で教えを広めるという目標に向かって邁進することになる。 

次回へ続く 

 

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