鈴木慶一さん「長く続いた秘訣は○○曲が無かったこと?」

鈴木慶一さん「長く続いた秘訣は○○曲が無かったこと?」

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2月17日放送の「くにまるジャパン極」(文化放送)にムーンライダーズの鈴木慶一さんが出演した。最近は作曲やバンドだけでなく、俳優活動やCMなどでも味のある姿を見せて存在感たっぷりの鈴木さん。そんな鈴木さんのこれまでの人生を振り返っていただいた。

野村邦丸アナ「慶一さんの家には蓄音機と家具調のステレオがあったということですが、物心ついた頃にはいつも音楽が鳴ってたってことですか?」

鈴木さん「そうですねえ。小学生の頃はいとこの女性が居まして、その人に教えて貰って、坂本九さんとか、ダニー飯田とパラダイスキングとか、クレージーキャッツとか、三橋美智也さんとかその辺ですね。洋楽に出会ったのは小学校の半ばぐらいかなあ? 最初に手にしたのはソノシートで、映画『西部開拓史』のサウンドトラックですね。その次がやっぱり、小学校の終わりぐらいかな? ベンチャーズショックがありまして。そしてビートルズショックがあって、ということですね」

邦丸「最初は聴いてるだけだったんですよね?」

鈴木「そうです。でもねえ、やっぱりベンチャーズとか聞きますと弾いてみたくなる。あら? こんなところにギターがあるじゃないかで、家にあったんです。それでギターにハマっていくわけですな。最初から上手くは弾けないですよ。今みたいに便利な物は無いんで、耳でコピーするしかない。擦り切れる程シングル盤をかけながら、弾いて真似すると。一日八時間とか、学校から帰って来てもすぐ弾いたりしてましたから」

そんな鈴木さんは高校時代、2年生から演劇部に所属していたという。

鈴木「仲のいい友人が居まして、その人に誘われたんです。でも担当は音響効果ですから、舞台には出てないんですよ。これはね、こう言っちゃなんですけどうちの親父が役者で、子供の頃お芝居見に行くとうちの親父が出て来てすぐ死んじゃうんですよ。ホントに死んじゃったかと思うんですよ。この辺でちょっとトラウマになっていて」

邦丸「ただ演劇部で活動しながらも、曲作りもやっていたと」

鈴木「中学の音楽の先生が作曲をしろという課題を出して、それが初めて作った曲かな? どんな曲かは忘れちゃったもう。それで成績が1位2位3位とか、10位まであるんですよ。僕は7、8位だったかな?でね、1位の曲が素晴らしくてね、羨ましくてしょうがなかった」

邦丸「1972年、『はちみつぱい』を結成しました。この時は音楽でメシ食っていこうと思っていたんですか?」

鈴木「いや、全然。とにかく音楽がやれればいいや、高校出てから音楽やってる人たちがまわりにいっぱいいるわけですよ。音楽の話ばっか。こんな環境は嬉しくてしょうがない。それだけで十分だった。あとはね、スタジオに入ってレコーディングというものがしたかった。それで食ってく食っていかないはまったく関係ないですよ。うちのお袋が奇しくも言いましたね、『あんたね、こういう商売をしたら10年かかるよ』。見事に10年かかりました」

邦丸「率直に言って加奈ちゃん、ムーンライダーズの代表的ナンバーって言えます?」

水谷加奈アナ「実はさっきからそれを考えていたんですが、ちょっと思い浮かばなくて」

邦丸「ムーンライダーズという存在はかなりの人が知ってると思うんですよ。じゃムーンライダーズの代表曲といえば『ああ、あの曲ね』とか『ああラジオからよく流れてきたね』とか、そういう経験をお持ちの人はあまりいないと思うんです。これ間違いないですよね?」

鈴木「代表曲ってね、自分でも無いですよ(笑)」

邦丸「よく聞かれると思うんですが、何でバンドを長く続けられているんですか?」

鈴木「これはね、代表曲が無いからですよ。代表曲があるとそれに縛られたりするでしょ。それが無い分ね、代表曲を作らなきゃなと思いながら今に至ってるんじゃないですか?」

その一方で、他の人に提供した曲がヒットしたり、ゲーム音楽を作曲して人気を博してきた鈴木さん。今回も歴史の重みを感じさせる、大変貴重なお話を披露してくださった。

<お知らせ>
「ムーンライダーズライブ2022」は3月13日(日)に日比谷野外大音楽堂で開催予定。詳しくは、ムーンライダーズのオフィシャルウェブサイトをご参照ください。

「くにまるジャパン極」は平日朝9~13時、文化放送(AM1134kHz、FM91.6MHz、radiko)で放送中。伊藤惇夫氏はコメンテーターとして毎週木曜に登場。radikoのタイムフリー機能では、1週間後まで聴取できます。

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