2月11日公開「国境の夜想曲」~端境から見える景色 鈴木びん
埃立つ場所で兵士たちがランニングをしている。彼らが走り去ったあとしばらくの静寂が流れるが、今度は別の兵士たちの集団が駆け抜けた。そして再びの静寂。そしてまた別の兵士たちの集団が現れる。この間、カメラは小津映画のようにじっと動かず眺めている。何の説明も無く繰り返される景色の中に、いつの間にか自分も放り込まれていた。
その乾いた風景で、中東か中央アジアのどこかの場所なのだろうと想像はつく。
2月11日に公開される「国境の夜想曲」というドキュメンタリー映画は、イタリアとアメリカの国籍を持つジャンフランコ・ロージ監督が、イラク、レバノン、シリア、そしてクルディスタンで3年以上の時間をかけて、国境付近の村に住む人たち、あるいは国境近くまで追われてきた人たちの姿を映した作品だ。
ロージ監督はアフリカのエリトリア生まれ。少年時代、現地の独立戦争に巻き込まれて母国のイタリアに避難したという強烈な原体験が、今の作品像を形作っているのだろう。
私はラジオマンとしてドキュメンタリー番組を作るのが好きで、おそらくラジオにしては少なくない時間や予算をかけて、目や腰や頭の痛みにも耐えて、毎年のように番組を作ってきた。2ヵ月も3ヵ月もかけて完成をみた自己満足の結晶が、放送の一時間後には霧消してしまうというはかなさも有る。そして、それもまた良いものだと自分に言い聞かせる作業でもある。
いくつかの公の賞を頂く機会にも恵まれたが、さすがにこのドキュメンタリーを観てしまうと、スケールの違いに圧倒されてしまう。
「映画とラジオでは、そもそもスケールが違うだろう」という声も聞こえてくるが、
予算のスケールではなく、執念のスケールとでも言うのであろうか。周囲から目立つ西洋人の監督が、通訳すら伴わずたったひとりで危険な地帯に身を晒す。しかも3年以上も取材を続けるということは、治安への不安もさることながら、生活の単調さ、孤独さにも耐えなければならないだろう。
その精神力に驚かされるが、実はそれ以上に驚異的なのは、回したフィルムはわずか80時間だということだ。単純計算すると1か月につき2時間あまりのペースでしかフィルムを回さなかったことになる。
絶好のタイミングを迎えた瞬間にカメラを回す準備ができていなかったらどうするのだろう?あとから死ぬほど後悔することにならないのだろうか?
様々なことが頭をよぎるが、監督は「映画を撮ることは何かを失うことだ」と言い切る。
撮るべき瞬間が来るまで、邪心を起こさずに、ひたすら待ち続けることは普通の取材者にはできない。
ロージ監督は、懸命に生きようとする人たち、死して被写体ですら無くなってしまった人たちにも心を配り続ける力に恵まれているのだろう。
それが人並み外れた心力、人間力を生む。だから慌てないし、焦らない。
ノーベル平和賞を受賞したマザーテレサは、「小さなことに、大きな愛をこめなさい」と語ったそうだが、ロージ監督がやろうとすることは、そういう事なのかも知れない。
その執念は、今、開催中のオリンピックも連想させる。
4年かけてトレーニングしても、一度転んだらおしまい。なのに、それでも生活のすべてをこの一瞬のために捧げることができる。こんな恐ろしいことは誰にでもできるわけではない。
ロージ監督は、ひとりぼっちで寝起きし、毎日人と触れ合い、カメラも回さずにただひたすらに観察し続け、チャンスを待つ。
その場所は、シリアとレバノンの国境の極貧地帯や、イラク国内の危険な地域だ。
撮影は、IS(イスラム国)が崩壊し始めた時期だったそうだが、ロケ中は、2度も誘拐されかかったのだとか。恐ろしい。
上の画像は、収容所を外から、おそらくは無断で撮影したであろう映像の一部だ。これを観るだけで身がすくむ。見つかれば命は無かったであろうことは想像に難くない。
こういった衝撃的な映像が、次から次へ、しかし淡々と紹介されてゆく。
その心力は、監督の今までの作品にも色濃く反映されている。「ローマ環状線 めぐりゆく人生たち」(2013年)という作品は、ローマの環状線(日本でいえば外環自動車道のようなものか)に沿う地域に暮らす人たちの人間模様を追いかけた作品。
真ん中にいては、核心は見えない。周辺だからこそ本質が見える。この作品でロージ監督はベネチア国際映画祭の金獅子賞(最高賞)を獲得した。
また、北アフリカなどからの難民が押し寄せるイタリア領ランペドゥーザ島に住む人々の葛藤を描いた「海は燃えている〜イタリア最南端の小さな島〜」(2016年)では、
ベルリン国際映画祭の金熊賞(こちらも最高賞)を獲得した。この作品も、ローマでもミラノでもない、この離れ島でしか見えない核心があることを教えてくれる。
そういえば、昔ある映画評論家に「サムタイム、サムウェア(いつか、どこかの場所で)」という設定の映画はだめだという話を熱く聞かされたことがある。
それはフィクション(創作)の映画において語られるセオリーだと思う。
ドキュメンタリーではそもそもが、テーマや場所、人物の明示が無いと成立しえないと考えていた。しかし、この「国境の夜想曲」には、詳しい説明が全く出てこない。ドキュメンタリーなのに!
事前に映画の内容を大まかに把握していれば、難民が紛争に巻き込まれ、不条理な暴力にもさらされ、流浪を強いられている場所であるということはわかる。しかし、それ以上の説明は皆無なので、観る側が頭を使うしかない。
だから、ひたすら画面に集中せざるを得ない。衣装や景色や会話から、想像をめぐらせ、推理をし、そして徐々に確信に至り、画面の中の風景に没入するのだ。映画に、このような手法があるのだと感心するとともに、これを「手法」と考える時点で、監督の意図するところと早くも乖離してしまっているのだろう。
ロージ監督は「ドライブ・マイカー」でゴールデングローブ賞非英語映画賞を受賞した濱口竜介監督と行った対談の中で、松尾芭蕉を引き合いに出した。
「芭蕉のように、観察によって永遠化して情景を捉えるのが俳句なのだ」と語っている。
そして「引き算の美学」とも表現していた。
イタリア人監督の言葉で、芭蕉の句がいかに「一瞬を永遠にする」力を持っているかということを教えてもらった。俳句や漢詩は、引き算することによって力を増す。
ふと思い出した。新人アナのころ、先輩に「何をしゃべるのかを考えるのではなく、何をしゃべらないかを考えろ」と言われたことがある。
今の時代、そんなアドバイスを送ったり送られたりすることも無いのだろうが、
噛みしめれば重い言葉だ。
ラジオマンとしての生活の中で、自身の無駄な多弁について何百回と振り返った。
何度反省しても、結局は実践できないことが情けない。
旅人、松尾芭蕉の存在を心に留め、撮影の旅を続けるロージ監督。
痛む人たち、悼む人たちに思いを寄せ、「周囲」「辺境」「国境」から「真ん中」を静かに眺めることができる旅人だ。このような人のことを映画詩人と呼ぶのだろう。
この希代の表現者の作品をぜひ体験して欲しい。
「国境の夜想曲」2022年2月11日(金・祝)Bunkamuraル・シネマ、ヒューマントラストシネマ有楽町ほか全国順次ロードショー
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