【インタビューvol.2】決断と迷いの先に――長野智子がパレスチナ取材で手にした自信「初めて自分の言葉に魂がこもった瞬間でした」

【インタビューvol.2】決断と迷いの先に――長野智子がパレスチナ取材で手にした自信「初めて自分の言葉に魂がこもった瞬間でした」

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4月1日から平日夕方の生ワイドとしてスタートする新番組『長野智子アップデート』
番組パーソナリティを担当する長野智子さんに、文化放送での思い出や、これまでの歩み、新番組にかける思いなどをうかがいました。
全3回の連載でお届けする第2回です。

【インタビューvol.1】はこちら▶https://www.joqr.co.jp/qr/article/118175/

【インタビューvol.3】はこちら▶https://www.joqr.co.jp/qr/article/119897/

目次

  1. 「ラストチャンスかもしれない」と下した決断
  2. 報道人生の礎となったニューヨークでの学び
  3. 「幸せな20年」のスタートを後押しした夫の一言
  4. パレスチナ取材で実感した「自分の言葉」
  5. 「私たちと変わらない人」の実情を伝えるために

「ラストチャンスかもしれない」と下した決断

── フジテレビでのアナウンサー時代を経て、その後フリーアナウンサーの道に進むわけですが、その決断のきっかけとしてはどんなことがあったのでしょうか?

長野 恋に落ちまして。若いですから当時は夢中なわけですよ。今となれば懐かしいですが(笑)、人生の中で結婚の優先順位が一番上の時期があったんです。フジテレビ時代がものすごく忙しかったので「こんな働き方をしていたら捨てられてしまうのではないか」という思いがあり、仕事と結婚生活を両立できるような働き方ができないかと考えた末に、結婚を機にフジテレビを退社しました。それも数年後に大間違いだったことに気付くわけですけど(笑)。

── その「間違い」というのは?

長野 やっぱり当時のこの業界では「いい感じのペースで働きたい」とか、そんな甘い気持ちではやっていけないんですよね。『オレたちひょうきん族』のアナウンサーとして名前を覚えていただいたので、フリーになってからもバラエティーのお仕事をたくさんいただきましたが、現場でご一緒する芸人さんたちが人生をかけて番組にぶつかってくるわけです。一方で、私は「本当は報道をやりたい」と心に逃げ道を作りながら、報道をやるための特別な努力をするでもなく、すべてが中途半端な状態なわけです。30歳を過ぎた頃、「このままじゃやっていけない」と思うようになりました。自分が好きになれなかったし、人生の中で一番お酒を飲んだ時期でもありました。

その頃です、夫のニューヨーク転勤が決まったのは。夫は「君は忙しそうだから、日本に残って仕事を続けていいよ」と言ってくれたのですが、私は「ひょっとしたら、これが最後のチャンスかもしれない」と思ったんです。つまり、どこかで自分に嘘をつきながら仕事をしている状況を断ち切るラストチャンスかもしれない、と。芸人さんたちが命がけでぶつかっているみたいに、自分も命がけでぶつかれるものに挑戦してみよう、と。バラエティーのレギュラーも全部辞めて、アメリカに行くことを決めました。それが1995年のことです。日本に戻ってくるのはおそらく21世紀で、その頃にはもう誰も私のことなんて覚えてないかもしれないとも思いました。それでも、挑戦しないよりは挑戦したほうが、自分にとってまともな人生を送れそうな気がしました。

報道人生の礎となったニューヨークでの学び

── 渡米後は、ニューヨーク大学・大学院に進学し、メディア環境学を専攻します。

長野 メディア環境学では、メディアの社会学的な側面、「メディアが人間に対してどんな影響を与え、人間がメディアによってどのような進化を遂げるか」というテーマを学びました。メディアが介在することで、人間が変化する。翻って、自分自身がニュースと視聴者・リスナーの間の「メディア」になった場合に、どのような影響を自分が与えることになるのか、どのような存在であるべきなのか、ということを考え続けた大学院時代でした。

ゼミでも修士論文でも求められたことは、「過去の文献や研究に疑問点を見つけて、批判すべき点について納得させられるような材料を集めなさい」ということでした。

おかげで、その後の『ザ・スクープ』時代に「もしかして、大学院でやっていたことってジャーナリズムにつながっているのでは?」ということに気づいたんです。みんなが常識だと思っていることに「何か違うのでは?」という疑問を持つ。けれども、ただ批判するだけでは誰も納得してくれないから、取材をして、「これだけの証拠があるから、こうじゃないですか」と提示する。それがジャーナリズムのアプローチですよね。図らずも、それは大学院で経験したプロセスだったので、その意味では『ザ・スクープ』に加わったときに「これはやってきたことだ」と感じたのを今でも覚えています。

「幸せな20年」のスタートを後押しした夫の一言

── 2000年、その『ザ・スクープ』(テレビ朝日)のキャスターを担当することになり、帰国します。その決断に迷いはなかったんでしょうか。

長野 ニューヨークでの生活は本当に楽しいものでした。大学院での学びの他にも、フジテレビの『めざましテレビ』でニューヨークからの中継コーナーを担当させてもらって、いろいろな場所を取材させてもらったり。永遠にこの楽しさが続けばいいなと思っていたところにいただいたお話だったので、実は一瞬悩んだんです。でも、夫が「あなたね、思い出してみて。何のために日本の仕事を辞めてニューヨークに来たの。帰るべきでしょ」と言われて、はっと気付いたんです。「そうだ、報道をやりたいという夢がついに叶うんだ」と。そこからは、もちろん大変な経験もありましたが、「あぁ、夢が叶ってる」と辛さもモチベーションに変えられた幸せな20年でした。

── 『ザ・スクープ』の現場では、どんな日々だったのでしょうか?

長野 当時お仕事をご一緒した鳥越俊太郎さんや田原総一朗さんをはじめとして、報道に携わる方は皆さんそうなんですけど、「絶対にこれを成し遂げたい」という強い信念があるんです。「二度と日本に戦争は起こさせない」とか、「権力の暴走を監視する」とか。当時の私はそういう思いが定まっていなくて、自分が報道人として向いているのかいないのか、最初の1年ぐらいは迷いながら仕事をしていました。

パレスチナ取材で実感した「自分の言葉」

── そこに何か変化が訪れるのでしょうか?

長野 2001年のナイン・イレブン(9.11 アメリカ同時多発テロ事件)ですね。あのときの報道で、自分の中に一つの軸ができたという感覚がありました。

── 事件発生直後にアメリカに向かおうとしたけれど、空港が閉鎖された影響で入国できなかったんですよね。

長野 そうです。そのとき鳥越さんから「パレスチナに行ってくれ」と。事件直後の日本国内での報道は、アメリカのCNNやABCからのニュース映像ばかりになっていました。アメリカも日本も、テロに対する怒りに震えていて。私もそうでした。その少し前までアメリカで暮らしていて、友人もいたので。日本社会にも「アメリカが報復するのは仕方ない」という空気が漂っていました。

鳥越さんは毎日新聞時代に中東支局での経験があるので、テレビ報道を見ながら「あまりに報道が横並びだな。ウサマ・ビンラディンの怒りの原点はパレスチナだ。長野さん、パレスチナに行ってくれ」と。

── 大きな決断ですね。

長野 現地での取材は、私にとって衝撃的な体験でした。事前に渡された山のような資料よりも、ひと目で明らかに理不尽とわかる状況が目の前に広がっていました。

パレスチナの武装勢力の人たちに取材したときの「攻撃をしてくるなら、僕たちは家族や友人を守るために体でぶつかっていくしかない」という言葉が印象的でした。その後、日本に向けた中継で私は「いま武力報復をすれば血の連鎖になるだけで何の解決にもならない」と伝えました。それが当時としては異例の報道だったということで、帰国後に大きな評価をいただきました。あの報道では、実際にパレスチナの現地で取材をしたからこそ、腹落ちした自分の言葉で伝えることができたという実感がありました。初めて自分の言葉に魂がこもったというか、「ああ、自分の報道のやり方ってこれなんだな」と、自信が持てた瞬間でした。

その後の冤罪事件の検証報道なども含めて、できるだけ現場に行って、見たもの聞いたもの感じたものを自分の中で腹落ちさせて言葉にするということを繰り返した20年でした。

「私たちと変わらない人」の実情を伝えるために

── キャスターやジャーナリストとしてのお仕事以外にも、2019年からは国連UNHCR協会での報道ディレクターとしてもご活躍されています(2024年3月に理事に就任)。

長野 それまでにパレスチナやアフガニスタンなど、世界各地の難民キャンプを取材で訪問していたので、それを目にした国連UNHCR協会の方から「もっと日本の方に難民の実情を知ってもらいたい。お力を貸していただけませんか」という趣旨のご連絡をいただいたことが始まりです。

コロナ禍と時期が重なってしまったので、まだそれほど多くの訪問はできていないのですが、これまでに南スーダンの人たちが集まるケニアの難民キャンプ、シリアの人たちが集まるヨルダンの難民キャンプ、ロヒンギャ族が集まるバングラデシュの難民キャンプなどを訪問しました。

それ以前にテレビの報道などで難民キャンプを訪れたときは、限られた取材時間の中で「大丈夫ですか? いま必要なものは何ですか?」という感じの短いやりとりになりがちでした。ある意味、「難民の方たちは、私たちとはすごく違う立場の、大変な人」というイメージになりやすいんですね。一方、UNHCRの仕事で訪問すると、もう少し、人と人とのお付き合いになっていくというか。難民の方たちとゆっくりいろいろなお話をして、お子さんたちの将来を考えたり、そのための支援をどうやって実現していくのかということを考えたりもできるわけです。

そうやって一緒に時間を過ごしていくと、「難民」と呼ばれている人たちも、私たちと変わらない人たちばかりなんだということに気付かされます。難民キャンプにやってくる前は、それぞれ会社員や建築士や大学教授として暮らしていた人たちなんです。個人的には「難民」という呼称が「自分たちとは違う人々」というイメージを招きやすいように感じたので、国連UNHCR協会のスタッフにも「『避難民』という呼び方にしませんか」と提案したこともあるのですが、他の呼称との兼ね合いもあるので変更するのはなかなか難しいようです。ただ、それぐらい私たちと変わらない人たちであるということは、今後の活動の中でも皆さんにお伝えできればと思っています。

【インタビューvol.3】はこちら▶https://www.joqr.co.jp/qr/article/119897/

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