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  • お電話:株式会社バイリンガル・グループ 郷農彬子さん

    今日は、1964年の東京パラリンピックでボランティア通訳を務めた郷農彬子さんにお電話を繋ぎました。

    お父様が長崎の進駐軍の通訳をしていた関係で、英語が堪能だった郷農さんは、1943年生まれ。日本女子大学1年生の時に、東京パラリンピックのボランティア通訳に誘われ、1年間の準備のあと、各国の選手が集まる代々木の選手村で、選手間の交流の場であった「インターナショナルクラブ」で通訳を担当されました。

    現在、国際会議の準備・運営のほか、通訳、翻訳などにかかわる株式会社バイリンガル・グループの代表取締役をお務めです。

    そもそも郷農さんは、東京オリンピックで通訳がしたいと応募。「1年生ではダメだ」と言われ、すごすごとその場を立ち去ろうとしたときに「パラリンピックの通訳はどうですか?ボランティアですけど」と声をかけられたそうです。

    そこで"ボランティア"という単語を初めて聴いた郷農さん。("ボランティア"が、どういうスペルなのかも分からず「b」で辞書を引いていたというエピソードも!)

    ボランティア通訳に参加していた、日本赤十字の青年課の課長で、当時の皇太子妃の美智子さまの信頼も厚かった橋本祐子さんとの出会いは、郷農さんの人生で大きなものとなりました。英語のことだけではなく、あらゆる面で橋本さんに鍛えられたと振り返ります。

    「インターナショナルクラブ」は選手間の交流の場でしたが、来るのは外国人ばかり。通訳をしたくても、日本人選手は部屋にこもって出てこなかったといいます。そこで、夜の時間を楽しく過ごしてもらうために、大学のクラブに声をかけ、ジャズやハワイアンを演奏してもらうなど、アナウンス、コーディネート、プロモートまでをこなした郷農さん。

    「当時も外国人選手はすごく明るくて、障害者だから・・・とか、オドオドしたりしない。今思えば、あの頃の日本人の障害者の方は遠慮なさっていたのかも。パラリンピックを実際に見たら、きっと皆さん、障害者の見方が変わると思う!」とお話してくださいました。

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