今週と来週の2週にわたって、NPO法人「日本車い すフェンシング協会」理事長の小松真一さんのインタビューをお送りします。
小松真一さんは、1977年、同志社大学を卒業後、家業の写真館の業務のほか、カメラマンとしても活躍していました。 その後もフェンシングに関わっていたことから、健常者でありながら、日本で唯一の車いすフェンシングの指導者となり、パラリンピック 選手を育成。2000年のシドニーパラリンピックから3大会連続で日本代表監督を務めました。
小松さんとフェンシングの出会いは何だったのでしょうか?
「京都はフェンシングが盛んで、自分も高校から始めた。28年前にフェスピックという、アジアパラリンピックが神戸であったんです。そこで、日本製のピストを作ったということで、フェンシング協会の方から「小松、お前見に行け!」と。はっきり言って車いすフェンシング、見たこともルールも分からなかった。そして、その後、「車いすフェンシング教室をやってみてくれないか?」とセンターからの希望があって、10回やらしてもらいました。」
↑写真をご覧いただくと分かるでしょうか?ピストというのは車いすを固定する鋼鉄のこと。
最初はルールも知らなかったため、車いすフェンシングを続けていく気がなかったいう小松さん。しかし、その後、北京フェスピック大会に参加した時に出会った香港チームの関係者が、車いすフェンシングのルールブックを送ってくれたことをきっかけに、 小松さんも本格的に競技に取り組むようになっていったと言います。
現在、日本の車いすフェンシングの競技人口は40人ほど。 強化指定選手8人、育成選手6人で、全国から毎週、京都に来て練習をしているのだそう。
数あるパラスポーツの中でも、まだまだ発展途上と言えるスポーツ、車いすフェンシング。
来週は、2020年の東京パラリンピックに向けての課題やフェンシングの未来についてお送りします!