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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT

3月1日(月)〜3月2日(金)
今週は、「大名屋敷 お庭拝見」。 江戸全域に一千箇所を越えていたという大名屋敷の庭園。
その誕生から衰退までの歴史を探ります。


3月1日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
本日のお話は「ガーデンシティ 江戸」
幕末、日本を訪れた外国人たちの多くが、 「世界一美しい都市」と呼んだ、江戸の街。 美しさのヒミツは、一千箇所以上に及ぶ大名屋敷、 それぞれに設けられた、大小さまざまな庭園にありました。 十六世紀の終わりごろ、江戸にやってきた徳川家康は、 この地を政権の中心に定めます。およそ三百に及ぶ 大名たちには、それぞれ領地が与えられました。
一方で、人質として妻子を江戸に置き、 また一年ごとに江戸で過ごすことを命じます。 そのため、各大名には、江戸の市内に屋敷が与えられました。 敷地は広く、すべてを建物で埋め尽くす訳にもいきません。 そこで大名たちは競い合うように、立派な庭造りに 精を出すようになったのです。 庭園は、大名たちが、賓客をもてなすための場所となり、 必ず茶室が設けられました。 また、お気に入りの家来を集めて、酒宴を催す… といった目的にも使われていたようです。
こうした大名屋敷の庭園の中でも、 最も規模が大きかったのが、 現在の戸山公園、戸山ハイツを中心に広がっていた、 尾張徳川藩の下屋敷、「戸山荘」です。 その広さ、実に十三万坪、およそ四十四万平方メートル。 日本の歴史を見渡しても、これ以上の庭園が 作られたことはありません。 周りには土塁が築かれ、さらに外側を空堀が取り囲む。 ざっと計算して、一回りすると、だいたい 2・4キロメートルほどということになります。 この広大な敷地の中に、大きな池が二箇所作られ、 池を作るため掘り出した土で山が作られました。 これが、現在も戸山公園の中に残る「箱根山」です。
そして、戸山荘の名物は、この箱根山のふもとに、 実際の「東海道 小田原宿」の町並みを再現したこと。 以前もこの番組でご紹介したことがありますが、 お菓子屋さん、家具屋さん、お米屋さん、 薬屋さんなどが軒を連ねていた。庭で宴会が開かれると、 これらのお店が模擬店として活用され、 訪れた人々を楽しませたのです。 十一代将軍、徳川家斉は、戸山荘をことのほか気に入り、 鷹狩りの行き帰りに、何度も訪れています。 残念ながら、大名屋敷の庭園は、明治維新を迎えると、 ほとんどが失われてしまいました。
戸山荘は、尾張徳川家が、江戸を追われることになった 将軍家に「どうぞお使いください」とプレゼント。 趣向を凝らした建物の数々は、 行き場のなくなった家臣たちの住みかとして使われ、 美しかった庭は、自活のための畑へと姿を変えました。 そして戊辰戦争が始まると、官軍の駐屯地に接収され、 やがて陸軍戸山学校、戦後は進駐軍の宿舎を経て、 大規模な団地「戸山ハイツ」へと姿を変えていったのです。

3月2日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +

本日取り上げますのは「小石川後楽園」
江戸文化の象徴ともいうべき「大名庭園」ですが、 現在、往時の姿を偲ぶことができるのは、数えるほど。 中でも代表的な存在が、小石川後楽園です。 おなじみ、読売ジャイアンツの歌「闘魂こめて」。 かつてのジャイアンツのホームグラウンドは、 「後楽園球場」。 名前の由来となったのが、お隣にあるこの庭園、 「小石川後楽園」でございます。 そもそも、後楽園とは、どんな意味があるのか… と申しますと、これは古い中国の教えである、 「先憂後楽」という言葉に基づいております。
先に憂い、後に楽しむ…と書いて「先憂後楽」。 人の上に立つもの、為政者に対する戒めの言葉で、 民を治めようとする者は、民より先に憂いて、 後から楽しむようでなくてはいけない…という意味です。 庭園が最初につくられたのは、江戸時代の始めごろですが、 現在のものに近い姿に完成させたのは、この人でした。 おなじみ、水戸黄門こと、水戸藩二代目藩主、徳川光圀公。 ここ、小石川後楽園は、もともと、 水戸徳川家の中屋敷庭園として作られたのです。 名前が中国の教えからとられているように、 半円形の石造りの橋、円月橋など、園内も中国趣味の漂う、 エキゾチックな眺めがそこかしこに見られます。
実は、徳川光圀がこの庭園を仕上げるとき、 アドバイザーとして本物の中国人が関わっていたのです。 その名は、朱舜水(しゅ・しゅんすい)。 中国では、1644年に明が倒れ、 代わって清が国を治めるようになりますが、 なんとか明朝を再興しようと運動していた人も多かった。 朱舜水 もそのうちの一人で、 中国始まって以来の秀才とうたわれた儒学者したが、 夢破れ、日本に亡命。 名君の誉れ高かった水戸光圀が、その人柄に惚れ込んで、 最上級の礼をもって迎え、政治を始めとして、 様々な面で教えを受けた。 そのうちの一つが、後楽園の庭園づくりだったのです。 ちなみに、朱舜水 は、自ら故郷の名物である麺を打ち、 光圀に食べさせた…という記録が残っているんですね。 このエピソードから、徳川光圀は「初めてラーメンを食べた 日本人」と言われております。

3月3日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +

本日取り上げますのは「六義園」
駒込駅近くに広がる、広さ2万7千坪の広大な庭園、 漢数字の六、義理人情の義に園と書く「六義園」。 きのうご紹介した「小石川後楽園」は、儒教思想に 裏打ちされた、どちらかといえば男性的な庭。 中国の影響が強く感じられる場所でした。 一方、六義園は、女性的なたおやかさの漂う、庭。 大陸の影響よりは、古くから日本に伝わる伝統が、 より色濃く浮かび上がってくる場所となっています。
六義園を作ったのは、五大将軍綱吉の時代、 側用人として重く用いられ、 権勢をほしいままにした柳沢吉保。 元禄八年(1695年)、吉保は、駒込にあった もと加賀藩の下屋敷を幕府から与えられます。 吉保は、この地に、万葉集や古今集などにある、 和歌にちなんだ風景を再現しようと思いつき、 さまざまな工夫を凝らして、この六義園を作り上げました。 りくぎえん、というと、少々固いイメージがありますが、 吉保は、この庭園を「むくさのその」と呼んでいました。
むくさのその、と言うと、途端に和風の、雅な感じが 漂って参りますから、不思議なものです。 「六義園」の「六つの義」とは、古今集の中で、 和歌を六つのスタイルに分類しているところから 名づけられました。 生類憐みの令を出し、「犬公方」と呼ばれた将軍綱吉。 その生みの母である桂昌院が、 六義園を訪問したことがあります。 元禄十四年(1701年)旧暦四月二十五日… と申しますから、江戸を大いに騒がせた浅野内匠頭が 松の廊下で吉良上野介に切りつけてから僅か一ヵ月後。 現在の時刻にして、午後二時ごろ到着した桂昌院一行は、 出来上がったばかりのこの美しい庭園でもてなされます。
六義園を始めとする大名庭園のコンセプトは「山里」。 ふだん、身分の高い人間が決して訪れないような、 山里の暮らしをミニチュア風に再現して見せるのが味。 現代風にいえば、セレブ専用のテーマパーク… といったところになるでしょう。一行の中の子供向けには、 張子の人形などを置いた「おもちゃ屋」を用意。 また女性向けには扇などアクセサリーのショップが開かれ、 一同、のどかな春の午後を大いに満喫。 この後、屋敷に上がって酒盛りとなりましたが、 帰りには模擬店に並んでいたおもちゃ、アクセサリー、 その他一式が、お土産として手渡され、 桂昌院一行を大変、喜ばせたんだそうです。

3月4日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +

本日取り上げますのは「浜離宮」
江戸の大名庭園は、最初のうち、 京都の名高い庭をモデルとして作られました。 しかし、江戸にあって京都にはない、ある要素が、 江戸の庭造りに大きなエポックをもたらすことになります。 その「ある要素」とは… 江戸にあって、京にないもの。それは「海」です。 京都の市街地は内陸部に発達しましたが、 江戸はご存知の通り、ウォーターフロントに開けた街。
当然、海沿いにも大名屋敷は作られることになり、 その庭には海の要素が大きく取り入れられました。 庭園に欠かせないものといえば「池」ですが、 普通は川を屋敷に引き込んで作ります。 ところが、海辺の大名屋敷では、池を作るのに、 目の前にいくらでもある海水を利用することになった、 その代表的な庭園が、本日ご紹介する「浜離宮」です。 現在の浜離宮、造営が始まったのは 承応(じょうおう)三年、1654年のこと。 四代将軍、家綱の弟である甲府藩主、徳川綱重に、 海沿いのこの土地が与えられた時に始まります。 もともとは見渡す限りヨシが生えていたそうですが、 綱重は海を埋め立て、立派な屋敷を建てました。
後に、綱重の子綱豊が、六代将軍・家宣となります。 それ以来、屋敷は将軍家の別邸「浜御殿」となり、 歴代将軍のリフレッシュ空間として 用いられるようになったのです。 明治以降は皇室の離宮となり「浜離宮」に。 そして戦後、東京都に下賜され、現在のように、 誰もが親しめる庭園となったのです。 浜離宮、最大の面白さは、海水を使った「汐入の池」。 大小さまざま、全部合わせると八千五百坪という 広大な面積の池ですが、潮の満ち干に合わせて 水の高さが変わります。
満ち潮と、引き潮とでは、 庭園の趣きがガラリと違ってくるわけです。 汐入の池ならではのエンタテインメントが、「釣り」。 御殿を訪れた賓客たちは、釣竿を渡され、糸を垂らすと、 ボラやスズキが面白いように針にかかってくる。 あるとき、ここを訪れた十一代将軍、家斉の奥様、 繁子さんは、あまりにも次から次へと魚が釣れるので、 いつまで経ってもやめようとせず、 お付の者たちをハラハラさせたんだそうです。 水ぬるむこの季節、水上バスに乗って、 海から浜離宮を訪れてみるのも、また一興ですね。

3月5日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +

本日取り上げますのは「芝離宮」
以前、文化放送が浜松町にお引越ししてきたときも、 この「歴史探訪」で取り上げた、芝離宮庭園。 かつて、この芝離宮は、浜離宮と同じく、 海沿いに位置した「汐入の池」でしたが、 その後、埋め立てが進んだため、庭園は海と切り離され、 現在では、普通の淡水の池となっています。 最初に庭園が作られたのは延宝(えんぽう)六年、 1678年と言いますから、もう三百三十年以上の 歴史を誇る庭園、ということになります。 汐入の池だったころの名物は「浮き灯籠」。
池の岸から少し離れたところに建てられていた灯籠で、 引き潮の時には、池の水位が下がりますから、 スラリと伸びた美しい姿を見せる。 ところが、満ち潮になると、灯籠の上のほう、 四角い部分だけがまるで水面から浮いているように見える、 というので「浮き灯籠」。 江戸の遊び心が感じられる仕掛けですよね。 この土地に最初に庭園をこしらえた大名は、 四代将軍・家綱の老中だった大久保忠朝(ただとも)。 あの大久保彦左衛門は、大叔父さんにあたります。
大久保忠朝が最初に名づけた名前は、 「楽しい・ことぶきの園」と書いて「楽寿園」。 庭園は後に堀田家、ご三卿の清水家、紀州徳川家、 明治になって有栖川宮家、そして皇室の持ち物となり、 ようやく現在の「芝離宮」という名前になります。 そして大正十三年(1924年)、当時の皇太子様、 のちの昭和天皇のご成婚を記念して東京都に下賜され、 一般公開が始まったのです。 江戸の街の美しさを演出した一千箇所もの大名庭園。 現在のように、いつでも誰でも楽しめる公園とは違い、 庶民にとっては「秘密の花園」的な存在でした。 それでも、自慢の庭をたくさんの人に見せたい… そんな気持ちもあったのでしょう。
庭園によっては、地元のお祭りの日などに合わせ、 現在で言う特別公開なども行われていたようです。 水戸黄門、徳川光圀は、求められれば身分に関わりなく、 小石川後楽園の観覧を許した、という記録もあります。 江戸の後期になると、広大な尾張藩の戸山荘など、 名だたる庭園のルポルタージュ「お庭拝見記」も 数多く出版されています。 現在、築地市場がある場所も、「浴恩園」という、 汐入の池をもつ美しい庭園があったとか。 市場が豊洲に移転したら、その跡地にかつての名園を 再現する…という計画、いかがでしょうか。 東京都にお勧めしたいと思います。

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