2月22日(月)〜2月26日(金)
今週は、「マラソン・ヒストリー・オブ・TOKYO」。
こんどの日曜日、28日に迫った東京マラソンにちなみ、かつて首都・東京を舞台に戦われた
マラソンの歴史を
ご紹介してまいります。
2月22日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
本日のレースは「ストックホルム五輪予選会」
日夜、大型旅客機が飛び交う羽田空港。 現在、その滑走路となっている一角に、
かつて総合レジャー施設「羽田運動場」がありました。
今から九十九年前、明治四十四年(1911年)、十一月十九日。
運動場の一角に作られた陸上競技場で、
日本で初めての近代的なマラソン競走がスタートします。
これは翌年七月、スウェーデン、ストックホルムで開かれる
オリンピックの出場選手を決める予選会でした。
「よろしゅうごわすか、それじゃ、ヨーイ、ドン!」
鹿児島出身のスターターの合図により、
お昼、十二時半に参加者十二名は一斉にスタート。
羽田から東海道へ出て、折り返し点の東神奈川を目指します。
この日は、もともとパッとしない天候でしたが、
途中から横なぐりの強風と雨に見舞われるという、
最悪のコンディションになってしまいました。
道路はまだロクに舗装もされていませんから、
あちこちに大きな水溜りが出来て、選手たちは、
右に左にめまぐるしく動きながら走っていきます。
この日、優勝候補の筆頭に挙げられていたのは、
小樽水産の佐々木選手。二番手が慶應の井出選手、
そして三番手が東京高等師範の金栗選手。
レースは小樽水産の佐々木がスタートから飛ばし、
残りの選手が後を追う展開となりました。
慶應の学生たちは、自転車による大応援団を組織、
井出を取り巻いて必死に声援を送ります。
横目で見ながら、自らのペースを刻み続ける金栗。
金栗は、濡れてブヨブヨになった黒足袋を脱ぎ捨てて、
途中からは裸足で佐々木を追いかけました。
復路、川崎から六郷橋、佐々木の脚が鈍ってくる。
ひたひたと迫ってくる金栗。気配を察した佐々木が、
一瞬立ち止まって後ろを見る。驚いた金栗も止まる。
しばしのにらみ合い。そして再び走り出す二人。
金栗が佐々木に並び「お先に失敬」…
ここで佐々木の力はつきました。道端の泥田に突っ込み、
水をゴクゴク飲んで一休み。勝負あった!
優勝は金栗、二位が佐々木、三位に井出。
まだ給水所などまったくない時代です。
四位に入った野口選手は空腹のあまり駄菓子屋に飛び込み、
パンをつかんでいきなり食べ始め、店番のおばあさんに
「ドロボー」と叱られる。また、五位の橋本選手は、
途中で意識モーローとなり、道路わきの並木が看護婦に見えて
抱きついてしまった、なんてハプニングもあったそうです。
優勝した金栗選手を支えたのは、砂糖をまぶした食パン半斤、
そして二個の生卵でした。
2月23日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
本日のレースは「東京アジア大会」
昭和三十三年(1958年)5月。
第三回のアジア競技大会が東京で開かれました。
メイン会場となったのは、新装なった神宮外苑・国立競技場。
この競技会のために聖火台が作られ、
聖火リレーも行われるなど、オリンピックを強く意識した
イベントだったのです。戦後十三年。
ようやく高度成長の入口にたどり着いた東京の人々は、
アジアの若者たちを熱烈歓迎、大会は大いに盛り上がりました。
アジア大会のマラソンコースをご紹介しましょう。
この日は、国立競技場から北へ向かって、江戸川橋から目白、
そして川越街道に出て、成増で折り返し、
再び国立を目指すという往復ルートが選ばれました。
日本のエースは、貞永信義(さだなが・のぶよし)。
後にローマ・オリンピックの代表にも選ばれる名選手で、
このアジア大会では聖火の最終ランナーも勤めています。
レースが行われた5月29日は、最高気温が28・3度。
真夏のような太陽がジリジリと照りつける、
マラソンにとっては最悪のコンディションです。
「こんな日に40キロも走るなんて無茶だ」
沿道からは、盛んにそんな声が聞こえてきたそうです。
二十カ国、千七百人余りの選手が参加した東京アジア大会。
このうち、マラソンにエントリーしたのは、
五カ国、九人の精鋭でした。二年後のローマ五輪では、
エチオピアのアベベ・ビキラが裸足で優勝し、
話題となりましたが、このアジア大会でも、ネパールや
ビルマの選手は裸足で出場していたそうです。
レースは韓国の林選手がリードし、これを日本の貞永と浜村、
韓国の李、インドのシンが追う展開。
成増で折り返した後は、林、李の韓国勢がリードを広げます。
二人を勇気づけたのが、在日韓国人の大応援団。
中にはオープンカーに乗って伴走し、凄まじい声援を送る
人々もいました。
復路の常盤台付近で、インド・シンが
暑さのため倒れてしまうというハプニングが発生。
貞永、浜村もジリジリと後退し、優勝は韓国勢に絞られる。
目白付近で、李が林をリード、林はもはや余力なく、
江戸川橋で歩き始めてしまいました。
0時32分、ザンバラ髪になり、ゼッケンもくちゃくちゃ、
疲れ果てた李選手が国立に戻ってくると、
スタンドからは惜しみない大声援が送られます。
2位は追い上げたビルマのナウ、3位に貞永。
優勝タイムは2時間32分55秒でした。
2月24日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
本日のレースは「東京オリンピック」
今から四十六年前、1964年(昭和三十九年)に開かれた
東京オリンピック。東洋の魔女、柔道のヘーシンク、
重量上げの三宅…名場面の数々を鮮烈に記憶している、
リスナーの皆さん、たくさんいらっしゃると思います。
マラソンではローマ大会の覇者、
裸足の王者アベベ・ビキラが連覇を果たしたこの大会。
コースが決まるまでは紆余曲折がありました。
大会の二年前、昭和三十七年(1962年)、
5月の新聞記事を見ると、
「マラソンコース甲州街道案が有力に」とあります。
このとき、候補となっていたのが、アジア大会で使われた
川越街道ルートと、甲州街道ルートの二つでしたが、陸連で
討議の末、甲州街道がいいだろう、ということになった。
ただし、甲州街道には一ヶ所だけ難点がある。
それは、烏山と仙川の間が、道路幅6mしかないこと!
…正に、隔世の感のある新聞記事でございます。
結局、警視庁や東京都と協議の上、バイパスを作り、
道を広げるということで、この甲州街道ルートが
採用されることになりました。ところが!
思わぬところから横やりが入ります。
クレームをつけてきたのが、建設大臣。
ウチはそんな話聞いてないよ…ということなのでしょうか、
甲州街道のバイパスなんか簡単に作れないよ、
246を通って玉川折り返しにしろ、と言ってきたんですね。
この後、水面下でいろいろな交渉があったのでしょうが、
結局、翌昭和三十八年(1963年)1月、
飛田給折り返しの甲州街道ルートに改めて正式決定。
本番まで一年九ヶ月、ギリギリのタイミングでした。
三月九日から計測が始まって、
五月十二日にはリハーサルとして毎日マラソンを開催。
当時二十二歳の新鋭、君原健二選手が、
2時間22分24秒の記録で優勝しています。
オリンピック本番にはこの君原、寺沢徹(とおる)、円谷幸吉の
三選手が、日本代表として出場を果たしました。
昭和三十九年(1964年)、大会最終日のマラソン。
アベベが連覇を果たし、競技場に2位で入ってきた
円谷選手が、トラックでイギリスのヒートリーに抜かれ、
銅メダル…といった物語は、ご存知の方も多いでしょう。
東京オリンピックを記念して、このコースを使い、
開会式のあった十月十日にマラソンを毎年開催しよう…
と、そんなプランもあったようです。
しかし、交通規制が難しいことや、
高速道路の建設工事などの理由で、計画は頓挫。
首都での本格的なマラソンは、オリンピックを最後に、
十五年もの間、開催されることがありませんでした。
2月25日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
本日のレースは「東京国際女子マラソン」
昭和五十四年(1979年)、
東京の都心部にマラソンが復活いたします。
東京国際女子マラソン。かつて、女性がフルマラソンを
走るなど、不可能だと思われていた時代が長く続きました。
歴史を振り返ると、二十世紀の前半は、女性がスポーツを
行うこと自体が社会から認められていませんでした。
女子選手がオリンピックに参加できるようになったのは、
昭和三年(1928年)のアムステルダム大会からです。
それでもマラソンは長い間、女子禁制の種目でした。
1960年代に入ると、「私も走りたい!」と、
世界各地の市民マラソンに女性たちが参加を求めます。
しかし「長距離を走ることは出産に悪影響を及ぼす」などと、
頭の固い男性役員は女性ランナーを拒絶し続けました。
それでも走りたい女性が、男装して飛び入りし、
完走して話題になったのが、この時代です。
70年代に入ると、各地のマラソンで女性の参加が
正式に認められるようになっていきます。
そして70年代最後の年、昭和五十四年(1979年)…
世界で初めて国際陸連が公認した女子だけのマラソン、
東京国際女子マラソンが始まりました。
国立競技場から新宿通りに出て、外堀通りから日比谷通り、
平和島を折り返して、西新橋を左折、赤坂見附から
青山通りに出て、再び競技場を目指すコース。
後にルートは変更され、青山通りは通らなくなりましたが、
レースの初期には、当時の美智子さま、
現在の皇后陛下を始めとする皇族の皆様が、
沿道に出て声援を送られる光景が見られました。
世界から強豪が集まることになった東京国際女子マラソン。
日本勢にもある程度頑張ってもらわなければしょうがない。
しかし、どこにそんな女子ランナーがいるんだろう?
途方に暮れた陸連は、市民ランナーの雑誌、
「ランナーズ」に協力を求めます。全国各地の、
有望な市民ランナーの情報を提供してもらい、
これは!という女性をリストアップ。
フルマラソンを走るための強化合宿を行ったのです。
ほとんどがズブのシロウト、しかしハートは熱かった!
手取り足取りのトレーニング、そして本番コースを試走。
それぞれの角の曲がり方、坂の上がり方などを細かく伝授し、
特訓の甲斐あって市民ランナー出身の三十八歳三児の母、
村本みのる選手が7位入賞の快挙を成し遂げたのです。
記録は、2時間48分52秒。優勝はイギリスのスミス、
四十二歳二児の母で、記録は2時間37分48秒。
三十代、四十代女性の力強さを、改めて思い知らされた、
そんな第一回の東京国際女子マラソンでした。
2月26日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
本日のレースは「第一回東京マラソン」
昭和五十四年(1979年)、東京国際女子マラソンが始まり、
都心部を走るマラソンが復活。
また二年後には男子の「東京国際マラソン」も同じコースで
行われるようになりましたが、
どちらも市民ランナーが気軽に走れるレースではありません。
クルマや信号に邪魔されることなく、
東京の真ん中を思い切り走ってみたい。そんな市民ランナーの
願いは、なかなか叶えられませんでした。
事態を大きく動かすことになったのは、
高橋尚子選手を育てた小出義雄コーチが、
石原慎太郎都知事に言った何気ない一言です。
「市民ランナーに銀座通りを走らせてほしい」
「そりゃ面白いんじゃないの?」
目をしばたたかせながら言ったかどうか、とにかく知事は
「東京の真ん中で大規模なマラソンをやろう」
「どうせなら世界一のマラソンにしよう」と決意。
慎太郎知事、鶴の一声で、「東京マラソンプロジェクト」が
産声を上げることになったのです。
計画が始まったのは、平成十五年(2003年)。
マラソンのために道路を開放してほしい。
それも、できるだけ長い時間。
警備や交通渋滞を考え、計画に難色を示す警察との、
3年以上に及ぶ交渉が始まりました。
世界に向けて東京をアピールするマラソンですから、
できるだけ観光名所をカバーする。
記録のため、勾配やカーブはできるだけ少なくする。
同時に、市民生活への影響を最小限にする。
こうした条件を満たすためのコースを求めて、
事務局のスタッフは東京中を駆け巡りました。
なるべく交通渋滞が起きないよう、立体交差があり、
並行する迂回ルートがあること。
歩行者が道路を横断できるよう、地下鉄が通っていたり、
歩道橋が整備されていること。
こうした条件のもとで使える道路を選びました。
また周回コースでは都内全域の交通規制が長時間に及びます。
ランナーが通り過ぎた端から規制を解除できるように、
新宿から東へ向かい、日比谷〜品川を往復、
次に日比谷〜浅草を往復して湾岸へ向かうルートが
採用されたのです。
都心で複数回のマラソンを行うことは難しいため、
東京国際マラソンと東京シティロードレースを統合し、
さらに東京国際女子マラソンは横浜にお引越し。
気が遠くなるような調整作業の末、三年前、
平成十九年に第一回の東京マラソンが行われました。
今年のレースは明後日、2月28日。
フルマラソン、10キロ合わせて3万5千人が、
東京の真ん中を駆け抜けます。
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