2月8日(月)〜2月12日(金)
今週は、「歌うコメディアン列伝」。
戦前・戦後を通じ、一世を風靡したコメディアンたちの、
懐かしい歌声をご紹介してまいります。
2月8日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
本日登場いたしますのは「榎本健一」
榎本健一、といっても、なんとなくしっくりきませんね。
「エノケン」。やはりこう呼ばせていただきましょう。
日本の喜劇の歴史に燦然と輝く巨人、エノケンは、
明治三十七年(1904年)、
日露戦争の始まった年、東京・青山に生まれています。
実家は最初カバン屋さん、後に商売がうまくいかず、
麻布十番に引っ越して煎餅屋さんを営んでいました。
子供のころから仇名は「エノケン」。
青年時代、当時全盛だった浅草オペラに加わります。
いよいよ芸の道を歩き出そうとした折も折り、
関東大震災。浅草オペラは壊滅状態になってしまいます。
後に、無声映画のアメリカ喜劇にヒントを得た、
スラップスティックな動きで
一世を風靡するエノケンですが、その芸暦の始まりは、
ミュージシャンだったんですね。
エノケンの全盛期は昭和初期、やはり浅草。
昭和四年(1929年)に
伝説の劇団「カジノ・フォーリー」を旗揚げします。
エノケンはとにかく身軽でした。
走ったり、トンボを切ったり、舞台狭しと大活躍。
また、それ以前の喜劇では考えられない、
斬新なギャグに満ちていたのも特徴だったのです。
たとえば、堀部安兵衛が、高田馬場に駆けつける場面では、
本人は舞台の中央で走る真似をするだけで、
裏方に書割の家や電信柱などを持たせて必死に走らせたり。
モダンな下町の観客たちに、この趣向は大いにウケました。
昭和四年の暮れ、後のノーベル賞作家、川端康成が、
小説「浅草紅団」に、カジノ・フォーリーを取り上げ、
その人気に火がつきます。
浅草ナンバーワン、即ち、日本一のスターとなった
エノケンは、やがて大劇場やスクリーンに進出しますが、
もう一つ、特筆すべきなのが、彼の「歌」です。
素晴らしいリズム感と、独特のしわがれ声で、
数々のヒットソングを残しているのです。
戦後は病気のため、持ち味の身軽な動きを失ってしまい、
往年のファンを寂しがらせたエノケン。
しかし、昭和四十五年(1970年)に亡くなるまで、
実に味わい深いその歌声は健在でした。
2月9日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
本日登場いたしますのは「古川ロッパ」
きのうご紹介したエノケン、榎本健一と共に、
戦前、「エノケン・ロッパ」と並び称された
喜劇の大スター、古川ロッパ。
ロッパの生まれは明治三十六年(1903年)ですから、
エノケンよりも一つ年上ということになります。
ロッパ、もともとは男爵家の六男に生まれており、
幼い頃古川家に養子に出されます。
少年時代から、とにかく映画が大好き。
早稲田中学、そして高等学院に進んでも、
学校に行くよりも映画館にいる方が長かったそうで、
すでに高校時代「キネマ旬報」の編集に加わっています。
早稲田大学に進むと、大学に通いつつ、
文芸春秋の映画雑誌、「映画時代」の編集に当たることになり、
結局、学校は中退。
後にこの雑誌が赤字続きで文芸春秋が手を引くと、
自ら私財を投じて一年間発行を続けたものの、結局廃刊で、
さあ、失業してしまった、どうしようということになる。
いったいどうすればいいだろう、と、既に三十近かった
ロッパは、文芸春秋の菊池寛に身の振り方を相談します。
「喜劇役者になればいいじゃないか。君は、なれるよ」
「役者…ですか?」
ロッパは、日ごろから宴会部長として名を馳せており、
会社の催しなどでは、必ず物まねなど隠し芸を披露し、
常に大喝采を受けていたのです。
ちなみに「声帯模写」という言葉は、
ロッパがこしらえたものなんですね。
ロッパの盟友に、元無声映画の弁士で、後に俳優となり、
ラジオ「宮本武蔵」の朗読で有名な徳川夢声がいます。
昭和七年、夢声が酒と睡眠薬の飲みすぎで倒れたとき、
NHKのラジオ放送で四十分間、夢声の声帯模写で本人に
なりきり、リスナーは一人も気づかなかった…という、
恐るべきテクニックの持ち主でした。
こうして役者に転進したロッパは、浅草で成功を収め、
後に丸の内に進出。戦前、戦中を通じて一座を率い、
エノケンの人気を二分する大スターとなったのです。
ロッパもエノケンと同じく、音楽をとても大切にした人で、
舞台では必ずミュージカルを演じていました。
最近、そんな彼の歌声を集めたCDが初めて発売され、
話題になっております。
2月10日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
本日登場いたしますのは「あきれたぼういず」
次から次へと繰り出される、目のくらむような音楽ギャグ。
今から七十年以上も前に、
これだけのモダンな録音が残されているんですね。
現在も灘康次とモダンカンカン、玉川カルテット、
東京ボーイズなど、寄席演芸で「ボーイズ物」と呼ばれる、
音楽を中心にした出し物を見ることができます。
「あきれたぼういず」は、こうした芸の元祖、
本家本元というべき存在なんですね。
メンバーは四人。
リーダー格は川田義雄、後に「晴久」と改名し、
美空ひばり、育ての親として知られています。
続いて芝利英(しば・りえ)、芝公園の芝に、
利益の利、英語の英と書きますが、これはフランスの
歌手で俳優、モーリス・シュバリエをもじった芸名。
さらに芝の兄である、坊屋三郎、
そしてバスター・キートンをもじった益田喜頓。
このお二方は、戦後も長くドラマや映画、CMなどで
活躍されたので、ご存知の方も多いでしょう。
四人の出世の舞台となったのは、やはり「浅草」。
楽器を持って歌いながら、ものすごいスピードで
次から次へとギャグを繰り出していくステージは、
それは見事なモノだった、と伝えられております。
音楽的な素養も幅広く、クラシック、オペラからジャズ、
シャンソン、ヨーデル、ラテン音楽といった洋楽や、
能狂言や歌舞伎、小唄や新内などの純邦楽、
さらには落語や浪曲、映画やアニメーションなど、
ありとあらゆる要素が注ぎ込まれ、息もつかせぬ面白さ。
全盛期、ロッパの舞台にゲスト出演したときは、
日劇を三回り半も行列が取り巻いたり、
プロ野球の余興で後楽園球場のマウンドに上ると、
その盛り上がりたるや凄まじいものがあったそうです。
当初は吉本興業の所属でしたが、昭和十四年(1939年)、
川田義雄以外の三人が新興キネマ演芸部に引き抜かれ、
グループは分裂。川田は自らのグループ、
「ミルク・ブラザーズ」を結成して、
「地球の上に朝が来る〜♪」の大ヒットを飛ばします。
残りの三人は、山茶花究(さざんか・きゅう)を加え、
第二次あきれたぼういずとして活躍を続けますが、
昭和二十年、芝利英が戦死。戦後、三人で復活するも、
昭和二十六年(1951年)に惜しくも解散しています。
2月11日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
コーナーはお休みしました。
2月12日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
本日登場いたしますのは「トニー谷」
戦後、焼け野原となった東京で、
「トニー・イングリッシュ」と呼ばれた、怪しげな
英語と日本語のチャンポン言葉を駆使。
胡散くささのカタマリのようなメガネとヒゲ、
そしてソロバンを手に一世を風靡した、トニー谷。
私たちの世代には、テレビ「アベック歌合戦」、後の
「スターと飛び出せ歌合戦」の司会者としておなじみですが、
その全盛期は昭和二十年代の後半です。
大正六年(1917年)銀座に生まれ、日本橋で育った
東京っ子のトニー谷、本名・大谷正太郎(しょうたろう)。
戦争中は兵隊にとられて上海あたりで過ごし、
復員後、東京宝塚劇場が進駐軍に接収されて名前を変えた
「アーニー・パイル劇場」に職を得て、
本場のショウビジネスを学ぶことになりました。
昭和二十四年(1949年)、アメリカのプロ野球チーム、
サンフランシスコ・シールズが来日したときの歓迎会で、
司会役を勤めたのが、舞台に立つきっかけとなります。
「レディース・アンド・ジェントルメン」
すると日本人の観客から突っ込みが入ります。
「何言ってんのか、わかんねえぞ!」
そこで飛び出したとっさのアドリブ、
「アンド・ミーチャン・ハーチャン」
これがドッと受けた。日本のスター司会者・第一号、
トニー谷、誕生の瞬間でございます。
昭和二十六年(1951年)には、
日劇ミュージックホールの司会者に迎えられ、人気爆発。
「さいざんす」「バッカじゃなかろか」
「おこんばんわ」「ネチョリンコン」など流行語を連発、
舞台を中心にラジオ、スクリーンへと活躍の場を広げます。
全盛期の昭和二十八年(1953年)には、
なんと一年に二十本もの映画に出演したそうですから、
いやはや、なんとも凄まじい限り。
しかし、昭和三十年(1955年)に、
長男が誘拐される事件が起きます。
幸い、犯人は逮捕され、子供も無事に戻ってきましたが、
この頃から少しずつ、世間の風向きが変わっていきました。
最初にご紹介した「アベック歌合戦」を最後に、
ほぼ第一線から退くことになり、
昭和六十二年(1987年)、ガンで亡くなっています。
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