2月1日(月)〜2月5日(金)
今週は、「天才画家 葛飾北斎」。ことし、生誕二百五十年を迎える不世出のアーティスト、
葛飾北斎にまつわるエピソードを、ご紹介して参ります。
2月1日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
きょうのお話は「北斎、世界を駆ける」
葛飾北斎のもっとも有名な作品といえば「富嶽三十六景」。
朝焼けに染められた真っ赤な富士、
力強く盛り上がる波しぶきの彼方に浮かぶ富士。
富士山を描いた北斎の名作は、皆様もしばしば、
ご覧になっていることと思います。
では、富士山や風景を描くだけが北斎だったのでしょうか?
否。
江戸時代にしては稀な、九十歳という天寿を全うした北斎。
そのうち七十年近くも、ひたすら絵を描いていました。
風景のみならず、人物、動物、そして妖怪まで、
ありとあらゆるジャンルの絵を手がけ、
数限りない名作を残しているのです。
平成十一年(1999年)、アメリカの雑誌「ライフ」が、
西暦二千年を前に、こんなアンケートを行いました。
「この一千年の間に、もっとも重要な業績を残した、
世界の人物 百人は誰か?」
リストアップされた中で、たった一人選ばれた日本人…
それが、葛飾北斎だったのです。
葛飾北斎の芸術作品は、後にフランスに渡り、
「印象派」を生む大きなきっかけとなりました。
日本から輸出される陶器の箱に、詰め物として使われた
北斎のスケッチ集「北斎漫画」が、偶然、画家の目に留まる。
次から次へと飛び出してくる、生き生きとした絵。
「この素晴らしい芸術家は、いったい何者だ?」と、
パリにセンセーションを巻き起こした…という伝説、
ご存知の方も多いでしょう。
マネ、ドガ、ルノワール、モネ、ゴッホ、
ロートレック、ゴーギャン…日本でも人気の高い、
これら印象派の画家たちの中で、北斎を始めとする
浮世絵の影響を受けていない者は、一人もいません。
世界の美術史を変えた男、それが葛飾北斎なのです。
北斎が生まれたのは、今から二百五十年前の
宝暦十年(1760年)。生誕の地とされる両国駅北側、
かつての本所割下水(わりげすい)近くの通りは、
現在「北斎通り」と名づけられています。
母方の「ひいおじいさん」は、赤穂浪士討ち入りの際、
吉良方にあって奮戦し、討ち死にを遂げた剣の名人、
小林平八郎。本当かウソかはよくわかりませんが、
これは北斎先生、ご本人が語ってらっしゃることであります。
子供の頃から絵を描くのが大好きで、
十代半ばには版画の版木を彫る職人となりました。
そして十九歳の頃から浮世絵師としての修行がスタート。
その後の八面六臂の活躍ぶりについては、
また明日以降、じっくりお話することにいたしましょう。
2月2日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
きょうのお話は「ダルマが見えた!」
葛飾北斎は、街中で大掛かりなパフォーマンスを行い、
しばしば江戸っ子たちの度肝を抜きました。
これからお話しするのは文化元年(1804年)、四月…。
音羽の護国寺は、観音様のご開帳で賑わっております。
四月十三日、だだっ広い本堂の前に、評判の絵師、
葛飾北斎が現れました。
広いスペースには、麦わらが敷き詰められています。
続いて、運ばれてきたのは、畳百二十畳…と申しますから、
およそ百八十平方メートルの、大きな大きな紙。
麦わらの上に、紙がふんわりと置かれました。
襷がけになった北斎の前に、大きな四斗樽が運ばれます。
中身は酒、いえ、そうではありません、
なみなみと湛えられているのは、真っ黒な液体、
どうやら墨汁のようです。
弟子がうやうやしく捧げ持ってきた竹箒を手に取ると、
北斎、それを四斗樽の中にチャポン、と浸します。
しばしの沈黙。
そしてやにわに竹箒を持ち上げると、目にも留まらぬ勢いで、
大きな紙の上に走らせて参ります。ズザザザ、ズザザザ…。
「おい、いったいありゃ何描いてるんだ?」
ギャラリーが騒然とする中、北斎は竹箒を走らせます。
「上から、ご覧になってみてください!」
描き終えた北斎に促されるまま、本堂に登ってみますと…
「こりゃすげえ、ダルマだ!」
広い紙の一面に、見事な達磨大師の像が描かれております。
口の大きさは馬が通れるほど、目は人が座れるほど、
それでいてデッサンには寸分の狂いもない。
正に北斎の天才が証明されたパフォーマンスでした。
北斎は後に、名古屋でもこのダルマパフォーマンスを実演。
その時は、丸太を組み、描き終えた絵を滑車で持ち上げて、
これまた人々から大喝采を受けた、と伝えられております。
やがて、天才絵師北斎の名は、江戸城内へも伝わります。
時の将軍・家斉公が鷹狩りの帰り、浅草・伝法院に立ち寄り、
当時のトップ・アーティストの二人、谷文晁(ぶんちょう)と
北斎をお召しになりました。
谷文晁は富士を、北斎は花や鳥を
見事に描き、将軍はことのほか喜ばれます。
このとき、北斎が「余興をお目にかけましょう」と、
細長い巻紙をササーッと広間に広げます。そして刷毛で
藍色の太い線をググググと描いていく、次の瞬間…
いきなり次の間から、二羽の鶏がけたたましく入ってきた。
そして、先ほどの藍色の線の上でバタバタ跳ね回ります。
鶏の足の裏には朱肉がつけてあったので、絵のそこかしこに
赤い足跡が転々とついている。慌てるお付きの人々を尻目に、
北斎、悠然と「竜田川に、紅葉の散る図でございます」
見事である、と将軍もこの趣向に大満足だった…と
伝えられております。
2月3日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
きょうのお話は「天才 VS 天才」
葛飾北斎は、九十年の生涯を通じ、膨大な作品を残しました。
大きな特徴の一つに、作品の多くが、「版画」、
即ち印刷物として親しまれたということが挙げられます。
四十代後半の北斎は、主な活躍の場面として
「読本(よみほん)」の挿絵を選んでいました。
読本と申しますのは、勧善懲悪をテーマに描いた、
現在の「伝奇小説」のようなもの。
大阪で生まれたこのジャンルが江戸にもやってきて、
文化年間に大流行いたしました。
おどろおどろしい妖怪変化が登場し、
アクション場面もふんだんに取り入れられるこの「読本」。
北斎にとっては、思う存分力を発揮できる上、
ギャラもたっぷり期待できる、
願ってもないジャンルだったのです。
そして、この「読本」の人気ナンバーワン作者が、
後に不世出の傑作「南総里見八犬伝」を著す曲亭馬琴。
北斎は、馬琴と組んで数多くのベストセラーを残しました。
馬琴・北斎コンビの最高傑作と言われておりますのが、
「椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)」。
主人公は弓矢の名人、「鎮西八郎」こと「源為朝」。
実際には保元の乱に敗れて伊豆大島に流され、
この地で非業の最期を遂げております。
ところが、物語では、ひそかに大島を脱出して琉球へ向かい、
この地で大活躍、お姫様を助けて平和をもたらす…という、
波乱万丈のお膳立てが用意されているわけです。
馬琴がアイディアを出し、北斎が絵を描く。
もともと、似たもの同士の天才肌だった二人の共同作業は
面白いように進み、文化四年(1807年)の正月には、
馬琴=北斎コンビの新刊が、実に七冊も同時に書店に
並んだと申しますから、このパワーたるや、恐るべし。
これほど濃密な仕事を行うとなると、
いちいち編集者が作家と画家の間を往復する手間も惜しい。
実際、仕事量がピークに達していた前の年、
文化三年には、四ヶ月に渡り馬琴の家に北斎が居候。
二人の濃密なコラボレーションが展開されました。
ただ、馬琴は、絵柄を細かく指示することがあり、
自分の創意工夫を入れたい北斎と、時に衝突します。
あるとき、アクション場面で、馬琴が北斎に、
「登場人物に草履を咥えさせてくれ」とオーダー。
すると北斎が
「冗談じゃない、こんな汚いもの咥えるヤツなんざいねえよ。
あんたが咥えて見せたら、描いてやろうじゃねえか」と
ケツをまくった。馬琴もこの台詞に激怒、
これがきっかけとなって、黄金コンビも、
ケンカ別れに終わった…と伝えられています。
2月4日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
きょうのお話は「家庭の事情」
九十年に及ぶ生涯で、様々なジャンルの絵を手がけ、
どの分野でも傑作を残してきた葛飾北斎。
彼も、当時の一流画家たちと同じく、数多くの「春画」、
ポルノグラフィを手がけています。
その中でも有名な一枚が「蛸と海女」。
海岸の岩場で、全裸になって海女が横たわり、
そこに大小、二匹の蛸が絡みつくという、
非常にエロティックな作品でございます。
昭和五十六年(1981年)、新藤兼人監督の映画、
「北斎漫画」の中で、この絵を制作する場面が演じられ、
話題となりました。
北斎を演じたのは、亡くなられた緒方拳。
そして、海女のモデルを演じたのが、若き日の樋口可南子。
この映画が、非常に妖しい雰囲気のモノだとは知らず、
世界的に有名な画家の伝記映画だと思って家族で見たところ、
非常に気まずい雰囲気になったというエピソードを、
私、耳にしたことがございます。
葛飾北斎は晩年、「お栄」という名前の娘と同居しましたが、
劇中でこの役を演じたのが、田中裕子。
彼女もまた、見事なヌードシーンを披露しています。
晩年、北斎は一人の孫の面倒を見ておりました。
画家のもとに嫁いだものの、出戻ってきた娘が
つれて来た男の子。北斎は目の中に入れても痛くないほど
かわいがり、甘やかして育てたんだそうです。
ところが、この孫がとんでもない遊び人になってしまい、
ひたすら飲む、打つ、買う。
落語に出てくる道楽息子に、輪をかけて悪くなったような
困ったお坊ちゃんだったそうでございます。
北斎は、その生涯に九十三回引越しをしたと言われ、
とにかく落ち着きのない人物だったようですが、
七十五歳のころ、突如三浦半島の浦賀に住み着きます。
この浦賀の地で一年半余りを過ごしましたが、
これもまた、孫の不始末が原因だと言われております。
当時、北斎が送った手紙の中には、孫の出来の悪さを嘆き、
遊び人や借金取りが押しかけてきて、その対応に苦しみ、
何度も尻拭いをさせられた…という文章が見られます。
後にこの孫に所帯をもたせ、魚屋を開かせて一安心、
という手紙も残っておりますが、さて、これほどの道楽者が、
それで落ち着いたのかどうか?
真相は、まったくもって藪の中でございます。
2月5日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
きょうのお話は「北斎、九十年の生涯」
葛飾北斎は、その晩年、八十代の半ばを迎えてから、
何度も信州・小布施を訪れています。
当時の旅行といえば、もちろん、徒歩が基本。
江戸から二百キロ以上も離れた遠い信州まで、
八十代半ばの北斎が何度も訪れているということに、
疑問を投げかける研究者もおります。
しかし、小布施の地に、北斎芸術の集大成ともいうべき
いくつかの天井画が残されているのは、事実です。
晩年の北斎の身の回りの世話を焼いていたのは、
娘の「お栄」。彼女自身も「応為(おうい)」という
号を持つ、一流の浮世絵師でした。
ちなみにこの「応為」という号ですが、
これはいつも北斎が彼女を家の中で「おーい、おーい」と
呼んでいたことに由来する、と言われています。
きのうご紹介した映画「北斎漫画」では、若き日の
田中裕子さんが演じていたこの「お栄」。
北斎が最初に小布施に旅したとき、
「今度は、娘を連れてきますよ」と言い残して江戸に戻った。
小布施の人々は、
「北斎先生のお嬢様だ、どんな美人が現れるかのう」
…と、噂していたところ、現れたのが六十過ぎのお婆さん、
まあ八十代半ばの爺さんの娘ですから仕方ありませんよね。
しかも決して美しいとは言いにくいごご面相。
さらに酒は飲む、タバコは吸う…という具合で、
純朴な信濃の村人たちの度肝を抜いたと伝えられています。
永遠に生きるのではないかと思われた葛飾北斎。
しかし九十歳のとき、とうとう病の床に就きます。
すぐ医者が呼ばれましたが、首を横に振るばかり。
そして四月十八日 午前四時ごろ、娘・お栄に看取られ、
息を引き取ったのです。
浅草、吉原に向かう山谷堀近く、遍照院境内の長屋、
ここが九十回以上の引越しを繰り返した北斎の、
終の棲家となったのです。
「あと十年…せめて五年…そうすれば、
本物の絵師になれたものを…」北斎、最後の呟きでした。
葬儀は四月十九日、この天才画家を慕う人々が、
江戸中から集まる中、亡骸は浅草の誓教寺に葬られました。
「ひとだまで 行く気散じや 夏の原」
「気散じ」は気晴らし、といった意味。
ひとだまになって、夏の原っぱを散歩しようか…といった、
いかにも江戸っ子らしい、辞世の句でございます。
「ひとだまで 行く気散じや 夏の原」
この句が刻まれた北斎のお墓は、
現在、東京都の指定旧跡となっています。
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