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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT

1月18日(月)〜1月22日(金)
今週は、「正岡子規の東京」。
司馬遼太郎原作のドラマ「坂の上の雲」主要登場人物として、 再び脚光を浴びている正岡子規。
若くして病に倒れ、志半ばに世を去った不世出の文学者、 その東京でのエピソードをご紹介して参ります。


1月18日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
きょうのお話は「今やかの三つのベースに人満ちて」
上野公園の中を歩いていると、東京文化会館の裏手に、 小さな野球場があります。平成十八年(2006年)、 上野公園の開園130周年を記念して、この野球場に 名前がつけられました。「正岡子規記念球場」。 明治の半ば、日本に入ってきたばかりの新しいスポーツ、 「野球」に熱中していた東京大学予備門の学生、正岡子規。 子規は、野球に関するたくさんの記述を残していますが、 それによれば、明治十九年(1886年)から二十三年ごろ、 ここ上野公園で、盛んに野球を楽しんだのだそうです。
当時のポジションは、キャッチャー。 正岡子規といえば、晩年の壮絶な闘病生活のイメージが 強いのですが、十代後半から二十代の初めにかけては、 まことに健康な体で、グラウンドを駆け回っていたんですね。 後に新聞で野球の詳しいルールを紹介したり、 また野球に関する短歌・俳句などを数多く残すなど、 このスポーツを日本に定着させるにあたり、 大いに力を尽くした一人でした。記念球場の傍らにも、 「春風や まりを投げたき 草の原」の 句碑が建てられています。 功績が認められて、平成十四年(2002年)には、 野球殿堂入り。この年七月、子規の故郷・松山で、初めて オールスター戦が開催され、殿堂入りの表彰が行われました。
「今やかの三つのベースに人満ちて   そゞろに胸のうちさわぐかな」 正岡子規は、さまざまな号、別名を持っていましたが、 その中の一つに「野球」と書いて、「の・ぼーる」と 読ませるものがあります。これは彼の幼い頃の呼び名、 「のぼる」にちなんだシャレなんですね。 子規がこの名前を用いた当時は、まだ「ベースボール」を 「野球」と呼ぶことはなかったので、これは偶然の一致。 子規を「野球」の名付け親と呼ぶことはできませんが、 彼が訳した「打者」「走者」「飛球」といった言葉は、 現在でも広く使われているのです。
四国・松山の後輩で、亡くなられた名二塁手の千葉茂さんは、 子規の句「球うける 極意は風の 柳かな」について、 「あっぱれと言うしかない」と絶賛していらっしゃいます。 今年も少しずつ野球シーズンが近づいてきました。 最後に、子規が亡くなる前の年から書き始めた最晩年の日記、 「仰臥漫録(ぎょうがまんろく)」に残された、 一句をご紹介しましょう。 「たんぽぽや ボール転げて 通りけり」

1月19日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +

きょうのお話は「長命寺の子規」
四国、松山から上京し、ベースボールの魅力に とりつかれてしまった、正岡子規青年。 もちろん、東京大学の哲学科に進学したくらいですから、 勉学のほうも、それなりに励んでいたわけです。 小説家を志した時期もありました。 しかし、試しに書いてみた作品を、幸田露伴に 読んでもらったところ、芳しい評価を得ることができず、 断念しています。 「俺の小説はダメか…」 それでも根っから性格の明るいスポーツマンで、 亡くなる直前までユーモアのセンスを忘れなかった子規。 「小説がダメなら、こっちで…」 というわけでもないのでしょうが、子供のころから親しんだ 短歌や俳句などに、心血を注いでいくようになります。
明治二十一年(1888年)の夏休み、 正岡子規は、東京・向島、長命寺門前の「山本や」2階に 友人たちと泊り込み、短歌や俳句づくりに精を出します。 子規は、この場所がよほど気に入ったようでした。 二人の友人が引き上げた後も、「月光楼」と名づけた この二階に一人で留まり、 興の赴くまま、詩を詠みつづけたのです。 そこで生まれた詩集が「七草集(ななくさしゅう)」。 これは、秋の七草それぞれを、「フジバカマ」は漢文、 「ハギ」は漢詩、「オミナエシ」は和歌、「ススキ」は俳句 …といった具合に、違うスタイルで表現したもの。 子規のほとばしる才能が感じられる作品です。 子規は、この手書きの一冊を友人たちに見せます。 それを手に取った一人が、同級生だった夏目金之助でした。 金之助は子規の「七草集」を手放しでほめ、 そこで初めてペンネームを使います。書き込まれた署名は、 「漱石」…これが、文豪、夏目漱石の誕生だったのです。
さて、向島…といえば、桜の名所。 子規が長期滞在した「山本や」は、 かの有名な「長命寺 桜もち」の製造販売元でございます。 子規は、もちろんこの桜餅が大好きだったようで、 「花の香を若葉にこめてかぐはしき  桜の餅(もちい)家づとにせよ」という歌を残しています。 「もちい」は「お餅」、「家づと」はお土産のことです。 「花の香を若葉にこめてかぐはしき  桜の餅(もちい)家づとにせよ」

1月20日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +

きょうのお話は「常盤会寄宿舎」
正岡子規が生まれたのは1867年(慶応三年)。 翌年が明治元年ですから、子規の満年齢は、明治と同じ… ということになります。明治十六年、すなわち子規十六歳の年。 上京する友人たちに刺激を受け、かねてから東京行きを 望んでいた子規ですが、この年、ようやく、念願を果たします。 といっても、正岡家は、あまり裕福な家ではなかったので、 学資を出すことなど難しかった。 そこで、子規は、猛勉強の末に、松山藩の旧藩主、 久松家による奨学金を手にすることができたのです。
月額七円、現在のお金にすれば、 およそ十五万といったところでしょうか。 久松家は、さらに、松山からやってくる学生たちのために、 東京・真砂町に寄宿舎を建てることになりました。 明治二十年(1887年)、 子規もまた、「常磐会寄宿舎」と名づけられた、 この建物に住み着くことになります。 泉鏡花の「婦系図」、お蔦・主税のラヴ・ストーリーには 主税の恩師「酒井先生」が登場いたします。 住んでいた町の名前から、別名「真砂町の先生」と 呼ばれておりますが、正岡子規が暮らした「常磐会寄宿舎」は、 まさにこの本郷、真砂町にありました。 地下鉄、本郷三丁目の駅から北へ向かってすぐ、 現在は五十三段の石段になっている「炭団坂」という 坂があります。常盤会寄宿舎があったのは、この坂を 上りきったあたり。
もともとこの土地は、坪内逍遥の家があった場所で、 逍遥はここで、「小説神髄」などの代表作を執筆しています。 そして、逍遥が引っ越した後の土地を、久松家が買い取って、 旧藩士の子弟たちのための寄宿舎とした、というわけです。 あまり交際範囲の広くなかった正岡子規にとって、 故郷の懐かしい仲間たちと共に過ごせた「常磐会寄宿舎」は、 かけがえのない場所でした。
同じ屋根の下、郷里の後輩であり、後に俳人として名を残す、 高浜虚子や河東碧梧桐、また「坂の上の雲」でおなじみの、 秋山真之(さねゆき)らも、青春の日々を過ごしていたのです。 正岡子規は、この寄宿舎を根城に、 日々、ベースボールに興じたり、寄席に通ったり。 愉快な青春の日々を過ごしました。 しかし、そんな時間にもやがて、終わりのときが来ます。 久松家の奨学金は二十五歳で打ち切られ、 寄宿舎も出て行かなければならない決まりがありました。 明治二十四年(1891年)九月、 正岡子規は常磐会寄宿舎を出て、駒込に独立。 文学者、正岡子規の新たなスタートでした。

1月21日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +

きょうのお話は「子規と漱石」
夏目漱石は、三代目の小さん師匠について、 「小さんは天才である。あんな芸術家は滅多に出ることがない。 実は彼と時を同じゅうして生きている我々は、 大変な仕合せである。」と作中人物に語らせています。 漱石は、三代目・小さん師匠の大変熱心なファンで、 寄席に通い詰めていたんだそうです。 高校の同級生だった正岡子規もまた、 上京後、寄席に出かけるのが大好きだった。
で、あるとき、 「おい、正岡君じゃないかい?」 「おやおや、夏目君、とんだところで…」と出くわしたのが、 仲良くなるきっかけだった…と言われています。 二人の友情は、明治三十五年(1902年)に、 子規がこの世を去るまで変わることなく続きました。 亡くなる二年前、漱石のイギリス留学が決まります。 知らせがもたらされたとき、子規の病状は、 もうかなり進んでいました。この別れが、 永遠のものになることは、二人にはよくわかっていたのです。 漱石が旅立った後、子規は主宰していた俳句の会などを 一切やめてしまうなど、大変な落ち込みぶりだったそうです。 後に、漱石は、元気だった頃の、 子規のこんなエピソードを語っています。 「その時分は冬だった。 大将、雪隠(せっちん)へ入るのに、火鉢を持って入る。
雪隠へ火鉢を持って行ったとて、 当たる事が出来ないじゃないか…というと、 いや当り前にするときん隠しが邪魔になっていかぬから、 後ろ向きになって前に火鉢を置いて当るのじゃという。 それで、その火鉢で牛肉をじゃあじゃあ、 煮て食うのだからたまらない」 正岡子規の豪快な人柄が偲ばれますね。 一方、子規は、漱石のこんな一面を書き残しています。 「余は漱石と二人、田んぼを散歩して、早稲田から 関口の方へ行ったが、大方六月頃の事だったろう。 そこらの水田に植ゑられたばかりの苗がそよいで居るのは、 誠に善い心持であつた。
この時余が驚いた事は、漱石は、 我々が平生(へいぜい)喰ふ所の米は、 この苗の実である事を、知らなかったという事である。」 夏目漱石ともあろう物知りが、田んぼと米の関係を 知らなかった…というのも驚きですが、早稲田・関口界隈が 見渡す限りの水田だった、というのも、今ではちょっと、 信じがたい光景です。

1月22日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +

きょうのお話は「正岡子規 最後の日々」
十代の正岡子規は、日ごろから学業にはあまり精を出さず、 野球に夢中。まことに健康な学生生活を送っておりました。 ところが、明治二十一年の八月、転機が訪れます。 ゴホゴホゴホ…妙な咳が出る。思わず手で口を押さえると… そこには、血がついていました。はじめての喀血。 当時は不治の病だった、結核にかかってしまったのです。 翌二十二年五月にも、大きな喀血を経験。
人生が、そう長くは残されていないことを悟りました。 そして、この喀血の後で、血を吐くまで鳴くといわれる鳥、 「ホトトギス」を意味する「子規」を、自らの号として 名乗るようになったのです。 聞こえているのは、日清戦争をモデルに作られた軍歌、 「雪の進軍」です。明治二十八年(1895年)、 正岡子規は、弱ってくる体力の限界に挑戦するかのように、 従軍記者となり、日清戦争の取材旅行に出かけます。 そして大陸から戻る船の中で二度目の大喀血。 一時は重体となり、故郷・松山で療養しますが、このとき、 松山に教師として赴任していた夏目漱石と同居、 しばしの楽しい時間を過ごすことができたのです。 東京に戻ったのは、晩秋。
この年の大晦日には、 夏目漱石、高浜虚子といった友人たちが遊びに来て、 「漱石が来て虚子が来て大晦日」こんな句を残しています。  しかしこの後、体は徐々に衰えていくばかり、 子規は、ふたたび東京から出ることはありませんでした。 正岡子規、最後の住まいとなったのは、 鶯谷駅にほど近い、根岸の一軒家です。 明治三十三年(1900年)、最後の大喀血。 さらに親友・夏目漱石のイギリス留学が重なり、 落ち込むことの多かった子規。彼を慰めたのは、高浜虚子が 贈ってくれた、その頃はまだ珍しかったガラス戸でした。 動くこともままならない体でも、ガラス越しに庭を眺められる。 詩人・正岡子規にとって、これ以上の喜びはなかったのです。 衰えていく体、そして結核菌が脊髄に入り込んでしまう 「脊椎カリエス」による凄まじい痛み。
そんな中でも子規は懸命に生きようとして食べ、 そして短い時間を惜しむように執筆を続けました。 明治三十五年(1902年)、九月十八日午前十一時ごろ、 「へちま咲いて 痰のつまりし 仏かな」 「痰一斗 へちまの水も 間に合わず」 「おとといの へちまの水も 取らざりき」この三句を遺し、 翌・九月十九日未明、帰らぬ人となったのです。享年三十五。 子規が亡くなった家は、空襲で焼けてしまいましたが、 戦後再建され、現在は東京都指定史跡 子規庵として、 一般公開されています。

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