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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT

1月4日(月)〜1月8日(金)
今週は、「信仰と空港の町 成田」。
東京から東へ、電車でおよそ1時間、 江戸時代から多くの参詣客を集めてきた成田の町。
その興味深い歴史エピソードを集めてお送りしてまいります。


1月4日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は「成田山新勝寺」
今年も、たくさんの初詣客を集めている、 大本山 成田山新勝寺。 年間の参拝者が一千万、そのうち正月三が日で、 三割に当たる三百万もの人がお参りするそうですから、 混雑たるや、凄まじいものがございます。 お寺の歴史は大変古く、今から一千年以上の昔、 天慶(てんぎょう)三年(940年)にさかのぼります。 そのころ、関東の地では、京の都に対し反乱を起こした、 平将門が縦横無尽に暴れまわっておりました。 何とか、この非常事態を収めなければならない…と、 当時の朱雀天皇の命を受け、 派遣されることになったのが寛朝(かんちょう)大僧正。 宇陀天皇の血筋を引く、高貴なお生まれの方でございます。
寛朝大僧正は、弘法大師の手になる不動明王像を持ち、 大阪から海路、東国へ向かいます。 そして、たどり着いたのが、成田山。 ここで「平将門の乱が無事に収まりますように」と、 一心不乱に念じたのでありました。 寛朝大僧正の祈りが通じて、平将門は捕らえられ、 関東には再び平和な日々が戻ります。 それでは上方に帰ろう…と、不動明王像を動かそうとする。 が、どんなに力を込めても、像はピクリとも動きません。 いったい何事が起きたのか、と寛朝大僧正が いぶかしんでおりますと、どこからともなく、 不動明王の声が聞こえて参ります。 「私は長くこの地に留まって、生きとし生けるものを救っていこうと思います」 びっくりした寛朝大僧正は、都の天皇に向けて、 かくかくしかじかでございます…と書状をしたためる。
天皇はその話をお聞きになって、深く感じ入られ、 この地にお堂を建立させ、「新勝寺」の名前を授けた、 …と、こういう話が伝わっているのでございます。 寛朝大僧正は、お経に節をつけて唱える、 声明(しょうみょう)の名人だったといわれ、また雅楽にも 秀でていたそうです。耳のいい方だったんでしょうね。 さて、成田山新勝寺、創建から七百年ほどすぎた江戸時代、 にわかに脚光を浴びて、一大観光スポットとして 大人気を得ることになります。

1月5日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +

今日のお話は「成田山 大ブレイク」
成田山新勝寺は、江戸時代、庶民の間で大変親しまれ、 人気の高いお寺へとなって参ります。 そのきっかけを作ったのは、元禄年間に活躍した歌舞伎俳優、 初代・市川団十郎でありました。 初代・市川団十郎の父親は、名前を堀越重蔵と申しまして、 現在の成田市・幡谷(はたや)という所に生まれています。 堀越家は、もともと甲斐の武田、後に小田原の北条に仕えた 武士の家柄でした。北条家が滅ぼされた後、下総・幡谷に 移り住み、刀を捨て、農民として暮らしていたそうです。
ところが、団十郎の父・重蔵は、農業が好きではなかった。 花のお江戸で暮らそうと、故郷を出奔。 そして生まれたのが、後の初代団十郎だったのです。 十四歳で歌舞伎の道に足を踏み入れた団十郎。 紅と墨とのゴージャスなメーキャップで舞台に登場し、 斧を手にこれまた派手な立ち回りを演じたところ、 これが大評判となり、瞬く間にスターの座を手に入れます。 「荒事」と呼ばれる、大げさな扮装で、 豪快なステージでのアクションを見せる、現在に伝わる 市川団十郎家の芸の創始者が、この初代・団十郎なのです。 劇作家としても腕を振るい、数多くの作品を残すなど、 名声をほしいままにした団十郎でしたが、たった一つ、 悩みの種がありました。それは「コドモに恵まれない」こと。 どうすればいいだろう、そうだ、お父っつあんの故郷に近い、 成田山のお不動様におすがりしてみよう…と思い立ち、 一心不乱に祈り続けたんだそうです。
そして、見事に、男の子、後の二代目団十郎が生まれました。 ありがたや、不動明王様…というわけで、団十郎は、 お不動様の霊験を描くお芝居を次々に舞台に乗せます。 そして、自ら「成田屋」の屋号を名乗るようになったのです。 もちろん、二代目、三代目も、熱心な信者となりまして、 日ごろからそのご利益を周りに語り伝えていきました。 「なんだね、成田のお不動様ってのは、  ずいぶんありがたいお寺だっていうじゃねえか」 江戸っ子の間に評判が広がるのに、 さして時間はかかりませんでした。
元禄十六年(1703年)には江戸でのご開帳が始まり、 多くの善男善女を集めます。 また、成田は江戸から三泊四日で出かけられる、 手軽な行楽地としても人気を集めるようになりました。 当時の典型的な成田ツアー。江戸を経ったその日は、 船橋宿で一泊。翌日、成田に着いて、門前町で二泊目。 そして三日目は参拝を済ませて再び船橋泊まり、 四日目に江戸に再び戻る、こんな日程だったそうです。 当時としてはお手軽なのかもしれませんが、 現在の私たちから見れば、怖ろしくゼイタクな 旅行のように思えます。

1月6日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +

今日のお話は「義民・佐倉惣五郎」
信仰の町、成田には、成田山新勝寺のほかに、もう一ヶ所、 江戸時代から名高いお寺がございます。 その名を鳴鐘山東勝寺(めいしょうざん・とうしょうじ)、 またの名「宗吾霊堂」。 講談や浪曲、お芝居などで名高い義民・佐倉惣五郎が 祀られている場所です。 佐倉惣五郎、本名、木内宗吾と伝えられております。 江戸時代の初め、印旛郡公津村(こうづむら)の 名主の家に生まれました。 時は承応二年(1653年)ごろ。 この頃、関東地方に大きな飢饉が訪れまして、下総の村々も 凶作に苦しみます。
本当なら年貢を軽くしてほしいところなのに、 当時の藩主、堀田正信(ほったまさのぶ)は、 領民の事など、まったく考えておりません。 「飢饉だから年貢を軽くしろ? 冗談じゃないよ、  自分たちの食べる分はちゃんととってあるんだろう?  水でも飲んでろよ。年貢はちゃんと納めてもらうよ」 惣五郎たち名主は、村人たちが負担しきれない分の年貢を、 自分の家財道具を売り払って納めますが、それでも足りない。 年貢滞納者には、恐ろしいお仕置きが待ち構えておりました。 「このままじゃ、どうしようもない。私は将軍様に直訴します」 直訴はきついご法度。惣五郎は自らの命を投げ出してでも、 下総の農民たちを助けようと、覚悟を決めたのです。 人目をはばかりながら、村を抜け出し、江戸へ向かう惣五郎。 当時の将軍、四代・家綱公が上野寛永寺に墓参りする行列に 飛び込んでいきました。 「お願いでございます! お願いでございます!」 一瞬、駕籠が止まりますが、宗吾はすぐ取り押さえられます。 駕籠の中から何かむにゃむにゃという声が聞こえ、 それを聞いたお付の者が、大きく頷き、惣五郎が手にした 書状を受け取り、駕籠の中に差し入れました。
(将軍様が…訴えを読んでくださる) 幕府は下総の飢饉が深刻であることを調査し、年貢を 軽くするよう、藩に指示を出します。農民は救われました。 しかし、惣五郎は…。住民たちの必死の嘆願もかなわず、 家族もろとも、はりつけの刑に処せられたのです。 佐倉惣五郎の名は、その後も長く語り伝えられていきました。 幕末には歌舞伎の題材となり、 明治以降は浪曲や講談「佐倉義民伝」の主人公として、 今なお語り伝えられる庶民のヒーローとなったのです。

1月7日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +

今日のお話は「三里塚御料牧場」
江戸時代、現在の成田市周辺には、 幕府直轄の牧場(まきば)が広がっておりました。 ここで飼われていたのは、主に「馬」。 江戸幕府、言ってみれば一種の軍事政権ですから、 馬が必要不可欠な存在だったんですね。 先日、八代将軍・徳川吉宗が、オランダ人からアラブ種の 馬を献上されて、なんとか日本に根付かせようと努力した… そんなお話をご紹介しましたが、 海を渡ってやってきた馬たちが飼われたのも、 成田界隈にあった幕府・御料牧場でした。 このあたりは比較的江戸に近く、また広い範囲に、 アップダウンの少ない台地が広がっていたことから、 牧場にはうってつけの地域だったんです。
さて、明治維新を迎え、文明開化の時代になりますと、 人々は洋服身に着けるようになります。 洋服の原料は、羊毛、羊の毛ですね。 当時、日本では羊はほとんど飼われていませんでしたが、 輸入では大変お金がかかる。なんとか自前で羊を育てよう… ということになりまして、当時の内務省が アメリカ人の専門家アップ・ジョーンズさんという方に、 「どこか羊を育てる適当な土地を探してくれたまえ」と依頼。 で、関東一円を歩き回ったジョーンズさん、 「オウ、ココガイイデスネ! ヒツジサン、 オオヨロコビデス!」と白羽の矢を立てたのが、 ここ成田、三里塚の元幕府御料牧場だったのです。
三里塚の牧場がオープンしたのは、明治八年(1875年)。 管轄は内務省から農商務省、そして宮内省へと移り、 明治二十一年(1888年)には「下総御料牧場」となります。 始めは、羊の飼育が主な目的でしたが、後に牧畜と農耕を 幅広く手がけるようになっていきました。 昭和に入ると、この牧場はサラブレッドの生産を手がけます。 昭和二年(1927年)、イギリスから種牡馬、 トウルヌソルを輸入。二年後に生まれたワカタカは、 第一回の日本ダービーを制したことで知られています。 戦後も、桜と馬の牧場として親しまれ、 春になると在京外交団を招待しての園遊会が催されました。 外交官たちは馬車や馬で場内を散策し、美しい桜を愛で、 新鮮な牛乳や名物のジンギスカンに舌鼓を打ったといいます。 どこまでものどかな、平和な場所だったんですね。 ところが昭和の四十年代、この牧場に とんでもない騒動が持ち上がります。

1月8日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +

今日のお話は「成田国際空港」
昭和五十九年(1984年)の大ヒット曲、 中森明菜さんの「北ウイング」。 成田空港の「ご当地ソング」としてもおなじみですね。 紆余曲折を経て、成田が開港したのが、昭和五十三年の五月。 オープン前後は、空港や関係施設に過激派の攻撃が相次ぎ、 成田から海外に行くのも、おっかなびっくり…という時期が ずいぶん続いたものです。歌のヒットは開港から六年後。 この時期になると、成田がすっかり、 私たちの身近な存在となっていたことがわかります。 そもそも、成田開港が、揉めに揉めることになったのは、 後に政府も認めている、計画が始まった当時の、 「ボタンの掛け違い」によるものでした。
時は昭和三十七年(1962年)。日本は高度成長期を迎え、 空の便の需要は増すばかりでした。 当初は羽田の拡張が検討されましたが、土木工事が難しい、 アメリカ軍の制約が厳しい…といった理由で断念。 東京から百キロ圏内に新しい空港を作ることを決めました。 最初に候補地となったのが、千葉県の富里。 ところが、計画が明らかになったとたん、地元が猛反発。 政府は富里への空港建設をあきらめ、他にも候補地は いくつかありましたが、最終的に決まったのが成田、三里塚。 きのうご紹介した、下総御料牧場と、その周辺の農地でした。 本当なら、最初の段階から担当大臣や役所が誠意を尽くし、 農民たちに理解を求めるべき問題。 しかし、当時の政府は、そうした努力を怠りました。 代替地の準備も進めないうちに、空港建設を決めてしまった。 これが後に言われることになった「ボタンの掛け違い」です。
地元の農民たちは、頭ごなしのやり方に猛反発、 体を張った反対闘争が始まります。 時は1960年代、政治の季節。 ここに「支援」という形で過激派の学生や運動家も加わり、 闘争は果てしなく泥沼化していきました。 当初の計画では、空港は昭和四十六年(1971年)には オープンするはずでした。 ところが、土地が思うように手に入らないことや、 反対運動の盛り上がりなどで、開港は遅れに遅れます。 当初のプランは変更を余儀なくされ、空港の形は変わり、 余計な経費が次々にかかることになりました。 それだけならまだしも、闘争の最中に、 九人もの尊い命が失われたことは、忘れられない事実です。 平成三年(1991年)、当時の奥田運輸大臣が、 「位置決定で地元に理解を得るための努力が十分でなかった」 「強制収用をめぐり流血の事態が発生し 大きな溝をつくってしまった」 と、反対住民に頭を下げてからは、対立も解け始めました。 「成田を繰り返してはならない」 日本でも海外でも、大規模な公共事業を進めるにあたって、 成田のケースは、必ず学ぶべき教訓とされているそうです。

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