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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT

12月28日(月)〜1月1日(金)
今週は、「箱根八里 歴史探訪」。
いよいよ土曜日・1月2日、 第八十六回東京箱根間往復大学駅伝競走、 箱根駅伝の幕が
切って落とされます。 そこで今週は、熱戦の舞台にちなみまして、 風光明媚な温泉リゾート、
箱根の横顔をご紹介して参ります。


12月28日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は「通行手形を忘れずに」
「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」 江戸時代、東西を結ぶ大動脈だった東海道の中でも、 難所として知られたのが、箱根宿前後の山道です。 小田原宿から箱根宿を越えて、次の三島宿まで、 この間の山道の距離がおよそ八里、現在でいえばおよそ 三十二キロメートルほどあったことから、 「箱根八里」という言葉が生まれました。
この区間に待ち構えていた難関は、峠だけではありません。 皆様よくご存知の通り、箱根には「関所」がありました。 関所、即ち、危険人物や要注意人物などの出入りを見張る、 チェックポイントでございます。 一本しか山道で、逃げも隠れもできない箱根は、 関所を設けるのにうってつけの土地だったんですね。 で、この関所を通るのに必要なのが「通行手形」。 現在で言うパスポートのようなものでございます。 関所が特に目を光らせていたのが「入り鉄砲に出女」。 とくに箱根で厳しくチェックされたのが、 女性のツーリストの皆さんでございます。 江戸時代の始め頃は、戦乱が終わってまだ間がありません。
関が原の合戦で徳川家康に敵対した、いわゆる「外様大名」は、 もしかしたら、再び叛旗を翻すのでは…と、 厳しくチェックされていました。 そして、妙な気を起こすことがないように…と、 妻や娘を、江戸に置いておくよう、強制されていたのです。 こうした大名の妻や娘が、勝手に逃げ出すことのないよう、 ちゃんと見張っておく、というのが関所の最大の仕事でした。 というわけで、女性の身元チェックは、男性の何倍もの 手間をかけて行われました。通行手形には、人相や体の特徴、 ホクロの場所まで、コト細かく書き込まれていたそうです。 で、もし、ホクロの位置が、手形に書かれていたものと 一致しなかったりしたら、他が全部オーケーでも、 関所を通してもらうことは出来なかった。 もう一度江戸まで戻って、書き直してもらわなければ、 箱根を越えることはできなかったのです。 現在では、小田急や箱根登山鉄道で、私たち首都圏の人間には 身近なリゾートとなっている箱根ですが、 江戸時代には、いろいろな意味で、 とても大変な場所だったんですね。

12月29日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +

今日のお話は「関所の中をのぞいてみれば」
私ぐらいの年齢になりますと、「箱根」で連想するものは、 一も二もなく「温泉」。 もう少し若い方ですと、いま聞こえております、 氷川きよしさんのこの歌を思い浮かべるかも知れません。 さて、江戸時代に生きた人々は、「箱根」といえば、 まず「関所」を思い浮かべたことでしょう。 徳川家康が、五街道の整備を始めたのが、慶長六年 (1601年)ごろのこと。
その頃はまだ、関が原の戦いが終わったばかりで、 豊臣の味方をする武将もたくさんおりましたから、 江戸の守りも固めなければいけません。 そこで、日本の各地を結ぶ街道の重要なポイント、 五十箇所あまりを選んで「関所」を置く事になりました。 東海道、箱根宿の現在の場所に関所が設置されたのは、 元和(げんな)五年(1619年)ごろと申しますから、 三百九十年前ということになります。 明治になって関所は廃止、建物は取り壊されます。 大正十一年(1922年)に、関所跡は、 国の史跡に指定され、後に昭和四十年(1965年)、 足軽番所の建物が復元され、観光名所となりました。
昭和五十八年、静岡県韮山の「江川文庫」から、 幕末の慶応元年(1865年)に行われた、 関所の解体修理の詳しい記録が発見されます。 使われた材木のサイズがミリ単位で記録されていたり、 敷居や鴨居の溝の数、釘やカスガイの寸法まで載っている。 これは凄い記録が見つかった、ぜひこの通りに 関所を再現してみようではないか…と話がまとまりまして、 平成十一年(1999年)に、現地の発掘調査から、 大規模なプロジェクトがスタートしました。 現在の技術を使って、それらしい建物を復元するのは、 そんなに難しいことではありません。 ところが、この箱根関所復元は違いました。
せっかくだから、熟練の棟梁たちに腕を振るってもらって、 江戸時代の優れた技術も再現してみようではないか… ということになったのです。 基礎もコンクリートを使わず、石積みで、その上に ぴったりと木材を削って乗せていく…といった、 気が遠くなるような作業の末に、 平成十九年、一昨年に復元工事が完成。 新たな箱根名所として、多くの観光客を集めています。 皆さんも、箱根に行く機会がありましたら、 関所に出かけられて、ぜひニッポンの匠のワザを、 じっくりご堪能いただきたいと思います。

12月30日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +

今日のお話は「海を渡った箱根細工」
箱根名物、といえば、まず思い浮かべますのが、 寄木細工などの木工製品ですね。 その歴史は大変に古く、平安時代にさかのぼるといわれ、 江戸時代に駕籠屋さんの副業として盛んになったんだそうです。 箱根の細工物には「指物」…指と書いて指すと読む「指物」、 そして「挽き物」…「挽肉」の「挽く」と書きますが、 この挽き物の二種類があります。 「指物」と申しますのは寄木細工で有名な、箱の類い。 実は、箱根の山々は、京都の嵐山や、鳥取・伯耆大山と並び、 とても木の種類が豊かなことで知られています。
こうした豊かな木の表情を生かそうと、 工夫されたのが、箱根名物の寄木細工。 江戸時代の終わりごろ、石川仁兵衛さんという方が 発明したテクニックが、現在まで伝えられたというものです。 さて、もう一方の「挽き物」は、その名の通り、 ロクロを「挽いて」作る木工製品。 かの十返舎一九「東海道中膝栗毛」箱根宿の場面にも、 登場してまいりますので、ちょっとご紹介しましょう。 「又こゝに湯本の宿といふは、両側の家作きらびやかにして、 いづれの内にも美目よき女二三人づつ、 店さきに出て名物の挽もの細工を商う」 お話では、美しい女店員に引き寄せられた弥次さんが、 三百文の煙草入れを値切るうち、いつのまにか元値を超えて、 四百文で買ってしまう… という爆笑シーンが描かれております。
実は、ロシアの民芸品として有名な、「マトリョーシカ」。 中から次々と小さい人形が出てくる、 かわいらしい置物でございますが、あのマトリョーシカが、 実は箱根の挽き物細工をヒントに生まれたというお話、 皆様、ご存知でしょうか? もともとは天保十五年(1844年)ごろ、 湯本茶屋の信濃屋亀吉さんがこしらえたという、 「十二たまご」…大きな卵の中から次々に小さな卵が 出てくるというオモチャがあったんだそうです。 この「十二たまご」は、いろいろなバリエーションが 作られましたが、その一つに次々に神様が出てくる 「七福神」というものがあります。 明治の半ば、塔ノ沢にロシア正教の別荘がございまして、 そこに逗留していたある修道士がこの「七福神」に目をつけた。 「コレ、オモシロイデス、ロシアでもツクリマショウ」と、 故郷に持ち帰って作ったのが、 マトリョーシカだといわれております。

12月31日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +

コーナーはお休みしました。

1月1日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +

今日のお話は「遥かなるロッキー山脈」
歴史探訪ファンの皆さん、あけましておめでとうございます。 本年もこのコーナーを、よろしくお願いいたします。
いよいよ明日、午前八時、今年の箱根駅伝がスタート。 読売新聞東京本社前から、箱根・芦ノ湖を目指して、 二十チームの精鋭たちが、走り始めます。 今ではすっかり、お正月の風物詩となった箱根駅伝、 第一回目が行われたのは、大正九年(1920年)、 二月十四日のことでした。
そもそも、「駅伝」という、長距離リレー競技を 思いついたのは、日本マラソンの父といわれた、金栗四三。 金栗は、日本人初の近代オリンピックの選手となり、 1912年のストックホルム五輪に出場を果たした人物です。 ある時、金栗と、仲間の陸上選手二人が、 列車に乗り合わせたことがありました。 勢い、車中では「いかに陸上を強くするか」という 議論が戦わされることになります。 「長距離ランナーを育てるには、駅伝が一番ぢゃ」 「しかし日本では狭すぎます。どこを走ればいいですかね」 「アメリカ大陸横断というのはどうぢゃね。 世界の度肝を抜いてやろうではないか、ふぉっふぉっふぉ」 おお、それはいいと議論がまとまり、 ではアメリカ大陸横断駅伝の選手を選ぶ予選会を開こう、 と、トントン拍子に話が進みます。 「アメリカにはロッキー山脈というとてつもない山があります。 日本でそれに匹敵する場所となると…」 「箱根のお山があるぢゃないか!」
というわけで、米国大陸横断駅伝の「予選」として 始まることになったのが、箱根駅伝だったんですね。 第一回の箱根駅伝に出場したのは、早稲田、慶応、明治、 そして現在の筑波大学の前身、東京高等師範の4チーム。 時は大正、学生の本分は勉強にあるという時代ですから、 ランナーたちは午前中は学校で勉学に励み、 レースは午後、スタートするということになりました。 当然、箱根に差し掛かるのは、もう日もとっぷりと暮れた頃。 もちろん山道は真っ暗、しかも舗装されていませんから、 石ころがゴロゴロと転がっている悪路でございます。 地元の青年団などが松明を持って伴走し、 最後の選手がゴールにたどり着いたのは、 実に午後九時五十三分。いやあ、寒かったでしょうねえ。

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