12月7日(月)〜12月11日(金)
今週は、「忠臣蔵誕生」。東京歴史探訪、年末恒例企画の「忠臣蔵」。
今年は、赤穂義士事件を題材にした人形浄瑠璃や歌舞伎、
落語や映画などを取り上げて、
その歴史を辿ってまいります。
12月7日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は「芝居はニュースだ!」
この季節になると聞きたくなる、大河ドラマの主題曲、
「赤穂浪士」、本当にイイ曲でございます。
討ち入りの発端となった事件、江戸城内松の廊下に於いて
浅野内匠頭が吉良上野介に対し刃傷に及んだのが、
元禄十四年(1701年)三月のこと。
当時はニュースもワイドショーもございませんから、
こうした大事件はお芝居に脚色されて広められます。
およそ一年後の元禄十五年(1702年)三月には、
江戸・山村座で、この事件を題材にした、
『東山栄華舞台(ひがしやまえいがのぶたい)』
というお芝居が上演されております。
もう、討ち入りの前から、既に芝居になっていたんですね。
山村座と申しますのは、江戸を代表する芝居小屋の
一つで、木挽町、現在の歌舞伎座すぐ近くにありました。
ちなみに、山村座はこの十二年後に、
大奥を揺るがした大スキャンダル、絵島生島事件に
関わったため、取り潰されてしまいます。
赤穂の四十七士が本所松坂町・吉良上野介の屋敷に
討ち入ったのが、元禄十五年(1702年)、
十二月十四日、現代風に申しますと十五日の未明。
世間を揺るがす一大ニュースでございます。
本来であれば、すぐにでもシナリオが書かれ、
上演されるところですが、今回はハードルが高いのでは、
と思われておりました。
もともとこの事件は江戸城内が発端。幕府が浅野を切腹とし、
吉良を赦したことが、討ち入りを招く原因です。
いくら「敵討ち」は立派なこととは申しましても、
うかつに扱えば、関係者の首が文字通り飛んでしまいます。
しかし、当時の演劇関係者の皆さんは、
そんなリスクを物ともせず、この大事件の舞台化に
意気揚々と取り組んでいきました。
そして、大石内蔵助らが切腹となった、翌元禄十六年の
二月四日からわずか十二日後の二月十六日、
江戸・中村座において、『曙曽我夜討(あけぼのそがのようち)』
と題したお芝居が上演されております。
もちろん時代背景や人物の名前などは変えてありますが、
明らかに赤穂浪人の討ち入りを暗示する内容。
わずか三日間で上演中止が命令されております。
たった三日しか上演されなかったというこのお芝居、
見ることができた江戸っ子は、さぞ鼻が高かったことでしょう。
12月8日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は「仮名手本忠臣蔵」
落語、七段目。
「七段目」は、浄瑠璃や歌舞伎で有名な、
「仮名手本忠臣蔵」の七段目と、階段の「七段目」を
ひっかけたタイトルです。
芝居が好きで好きでたまらない若旦那が、
同じく芝居ファンの従業員、定吉と店の二階で芝居ごっこ。
何をやろうか、忠臣蔵の七段目がいい…ということになります。
ところが、若旦那がだんだん本気になってしまってさあ大変、
床の間に飾ってあったホンモノの刀を抜いて定吉に襲い掛かる。
慌てて逃げ出す定吉、階段を踏み外してダダーン…と、
下に落ちます。「一体何事だ」と駆けつけた大旦那、
「あのバカと芝居ごっこをして二階から落ちたか」…と
聞くと定吉答えて「いいえ、七段目」というのがサゲ。
「忠臣蔵」のお芝居が、本当に親しまれていたことが
よくわかるお話です。
「仮名手本忠臣蔵」は、討ち入りから四十六年後の
寛延元年(1748年)に大阪・竹本座で初演、
江戸では翌年、木挽町。現在の歌舞伎座近くにあった
森田座で初めて上演されております。
実際の出来事をドキュメント・タッチでお芝居にすることは
きついご法度でしたから、南北朝時代に舞台を移し、
浅野内匠頭は「塩冶判官(えんやはんがん)」、
大石内蔵助は「大星由良之助(おおぼしゆらのすけ)」と
いった具合に、名前が変えられております。
もっとも、この移し変えは、「仮名手本忠臣蔵」が
オリジナルではありません。
討ち入りから四年後の宝永三年(1706年)に
上演された、近松門左衛門作「碁盤太平記」で、
既に「判官」や」「由良之助」といったキャラクターは
登場しております。
さらに、その後も、事件を
モチーフにした芝居はいくつも作られて、
「仮名手本忠臣蔵」は、それらの集大成、
ということになるようです。
仮名手本忠臣蔵の五段目に登場する悪役、定九郎は、
最初は単なるドテラを着た山賊で、小さな役でした。
それを、明和三年(1766年)、中村仲蔵が、
街で見かけたカッコいい浪人者にヒントを得て、
月代(さかやき)の伸びた白塗りの着流しという
実にカッコいいスタイルで演じて大評判。
後に江戸歌舞伎を代表する名優となった…という、
実話をもとにしたお話です。
これもまた、「忠臣蔵」という、あまりにもポピュラーな
お芝居なればこそ、のエピソードですよね。
12月9日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は「忠臣蔵外伝」
夏の定番、怪談の中でも最も有名な「東海道四谷怪談」。
実はこの話、忠臣蔵のサイドストーリーになっております。
今風に申しますと「スピンオフ」というわけですね。
お岩さんの夫である悪役「民谷伊右衛門」は、
実は「塩冶判官」の、元・家臣である浪人者ですし、
隣に住む伊藤喜兵衛は、「高師直(こうのもろなお)」の重役。
「塩冶判官」は、浅野内匠頭が、
また「高師直」は吉良上野介がモデルになっていることは、
言うまでもありません。
現在ですと、他人の作り出したキャラクターを、
他の作家が利用して別の話を作り出すといったことは、
著作権上、とても難しいことになっております。
しかし、江戸時代は、このあたりが極めて鷹揚。
それで話が面白くなるなら、どんどん使ってしまうのが、
当たり前だったんですね。
最近では、同じく忠臣蔵のスピンオフ作品である、
「盟三五大切(かみかけて さんごたいせつ)」が、
しばしば上演されております。
こちらは、「東海道四谷怪談」と同じく、四代目・鶴屋南北作。
四谷怪談の後日談という仕掛けにもなっております。
主君の仇討ちの一味に加わるための百両という大金を巡り、
塩冶判官の浪人と、もとの家臣や盗賊、芸者などが
入り乱れて、凄まじい殺し合いをする物語。
このお芝居が書かれた背景には、四谷怪談が大ヒット、
ロングランの最中に、主演の三代目・尾上菊五郎が
いきなり役を降りてしまったという事件がありました。
困ったプロデューサーが、
「先生、なんとか同じような設定のお芝居を、もう一本、書いてもらえませんか」と、
作者である鶴屋南北に頼み込んだ。
そこで南北が知恵を絞り、ノリにノッて書いたのが、
この「盟三五大切」でした。
ただし、母親に刀を握らせ、無理矢理赤ん坊を刺し殺すなど、
あまりにも陰惨な場面が多いため、舞台はヒットせず、
その後も上演される機会は少なかったのです。
再び脚光を浴びるのは昭和四十四年(1969年)。
安保闘争や大学紛争で世の中が騒然とする中、この戯曲の
救い難いムードが、時代の気分にぴったりだった。
この年、新劇の劇団青年座が上演したことで注目され、
歌舞伎でも取り上げられるようになり、現在に至っています。
ちなみに、昭和五十四年(1979年)の青年座による
「盟三五大切」の再演では、若山富三郎さんが主演、
西田敏行さん、木の実ナナさんという
豪華キャストにより演じられ、
大評判となりました。
12月10日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は「元禄忠臣蔵」
赤穂浪士の討ち入りをテーマにしたお芝居、映画、小説。
江戸時代から、それこそ数限りなく書かれてきたわけですが、
そんな中でも代表作の一つが、真山青果(まやま・せいか)作、
「元禄忠臣蔵」。こちらも、現代の歌舞伎で、
しばしば演じられている名作でございます。
昭和九年(1934年)、市川左団次一座が、
歌舞伎座において、一番最後の部分にあたる
「大石最後の一日」を上演、大好評を得ます。
こんなに面白いなら、「忠臣蔵」の、残りの部分も、
真山先生に書いてもらおう、ということになりまして、
江戸城の刃傷から始まり、次々に連作として発表。
最終的には、全十篇に及ぶ、壮大な忠臣蔵のドラマが
描かれることになりました。
中でも有名なのが、五番目のエピソードである、
「御浜御殿 綱豊卿(おはまごてん・つなとよきょう)」。
この作品だけを取り出して演じられることも多い、
名作戯曲でございます。
舞台となっておりますのは、「御浜御殿」、
現在の「浜離宮恩賜庭園」。
御殿の主である徳川綱豊は、赤穂浪士たちに、
なんとか吉良上野介を討たせたいと思っている。
そこへやってくるのが、赤穂浪士の一人である、
富森助右衛門(とみのもり・すけえもん)。
この日、御殿で開かれるパーティーに吉良が出席し、
能楽を演じると聞き、その顔を遠くから見たい…と、
願い出てきたのです。綱豊は、くれぐれもこの場で
無茶はするなよ、と、条件付きで、願いを聞き入れます。
いよいよ能が始まります。舞台裏に隠れる助右衛門。
その手には一本の槍が握られておりました。
近づいてくる吉良。駆け寄る助右衛門、
さて、どうなるか…という緊迫のストーリー。
昭和歌舞伎の代表作と言われる名作でございます。
「元禄忠臣蔵」は、太平洋戦争が始まった
昭和十六年から翌年にかけ、前後編の長編劇映画となりました。
監督は名匠・溝口健二、大石は河原崎長十郎、
そして御浜御殿綱豊卿は市川歌右衛門、富森助右衛門は
中村翫右衛門(かんえもん)、いま大人気の中村梅雀さんの
お祖父さんですね。当時の松竹が全精力を傾け、
途方も無い制作費を注ぎ込んだ超大作。
何といっても、刃傷の場面では、当時の図面をもとに、
原寸大の松の廊下を再現したという凄まじさでございます。
ホンモノの松の廊下がどんな様子だったか、知りたい方は、
ぜひ映画版「元禄忠臣蔵」をご覧になってください。
12月11日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は「忠臣蔵、復活!」
終戦後、進駐軍は歌舞伎の演目の多くを上演禁止とします。
仇討ちや切腹が、民主的でない…と判断したのです。
ところが、その内部によき理解者がいたことで、
歌舞伎は、滅亡の危機を辛くも免れることになりました。
彼の名は、フォービアン・バワーズ。
マッカーサー司令官の副官という、重要な地位にいた
バワーズは、もともとジュリアード音楽院で学んだ経験を持つ
ピアニストでもありました。
昭和十五年、バワーズはインドに向かう船旅の途中で
日本に立ち寄り、銀ブラを楽しみました。
「オオ、コンナトコロに立派なお寺、アリマスネー!」
見事な建築物にふらりと立ち寄ってみました。
実はそれが、歌舞伎座だったんですね。
バワーズは、初めて見る歌舞伎のゴージャスさに唸り、
そこで繰り広げられる見事な人間ドラマに堪能させられます。
中でも、一目見て気に入ったのが、十五代目の市村羽左衛門。
昭和二十年、マッカーサーと共に厚木に降り立ったとき、
取り囲む報道陣に向かって、
「羽左衛門ハ、元気デスカ?」と聞いて、
びっくりされたという、有名なエピソードがございます。
歌舞伎は、決して野蛮な演劇ではない。
人類に普遍のテーマを扱った素晴らしい舞台芸術だ。
バワーズは、GHQでそんな主張を繰り返し、
反対するスタッフを歌舞伎見物に連れて行きました。
そして、二年がかりで解禁を進め、
その総仕上げとなったのが「仮名手本忠臣蔵」だったのです。
昭和二十二年(1947年)十一月、東京劇場に於いて、
「仮名手本忠臣蔵」の復活上演が実現します。復活に際し、
バワーズは、松竹の大谷竹次郎に対して条件を出しました。
「反対ノ人ヲ納得サセルタメニモ、
考エラレル、最高のキャスティングをオネガイシマス」
竹次郎が、最高のキャスト…と考えるとバワーズは、
「ココニりすとガアリマス」と、配役の表を手渡してきた。
六代目・尾上菊五郎、七代目・松本幸四郎、
初代・中村吉右衛門、三代目・中村梅玉、などなど、
確かに歌舞伎ファンならヨダレが出そうな、
凄まじい豪華キャストであります。
「なんだ、バワーズさんが見たい配役って事でしょう」…
との声もありましたが、普段ではとても考えられない
配役の実現に、ファンも大喝采。
連日の大入り満員となり、歌舞伎は見事に復活、
そして現在の隆盛へと繋がっていくわけでございます。
実際、バワーズが進駐軍にいなかったら、
私たちは歌舞伎を見ることができなかったかもしれません。
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