11月30日(月)〜12月4日(金)
今週は、「赤塚不二夫の東京」。
「ギャグマンガ」という新たなジャンルを切り開き、
マンガ史に革命を起こした漫画家・赤塚不二夫。
惜しくも昨年八月、七十二歳でこの世を去った、昭和時代を代表する、天才アーティストの足跡を
ご紹介してまいります。
11月30日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は「漫画家になりたい!」
赤塚不二夫は、昭和十年(1935年)。当時の満州国・
熱河省(ねっかしょう)、現在の中国、河北省生まれ。
父親は、抗日ゲリラを取り締まる「特務警察官」という、
危険な仕事についていました。
昭和二十年、敗戦と同時に、父はソ連軍に拘留され、
シベリアへ強制労働に送られてしまいます。
不二夫は母親と弟、妹たちと共に、命からがら日本へ戻り、
最初は母の故郷である奈良の大和郡山へ引き上げました。
そして昭和二十四年、ようやく父が復員すると、
父の故郷である新潟へ引っ越すことになりました。
大和郡山時代は、栗や柿を集団で盗むなど、
警察に五回も補導された、とんでもない悪ガキでしたが、
その一方で、絵を描くのが大好き。
しだいにマンガに惹かれていった不二夫少年は、
貸本屋で見つけた手塚治虫の「ロストワールド」に
脳天をぶちのめされるような衝撃を受けます。
「僕も、漫画家になろう」
中学を卒業すると、「絵を描く仕事だから」と、
新潟の看板屋さんに就職します。
そして二年後、父親に頼まれる形で上京することになり、
江戸川区小松川のエビス化学工業所に就職、
時に赤塚不二夫、十九歳の秋でした。
化学工場で働いている間も、赤塚不二夫青年の、
マンガへの情熱は燃え上がるばかりでした。
ある時、上京してきた投稿仲間の石ノ森章太郎、
同じくマンガ仲間の長谷(ながたに)邦夫と連れ立って、
当時雑司が谷にいた手塚治虫の家を訪問したことがあります。
忙しい最中でも、手塚は時間をとって、
漫画家の卵である赤塚たちに言葉をかけてくれました。
「マンガばかり描いてちゃだめだよ。一流の音楽を聴きなさい。
一流の芝居を見なさい。一流の映画を見なさい」
もともと映画好きだった赤塚青年は、工場が休みになると
錦糸町・楽天地の「本所映画」や「江東リッツ」に通います。
朝一番から最終回まで飲まず食わず、一本の映画を五回、
繰り返してみては、気に入ったセリフを書き留める。
そんな努力が、後にマンガのストーリー作りに、
大いに役立つことになります。
当時、赤塚青年が親しんだ作品の中でも、とりわけ大入り、
映画館が寿司詰めだったという「帰らざる河」から、
マリリン・モンローの歌をお送りします。「帰らざる河」
12月1日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は「下町からトキワ荘へ」
昭和二十八年(1953年)からおよそ三年の間、
江戸川区小松川の化学工場で働きながら、
漫画修業に励んでいた赤塚不二夫青年。
その間、当時の漫画ファンのバイブルだった「漫画少年」の
投稿欄を通じて、石ノ森章太郎を始めとする多くの仲間たちと
出会い、交流を深めていきます。
そして、昭和三十一年(1956年)二月。
友人の漫画家、つげ義春に、
「貸本の単行本を一冊描けば、三万五千円になる」と、
耳寄りな話を聞いた赤塚青年は会社を辞める決心。
やはり漫画家志望の友人、よこたとくおと共に、
西荒川に部屋を借りて独立します。
いよいよ、プロの漫画家としてのキャリアが始まったのです。
最初の単行本は、この年六月に出版された「嵐をこえて」。
後の強烈なギャグからは想像もつかない、
悲しい内容の少女マンガでした。
順風満帆かと思われた漫画家生活の滑り出しでしたが、
プロの道は、そうそう甘くありません。
一年間に出た単行本は三冊、しかもつげ義春が話していた
値段より原稿料は一万円も安かった。
満足にご飯も食べられないし、仕事があるのは、
自分の方向性とは違う少女マンガばかり。
一体どうすればいいのか…と悩んでいた赤塚の前に現れたのが、
東北の天才少年、石ノ森、当時の石森章太郎でした。
宮城の高校に在学中から、プロとして活躍していた石森は、
しばらく赤塚、よこたと同居した後、
漫画家が集まって暮らしていた豊島区椎名町のアパート、
トキワ荘へ引っ越していきます。
まず手塚治虫が暮らし、続いて寺田ヒロオ、藤子不二雄、
そして石森章太郎が暮らすようになったトキワ荘。
仕事がなくて困っていた赤塚も、石森の仕事を手伝いに、
トキワ荘へ通ううち、いつしかそこの住人となりました。
二年後、昭和三十三年(1958年)に、赤塚は、
最初の雑誌連載「ナマちゃん」をスタートさせます。
それからは順調に仕事も増えていき、三年後には結婚。
トキワ荘を出て、近くのお茶屋さんの二階に下宿します。
そして昭和三十七年(1962年)三月。
世紀の大ヒット作となった「おそ松くん」が、
「少年サンデー」でスタート。最初は四回の予定でしたが、
あまりの人気ぶりにそのまま連載が続き、
結局は六年間もの長期連載となったのです。
12月2日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は「スタジオゼロとフジオプロ」
昭和三十七年(1962年)から始まった「おそ松くん」の
大ヒットで、赤塚不二雄は一躍、時代の寵児となりました。
登場人物のイヤミが、びっくりしたときに取るポーズ、
「シェー」は日本中に大流行。(ポーズの解説をお願いします)
ジャイアンツの長嶋選手も、映画の中のゴジラも、
そして来日したビートルズまでもが、
このこっけいなポーズを演じて話題となったのです。
当時、赤塚不二夫は、石ノ森章太郎、藤子不二雄の二人、
つのだじろうらと共に、アニメーションの制作会社、
「スタジオ・ゼロ」を設立していました。
ビートルズが来日した昭和四十一年(1966年)には、
新宿の西、現在の新宿中央公園近くの十二社に、
「スタジオ・ゼロ」が移転。そのビル3階部分に、
藤子不二雄の二人、つのだじろうと共に、
赤塚不二夫も仕事場を引っ越してきたのです。
これが「フジオ・プロ」の始まりでした。
当時のメンバーは、赤塚不二夫を中心に、
古谷光敏、長谷邦夫、高井研一郎、…と凄まじいラインアップ、
後にはここにとりいかずよし、北見けんいちも加わります。
マンガが生まれる典型的なパターンを見てみましょう。
まず、赤塚を中心に、古谷、長谷、担当編集者が、
アイディアを持ち寄って、それを練り上げていくのです。
一本の作品を構成するのに十分な量になると、
次に赤塚が、コマの大きさやセリフの位置を決めていきます。
この作業が終わると、アシスタントが本番用の紙に
セリフを書き写し、そこに赤塚が人物の下絵を入れます。
下絵は、チーフアシスタントの高井研一郎によって、
一本の線でまとめられ、さらに部下のアシスタントたちが
ペンを入れていく…という、完全な分業体制。
当時は、一回の平均枚数が十三ページでしたが、
アイディアを出してから、完全原稿として仕上がるまでが、
およそ十三時間しか、かからなかったそうです。
それでも、驚異的な仕事量をこなしていますから、
みんな疲れて、ウトウトしてくる。すると、誰かが、
当時流行っていたオモチャの「銀玉鉄砲」で、
誰かの顔を撃つ。当たると「イテッ」と叫ぶので、
その音で目を覚まして仕事を続けた…
そんな嘘のような本当の話が伝わっております。
12月3日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は「落合の日々」
昭和四十四年(1969年)から、翌年にかけ、NET,
現在のテレビ朝日系列で放送されていました。
この年、フジオプロは、新宿、十二社から代々木へ移転。
さらに翌年、新宿区中落合に本拠地を移し、これ以降、
赤塚不二夫、そしてフジオプロは、落合周辺を
ホームグラウンドとして活躍することになりました。
懐かしいトキワ荘にもほど近く、
大好きな盛り場・新宿も目と鼻の先の落合は、
赤塚にとって居心地のいい場所だったのでしょう。
西武新宿線の中井駅、そして下落合駅界隈を散歩すると、
70年代の赤塚マンガにしばしば登場した、
「ひとみマンション」「ツツイサウンド」といった、
おなじみの建物やお店にバッタリ出会うことがあります。
また、地元商店街のお中元、お歳暮セールには、
必ず「バカボンパパ」が登場。福引をするには、
バカボンパパの描かれたシールを集めなければなりません。
赤塚ファンに欠かせないのが、中井駅近くの居酒屋、「権八」。
店内には色紙や写真など、関連グッズがたくさん飾られて、
仲のよかったご主人から、思い出話を聞くこともできます。
昭和四十七年(1972年)、赤塚不二夫は、
「責任編集」という触れ込みで、コミック雑誌、
「まんがNo・1」を創刊いたします。
アメリカ、ニューヨークでパロディ雑誌「MAD」の編集部を
見学し、こういう雑誌を自分で出してみたい…と、
考えていたのです。
雑誌の目玉となったのが、
付録のレコード。中山千夏、三上寛、山下洋輔トリオなど、
当代一流のタレントが顔を揃えておりました。
井上陽水「桜三月散歩道」のスペシャルバージョンも、
その中の一枚だったんです。
表紙を担当したのは、横尾忠則。創刊号は、実に、
三枚綴りの表紙というぶっとんだモノでした。
あまりにも遊び心が強すぎたせいか、雑誌は本誌6号、
別冊4号を出したところでジ・エンド。
この雑誌に赤塚が注ぎ込んだお金は、
総額、五千万円に及んだと伝えられております。
12月4日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は「毎日が大宴会!」
赤塚不二夫が、密室芸人タモリを「発掘」し、
現在のような一流エンターテイナーへの道をお膳立てしたのは、
よく知られたエピソードでございます。
福岡でサラリーマン生活を送っていたタモリは、
ピアニスト、山下洋輔に「発見」され、昭和五十年に上京。
山下たちの「たまり場」だった、
新宿コマ劇場裏の「ジャックの豆の木」という店で、
夜な夜なその「密室芸」を披露していたところ、
赤塚と出会います。
赤塚の自伝「これでいいのだ」によれば、
「夜通し腹を抱えて笑った。朝、タモリに寝るところが
あるのかと聞くと、ないという。それじゃうちに泊まれと、
僕は寝泊りしている目白のマンションに連れて行った。
結局1年間ほどベンツつきで居候させていた」とのこと。
当時、赤塚は離婚した直後で、このマンションに
暮らしていましたが、タモリを住まわせてしまったため、
自分の行き場がなくなってしまった。
仕方なくそれからしばらく、仕事場のフジオプロで、
スチールの本棚を倒し、その上に布団を敷いて
寝ていたこともあったそうです。
赤塚は去年の8月2日、残念ながらこの世を去りました。
葬儀での、タモリの哀切極まりない弔辞、
「私もあなたの数多くの作品の一つです。」という言葉が、
今も耳に残っております。
さて、現在、赤塚やトキワ荘に関連した展覧会が二つ、
都内で開かれておりますので、最後にご紹介しておきましょう。
まず、文京区本郷の「文京ふるさと歴史館」では、
「実録!"漫画少年"誌―昭和の名編集者・加藤謙一伝―」
赤塚不二夫、石森章太郎を始め、昭和二十年代後半、
漫画家を志す若者たちのバイブルだった雑誌「漫画少年」と、
その編集を手がけた編集者、加藤謙一に関する展覧会です。
また、池袋駅近くの「豊島区立郷土資料館」では、
「トキワ荘のヒーローたち マンガにかけた青春」。
今年4月、トキワ荘跡地に近い区立南長崎花咲公園に
記念碑が置かれたことにちなんだ展覧会で、当時の作品や資料、
またトキワ荘室内の再現展示なども見ることができます。
どちらの展覧会も、今度の日曜日、6日が最終日。
この週末、漫画少年たちの青春の息吹に触れてみるのも、
楽しそうですね。
|