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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT

11月16日(月)〜11月20日(金)
今週は、「明治大正 演歌の世相史」。
明治時代に生まれ、昭和の始め頃まで、大衆音楽として大いに人気を博した「演歌」。
現在の演歌と区別するために「バイオリン演歌」とも呼ばれる、このユニークな音楽にまつわる
エピソードを、ご紹介してまいります。

11月16日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は「ダイナマイト ドン」
「最後の演歌師」と呼ばれた、今は亡き桜井敏雄さんの歌、 「ダイナマイト ドン」 そもそも、「演歌」とは、何でありましょうか。 時は明治の十九年ごろ、憲法の制定や議会の開設を求める、 「自由民権運動」が盛り上がっておりましたが、 その中心となっていたのが、自由党の壮士たち。 この「壮士」という言葉。 もともとは血気盛んな壮年の男性を指しておりますが、転じて、 自由民権運動に情熱を燃やした行動隊員たちのことを 意味するようになりました。 で、この壮士たち、街角で演説を行うわけですが、 ただ喋るだけじゃなくて、節をつけて歌いながら、 自分たちの主張を叫ぶようになっていったわけです。
「歌う演説」、すなわち「演歌」…というわけで、 ここから、本来の意味の「演歌」という言葉、 音楽ジャンルが誕生してきたんですね。 演歌の最初のヒット曲とされているのが、 先ほどご紹介した「ダイナマイト ドン」。 そして、明治半ばの演歌、壮士が歌っていたことから、 「壮士節」と呼ばれるジャンルの中でも、 もっともヒットしたのが、こちらです。 1900年(明治三十三年)、 パリ万博に参加した、川上音二郎一座が、 現地で残した貴重な録音「オッペケペ」でございます。 音二郎も、もとは自由民権の壮士の一人。 自由民権の思想を広げるため、演劇に身を投じ、 後に、世界的な人気を博すに至ったわけです。
緋色の陣羽織に鉢巻を締めて、日の丸の扇を手に歌う、 音二郎の姿は、浮世絵でご存知の方も多いと思います。 「オッペケペ」歌詞の一部をご紹介しましょう。 万事お金がものをいう、当時の世相を、 痛烈に皮肉っております。 ままにならぬは 浮世のならい 飯(まま)になるのは米ばかり 不景気極まる今日に 細民困窮かえりみず 目(ま)深にかぶった高帽子 金の指輪に金時計 権門貴顕(けんもんきけん)に膝を曲げ  芸者幇間(たいこ)に金を撒き 内には倉に米を積み ただし冥土のお土産か 地獄で閤魔(えんま)に面会し 賄賂(わいろ)使うて極楽へ 行けるかえ 行けないよ オッペケペー オッペケペッポー ペッポツボーィ

11月17日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +

今日のお話は「ああ金の世や」
明治の中ごろ、自由民権運動の行動隊員であった、 自由党の壮士たちによって広められた「演歌」。 街角で歌いながら、歌詞の印刷されている紙を販売すれば、 面白いように売れていったと申します。 そんな演歌に魅せられた一人の若者がいました。 名前は添田平吉(そえだ・へいきち)。 この若者、後に「添田唖蝉坊」として、日本の流行歌の歴史に、 名を残すことになります。 十八歳のとき、横須賀の街角で、壮士の歌う演歌に しびれるようなショックを受けた平吉青年。
自分でも街角に立ち、演歌を歌うようになります。 もともと音楽の才能に恵まれていた上に、 なかなかのハンサムボーイでありましたから、 彼のパフォーマンスはいつも黒山の人だかり。 歌詞カードも飛ぶように売れて、補充が間に合わないほど。 最初のうちは、人の作った歌ばかり歌っていましたが、 やがて自分でも歌作りをするようになっていきます。 そんなある日のこと、通称、「渋井のばあさん」という 女性の演歌師仲間が、唖蝉坊のもとを訪れました。 「どうも壮士節は、言葉がむずかしくっていけません。  もっと簡単なのを、こさえてもらえませんかねえ」 …いわれて唖蝉坊が作ったのが、「ラッパ節」です。 このラッパ節は、コミカルな文句がウケて、 添田唖蝉坊にとって最初の大ヒットとなりました。 ここから、凄まじい勢いで、演歌、そして流行歌の 歴史に残る名作が、次々に量産されていくわけです。
ただし、唖蝉坊の歌は、痛烈な当局批判のオンパレード。 ですから、路上で歌ってお巡りさんに引っ張られ、 鉄格子の中にぶちこまれることも、日常茶飯事でした。 名刺には、自ら「官憲の要注意人物」と、 印刷していたそうで、ユーモアのセンスも抜群です。 大正の半ば頃からは、息子の添田知道(ともみち)も、 ともに演歌師の道を歩むようになりました。 現在、我々が、明治・大正時代の演歌や、 唖蝉坊の足跡について知ることが出来るのも、 息子の添田知道が、たくさんの記録を残してくれたからです。 では、唖蝉坊の代表作をもう一つ、お聞きいただきましょう。 「ああ金の世や」、歌は小池朝雄さんです。

11月18日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +

今日のお話は「新・金色夜叉」
明治四十年(1907年)ごろの大ヒット曲、 神長瞭月(かみなが・りょうげつ)の出世作「松の声」。 この神長瞭月は、演歌に革命をもたらしました。 それまでの演歌は、アカペラ、つまり伴奏なしで 歌われているのがほとんどだったのですが、 初めてバイオリンによる伴奏をつけたのです。 これにより、表現の幅がいっそう広がって、 演歌の人気が、ますます上がることになりました。
「松の声」は、サブタイトルが「女学生堕落の歌」。 田舎から上京した女学生が、親や教師の注意にも関わらず、 男と恋愛、やがて仕送りも絶たれ、妊娠した末に 男にも捨てられて、やがて自ら命を絶つ…という内容。 当時の風潮を歌った週刊誌的な内容が大衆にウケまして、 神長瞭月の知名度も一気に上昇したという次第です。 演歌は、こうして世相を歌う一方で、実際に起きた事件を 取り上げて歌にすることも多かったようです。 時代は下って大正七年(1918年)。 碑文谷の踏切で、人力車がはねられ、乗っていた乗客が 命を落とすという悲惨な事故がありました。 踏切番の二人が、つい、うとうとしていたことが原因でした。 一時間後、責任を感じたこの二人が、レールに並んで 鉄道自殺を遂げたという、さらに痛ましい事件が起きます。
全国から一万円、現在にしてみれば一千万円にも及ぶお金が、 踏切番二人の遺族に寄せられたという「美談」となり、 早速、添田唖蝉坊が「ああ踏切番」という歌を作りました。 明治・大正の流行歌であった「演歌」。 その代表作の一つに、「新・金色夜叉」があります。 大正八年(1919年)ごろヒットした曲ですが、 バイオリン演歌といえば、この歌を思い浮かべられる方も、 多いのではないでしょうか。 貫一・お宮の悲しい恋を描いた尾崎紅葉の名作を モチーフにしたこの唄で、本日は締めくくりたいと思います。 桜井敏雄さんで、「新・金色夜叉」

11月19日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +

今日のお話は「復興節」
明治から大正にかけての演歌師は、 その時々のニュースをすぐ歌にして広める、 いわば「歌うかわら版屋」のような存在でした。 もちろん、大きな自然災害も、すぐ歌の題材になります。 聞こえているのは、「大震災の唄」、 大正十二年(1923年)九月一日の、 関東大震災の模様を歌っています。 この番組でも、ことし九月の防災の日の前後に、 震災の凄まじい被害についてお送りしました。 中でも火災による突風に見舞われ、ごく短時間のうちに、 4万人近い方が亡くなられた、本所・被服廠跡。
ここで起きた惨劇についても、 「被服廠の哀歌」という、実録演歌が作られました。 死者、行方不明合わせておよそ十万五千人という、 未曾有の大災害、関東大震災。 それでも、人々の立ち直りは、思いのほか早かった。 震災直後から翌年にかけて、瓦礫の中で流行ったのが、 その名も「復興節」。 歌の作者は、添田唖蝉坊の息子、知道です。 おなじみ、なぎら健壱さんも歌っています。 震災後しばらくして、唄の作者である添田知道が、 焼け残った印刷所を探して、この「復興節」などを含む 唄本を印刷。とにかく食べなければならないので、 とりあえず街角に立って歌ってみることにしました。
その時の様子を、こんな風に書き残しています。 「日暮里の被害を免れた地区とはいえ、  夜は暗く死んだように沈みかえっている。  そんな中で歌声をあげたりしたら、  袋だたきにでもあうのではないか、そんな不安があった。  とある横丁で歌い始めると、たちまち、暗い家々から、  飛び出してきた人々に囲まれた。  しかしそれは、不安とは逆な、熱心に聞き入る人々であった。  勢い歌うほうにも身が入る」 どんな状況にあっても、唄がなければいきていけない、 それが人間という生き物なのでしょう。

11月20日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +

今日のお話は「東京節」
明治の後半から大正にかけて、全盛を誇った「演歌」。 しかしその人気は、昭和に入ると急激に衰えていきました。 昭和三年ごろから、「流行り歌」は、その頃普及し始めた 「レコード」によって生まれるようになります。 街頭で歌って人を集め、唄本を売って収入を得る… そんな演歌師のやり方が、時代遅れになってしまったのです。 演歌師たちは、カフェーやバーなど、 夜の酒場を回ってチップを集める、 いわゆる「流し」で暮らしを立てるようになっていきました。 楽器も、バイオリンから、ギターやアコーディオンへと、 移り変わっていきます。 演歌の時代の最後を飾る人気者の一人が、「石田一松」。
バイオリンを片手に縁日を回って学資を稼ぎ、 法政大学を卒業したというエピソードの持ち主です。 弁護士を目指していたものの、何度も試験に落ちるので、 とうとうあきらめ、寄席に出てバイオリン演歌を歌い始める。 そして数々のヒット曲を生み出したのですが、 これからお聞きいただくのは、代表作、「のんきな父さん」。 もともと添田唖蝉坊が作った「のんき節」を、 当時人気を集めていたマンガ「ノンキナトウサン」から ヒントを得て、オリジナルの歌詞をつけたものです。
石田一松は、戦後、最初の総選挙に出馬、見事当選。 後に「タレント議員第一号」と呼ばれるようになりました。 石田一松の弟子にあたるのが、「最後の演歌師」桜井敏雄さん。 桜井さんは、平成八年(1996年)に亡くなりますが、 その最晩年に弟子入りしたのが、我らが「なぎら健壱」さん。 石田から桜井にバトンタッチされたバイオリンは、 なぎらさんへと引き継がれました。 それでは今週の演歌特集の最後にご紹介するのは、 桜井さんとなぎらさんの共演で歌われた「東京節」。 この歌の作詞は添田唖蝉坊の息子、知道ですが、 ペンネームの「添田さつき」名義で書かれた作品です。

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