番組について
ONAIR REPORT
BACK NUMBER
  ◆最新の歴史探訪
◆過去の歴史探訪
   
PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT

11月9日(月)〜11月13日(金)
今週は、「江戸前の味 天麩羅物語」。 寿司、ウナギと共に、江戸を代表する味、「天ぷら」。
私も大好物であります、この香り高い料理にまつわる 興味深いエピソードの数々を、
江戸・東京の変遷と共に、ご紹介してまいります。

11月9日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は「天ぷらの起源を探る」
煮えたぎる油の中に、程よく衣をつけた魚を静かに浮べる… と、同時に、パチパチパチと音が響いて、 香ばしい胡麻の香りが漂ってくる…。 天ぷらが揚がるのを待つ、ドキドキする時間。 これは、江戸の昔も、現在も変わらない楽しみですね。 天ぷらが生まれたのは、十八世紀の中ごろと考えられています。 語源には諸説ありまして、ポルトガル語で 「料理すること」を意味する「テンペロ」。 おなじくポルトガル語でカトリックの祭日のことを指す 「テンポラ」。また、スペイン語で寺を意味する「テンプロ」 から来ている……など、その真相はまったくもって不明です。
このほか、十八世紀の終わりごろ、名高い戯作者、 山東京伝によって名づけられた、という説もございます。 天明の始め頃、と申しますから、一七八〇年頃のこと。 京伝のところに、利助という若者が相談に訪れた。 この男、大阪から年上の芸者さんと、手に手をとって 駆け落ちしてきた、裕福な商人の次男坊でございます。
「いま、大阪では、魚に衣をつけて揚げる料理が流行ってます。 これ、絶対江戸でもウケると思うので、 一つ、商売をやってみようと考えたのですが、つきましては 京伝先生、何かいい名前をつけて戴けませんか?」 そこで、京伝が考えた名前が「天麩羅」。 天は「天竺浪人」の「天」……これは、何も考えないで、 その日その日を面白おかしく過ごしている人間のことです。 そして、真ん中の「麩」は、お麩、これは材料が 小麦粉でできている。 一番下の「羅」は、夏向きの涼しい着物、うすものの意味。
つまり、天竺浪人がこしらえる、小麦粉の衣をつけた料理、 すなわち「天麩羅」である、というもの。 これが大当たりとなって、江戸に天ぷらが親しまれるように なったという、実に上手くできた、面白いお話ではありますが、 京伝が「天麩羅」を生み出したとされる、 一七八〇年以前に、この言葉、文献に登場して参ります。 というわけで、この説も、ちょいと、怪しい。 天麩羅の歴史をひもとくと、必ず登場するのが、 あの徳川家康の名前でございます。何か珍しいものはないか、うまいものはないか…と、いつも捜し求めていた家康公、 ある時、京で流行っているという、衣をつけた鯛の揚げ物を 「うまい、うまい、これは美味じゃ」と、 たらふくお召し上がりになった。
ところが、七十を過ぎた胃には、少々きつかったのか、 その夜、にわかに苦しみ出し床につき、結局、 それがもとで亡くなられてしまったという。 これが江戸前の天ぷらの元祖である、という説もありますが、 こちらも、かなり、怪しいお話でございます。

11月10日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +

今日のお話は「大江戸天ぷら事情」
「天ぷら」が登場する落語、「新聞記事」。 東京の町で「天ぷら屋さん」が、いかに身近な存在だったか、 よくわかるお話でございます。 さて、昨日、江戸の街で天ぷらがポピュラーになったのが、 十八世紀の終わりごろ……というお話をいたしました。
当時の天ぷらは、いったいどんなものだったんでしょう。 火事とケンカは江戸の華、といわれる時代でございます。 屋内で油を使って料理することが禁じられていたので、 営業はすべて、屋台でございます。 エビ、キス、アナゴなどの材料が並べられておりまして、 客はそれを見て選べるようになっている。 「このエビ一本、揚げてくれ」とオーダーいたしますと、 天ぷら屋さんは「ヘイ」ってんで、エビに竹串を刺して、 衣をつけると、煮えたぎる油の中へジュッ… これがいい具合に色づいてきたところで、 「お待ちどうさま」と、串ごと手渡します。 受け取った客は、それを屋台の端に用意されている、 天つゆが並々と入った大きな丼にジュッ…と突っ込んで、 これまた大きな丼に山盛りになっている大根おろしを添えて、 アツアツのところを、ハフハフハフ…と頬張ります。 大阪名物、二度漬け禁止の串揚げソースのようなものですね。
幕末に書かれた、当時の風俗を記録した「守貞漫稿」には、 「江戸の天ぷらは、アナゴ、芝エビ、コハダ、貝柱、イカ、  すべて魚類にウドン粉を緩く溶きて、衣となし、  しかるのちに油揚げにしたるを言う。  野菜は天ぷらとは言わず、揚げ物と言うなり」 と、ございます。 本来の江戸前の天ぷらは、魚介類だけを揚げた物なんですね。 現在では、天ぷら屋さんに参りますと、普通に ナスやカボチャ、春菊の天ぷらなどを食べることができますが、 これは関東大震災より後のことなんだそうです。 震災で、東京が壊滅状態になったところへ、 関西の料理屋さんが、続々と進出して参りました。 関西では、野菜を揚げるのはごく普通のことだったので、 これを次第に、東京のお店でも取り入れるようになった。
また、それ以前の東京の天ぷらは、ごま油100%、 こんがり焦げたような色合いが普通だったそうです。 もともと、鮮度が落ちかけた魚介類を安く手に入れて、 これに衣をつけて、高温の油で揚げることで、 素材の弱点をカバーしていたんですね。 ところが、上方からやってきた天ぷらは、低い温度で 揚げるので、衣が白っぽく、さくっと仕上がるのが特徴。 油もごま油だけでなく、綿実油などをブレンドしています。 現在では、この関西風が主流になっています。 そうそう、天ぷらに塩を添えて出すのも、 関西からやってきた習慣なんだそうです。

11月11日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +

今日のお話は「天ぷらでファイト!」
さて、天ぷらが登場する文芸作品…と申しますと、 まず、思い出されるのが「川柳」ですね。 「天ぷらの 指を 擬宝珠へ ひんなすり」 擬宝珠、と申しますのは、橋の欄干のてっぺんについている、 葱坊主みたいな形の、アレでございます。 その頃、両国橋の袂には、数限りない屋台店が出ておりまして、 もちろん、天ぷら屋もズラリと並んで人気を争っていた。 当時の天ぷらは、串に刺したものをそのまま揚げて、 その串のまま立ち食いしておりますから、 食べ終わった後、その指が油でギトギトしちゃうわけです。
で、それを、橋の擬宝珠にこすりつけて、 ギトギトを取ってしまおうという、お行儀の悪い人を、 そのまま詠んだ句、というわけですね。 「天ぷらの 指を擬宝珠へ ひんなすり」 天ぷらの普及は、即ち、油の普及でもありました。 貴重品だった油が、ある程度安く出回るようになったことで、 この料理が可能になったというわけです。 幕府が盛んに奨励したこともあり、 米の裏作として、油を採るための菜種が、 西日本を中心に、大量に栽培されていました。 菜の花畑の風景は、春の風物詩として、 与謝蕪村の「菜の花や 月は東に 日は西に」など、 多くの俳句に詠まれております。 もちろん、油は照明としても使われていましたから、 油が安くなるということは、労働時間が長くなる、 ということにもつながります。
照明がなければ、ほとんどの仕事は、日が落ちれば終わり、 じゃ、また明日…となりますが、たとえ行灯の微かな灯りでも、 手元が照らせるとなれば、じゃ、もう少し働くか… ということになる。働けばお腹がすくのは道理ですから、 うー、帰りにちょっとなんかつまんでくか。 お、あそこでいい匂いがするね、天ぷらだな… と、いうことになるわけであります。 当時の天ぷらは、一本が四文、現在のお金にすれば、 百円程度ということになりますから、安い、 しかも、カロリーが高くて腹持ちがいい。 正に、現在で言うファストフード的存在だったんですね。

11月12日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +

今日のお話は「最後の天ぷら」
太平洋戦争の末期ともなりますと、物資が不足してまいります。 ただでさえ大量の油が必要な「天ぷら」など、 そう簡単に口にできるものではありません。 昭和三年(1928年)に生まれ、この時期に青春を過ごした 作家の神吉拓郎(かんき・たくろう)さんは、 「その期間に、私はまったく素性の知れない油で揚げた、 得体の知れない天ぷら状のものを食べさせられていたので、 天ぷらの真の味などわかるわけがなかった。 油のほうも、遂には機械油にまで落ちたが、 日ごろ、工場でその臭気に慣れていても、 天ぷらとなるとまた格別で、とうとう眺めただけで、 箸はつけずに終わった」と、書いていらっしゃいます。
昭和二十年になると、空襲に次ぐ空襲、 揚げ物料理など、危なっかしくて、おちおちやっていられない。 しかし、そんな中でも天ぷらを食べたい人たちがいました。 二代目・市川猿之助、現在の猿之助さんのお祖父様に あたる方でいらっしゃいますが、この猿之助さんが、 昭和二十年の夏、銀座の名店、天国に電話をかけてきました。 「焼けてしまっては、好きな天ぷらも食べられなくなる。 いいタネのある時に、家にきて揚げてくれないか」 親方も江戸っ子ですから、喜んで承知いたします。
四、五日して、いい魚が手に入ったので、早速リヤカーに 道具一式を積み込み、庭の隅に七輪を置いて準備万端。 十人ほどの客も集まり、夕方、炭火を起こし、 油が温まって揚げ始めたところで、空襲警報。 せっかく起こした炭火を必死に消して一時間ほど待ち、 また火をおこして揚げ始めると、再び空襲警報… 繰り返すこと三回、ようやく十一時過ぎに終了。
「もう好きな天ぷらを存分に食べたから、 いつ空襲に遭っても心残りはないねえ」 猿之助さんは、最後にしみじみとおっしゃったそうです。 同じ戦争中の話です。 やはり、銀座の天国に、ある将軍から電話が入ります。 「飛行機の中で食べたいから、天ぷらを届けてくれ」 との、ご注文。狭くて身動きの取れない、しかも揺れる 飛行機の中ですから、天つゆなど使うわけにもいきません。 いろいろ知恵を絞って、エビの頭と尻尾と脚を全部取り、塩と 味の素を全体にまぶします。見た目は巨大なナメクジのよう。 そして衣は、砂糖を入れると時間が経つにつれて 柔らかくなってしまうので、サッカリンと塩で揚げ、 基地まで届けました。しばらく後に、「思い残すことはない。 死んでも本望だ」と、手紙が届き、 結局、将軍は、そのまま帰らなかったそうです。

11月13日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +

今日のお話は「天ぷらを愛した人たち」
名代の食いしん坊として知られた、私の敬愛する作家、 池波正太郎先生は、「男の作法」という本の中で、 天ぷらについて、こんな風におっしゃっています。 「『揚げるそばから食べる……』のでなかったら、 天ぷら屋なんかに行かないほうがいい。 そうでないと職人が困っちゃうんだよ。 だから、天ぷら屋に行くときは腹をすかして行って、 親の仇にでも会ったように、 揚げるそばからかぶりつくようにして食べていかなきゃ、 天ぷら屋の親父は喜ばないんだよ」 注文しておきながら、お酒をダラダラ飲んで、 グズグズに冷えた天ぷらがお皿の上にたまっていく。 こういうことは、絶対にしてはいけない、と、 おっしゃっているわけですね。深く、肝に銘じたいと思います。
池波先生が気に入っていたお店の一つが、 山の上ホテルにある「天ぷらと和食山の上」。 当時は、現在、ミシュラン・ガイドに紹介されている銀座、 「天ぷら近藤」の近藤文夫(こんどう・ふみお)さんが、 料理長を務めていらっしゃいました。 シメは、天丼。 かつおだしと煎茶をかけ、塩昆布とわさびを添えて いただくのが、池波先生のお気に入りだったそうです。 五代目・古今亭志ん生師匠。
今年で亡くなられてから三十六年の月日が流れましたが、 人気は相変わらずで、毎年のように、 関連の書籍が出版されています。 去年出た、お嬢さんの美濃部美津子さんがお書きになった 「志ん生の食卓」という本がありますが、この中で、 志ん生師匠独特の、天丼の食べ方が紹介されています。
天丼が運ばれてくると、最初は上に乗っているキスやエビ、 アナゴなどをつまみながら、お酒をいただきます。 で、ご飯も半分ぐらいは、召し上がる。 で、最後に、残ったご飯と天ぷらの上に、 お酒をひとくち、ふたくちほど、ツーッと廻しかけて、 パッとフタをして、しばしの間、蒸すわけです。 しかる後に、フタを取って、召し上がっていたという。 お酒の香りが天ぷらとご飯を引き立てる、 ということなんでしょうね。 しかし、お嬢さんの美津子さんは、一言、 「あたしは試したことないですよ、そんな気色悪い」と、 切り捨てていらっしゃいます。

PAGETOP

サウンドオブマイスタートップページ くにまるワイド ごぜんさま〜 INAX JOQR 文化放送 1134kHz 音とイメージの世界 SOUND OF MASTER サウンド オブ マイスター