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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT

10月19日(月)〜10月23日(金)
今週は、「クレージーキャッツの時代」。高度経済成長の時代に国民的スターとなり、
ステージ、テレビ、映画と八面六臂の活躍を続けた「ハナ肇とクレージーキャッツ」。
そのエピソードの数々をご紹介して参ります。

10月19日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
きょうのお話は「クレージー誕生」。
ハナ肇とクレージーキャッツ、最初のレコードにして 最大のヒットとなったのが、昭和三十六年(1961年)、 8月に発売された「スーダラ節」。 当時、およそ五十万枚を売り上げた大ヒットです。 で、レコードのB面は、「こりゃシャクだった」。 実は、この「こりゃシャクだった」は、当時、テレビで クレージーがヒットさせていたフレーズなんですね。 クレージーキャッツは、もともと腕利きのミュージシャンが 集まった、れっきとしたバンドです。 「シャボン玉ホリデー」を始めとするヒット番組をもちながら、 演奏するのはカバー曲ばかり。自前の曲を出そうじゃないか… ということで、お得意のフレーズ「こりゃシャクだった」を キメ台詞にしたこの曲をこしらえてレコードにした。
レコードにするからにはB面が必要だ…ということで、 急遽、作り出されたのが「スーダラ節」だったんですが、 途中から人気が逆転して「スーダラ節」が、 大ヒットしてしまった…というわけなんですね。 ハナ肇とクレージーキャッツは、昭和三十年(1955年) 4月1日に誕生しています。 当時の名前は「ハナ肇とキューバン・キャッツ」。 ハナ肇さん、本名は野々山定夫(ののやまさだお)ですが、 「野々山定夫とナントカ」じゃカッコ悪いということで、 芸名をつけよう、ということになった。 昔からのニックネームが「ハナちゃん」、その由来は…。 ポーカーをやるときに、持ち手が弱いのに高いフリをして 張り続ける、いわゆる「ブラフをかける」というやつ。 この時、ハナさん、必ず鼻がピクピク…と動くんだそうです。 で、どうやっても勝てない。ついた仇名が「ハナちゃん」。 芸名をつけるときも、「ハナ」を生かして、 何でも一番が好きだから「ハナ肇」になったんだそうです。
ちなみに、この名前を決めたのは新宿のお好み焼き屋さん、 「どんどん亭」という店。渡辺プロダクションの渡辺晋、 美佐社長夫妻とハナさんが三人で、イカ焼きをひっくり返して いる時だったんだそうです。 ただのジャズバンドじゃつまらない、何か特徴を出さなきゃ… と考えたハナさんは、大胆に笑いの要素を取り入れます。 当時、出てきたばかりのアルミの洗面器を使って、 メンバー同士、互いの頭をポカスカ殴りあっていたら お客さんのアメリカ兵に大うけ、「クレイジー」の掛け声が飛ぶ。 そうだ、これをバンド名にしちまえ!と、 およそ半年後に「クレイジーキャッツ」に改名したという、 ウソのような本当のお話でございます。

10月20日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +

きょうのお話は「おとなの漫画」。
テレビ番組「おとなの漫画」 昭和三十四年(1959年)3月、 フジテレビの開局と同時にスタートしたこの番組が、 クレージーの人気が爆発するきっかけとなりました。 今年はクレージーキャッツがブレイクしてから、 ちょうど半世紀目にあたる節目の年ということになります。 番組が放送されていたのは、月曜日から土曜日まで、 毎日お昼の12時50分から5分間。 まだビデオなどない時代ですから、 毎日生放送でやっていたという、凄い時代でございます。 その日の新聞をネタに、時事コントを演じるというもので、 ディレクターは、すぎやまこういちさん。 もともと我が文化放送の社員で、フジテレビに転じ、 現在は作曲家として「ドラゴンクエストシリーズ」で おなじみの、あの「すぎやま」さんです。
台本は、当初、永六輔さんなどが担当していましたが、 途中からは、ほぼ、青島幸男さんが書くようになりました。 テレビ草創期の頃ですから、今では考えられないような 大胆なギャグが連日ちりばめられておりました。 もっとも物議を醸したのは、ある年の4月1日放送分。 ギザギザ模様の波線が画面の前で揺れている。 当時のテレビは、調子が悪く、画面に横線がザーと 出てくることも珍しくなかったので、あれ、故障かな?と、 視聴者は驚きます。チャンネルをガチャガチャ…と、 廻してみた人も多かったでしょう。すると、カメラが引いて、 ギザギザの紙をもった植木等さんが笑っている。 植木さん、右手でチャンネルを廻す仕草をしながら、 「これ、やってた?エヘヘ、エープリルフール!」… 半世紀前には、こんなことができたんですね! …といっても、メンバーも作者も、あとで局から さんざん怒られました。
何かのきっかけで、植木等さんと石橋エータローさんが 本番中にゲラゲラ吹き出して収拾がつかなくなり、 最後は全員が画面の中でゲラゲラが止まらなくなって、 生放送中の5、6分、それだけで終わってしまった… なんてことも、あったんだそうです。 番組は人気急上昇。昼間、テレビを見られない人のために、 次の週のゴールデンタイムに、一週間分のコントをまとめて 再演する「週刊クレージー」という番組まで作られました。 録画ではないので、もう一度、その場で演じるというモノ。 これも昭和三十年代ならではのエピソードですよね。

10月21日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +

きょうのお話は「スーダラ節事始め」。
永遠の名曲「スーダラ節」。 昭和三十六年(1961年)8月に発売されるや、 たちまち大ヒット。歌っている植木等さんは、クレージーの メンバー共々、翌年の紅白歌合戦に出場を果たしました。 そもそも「スーダラ」とは何でしょう。 ススラスイスイ…というのが、もともとのフレーズです。 これ、植木等さんがポーカーをやるときの口癖で、 それを青島幸男さんが「それだ!」と戴いて、 歌詞に仕上げたんだそうです。 ところが、その「ススラスイスイ」にも生みの親がいて、 実は植木さんの家にやってきた電気屋さんのお兄ちゃん。 ある夜、植木さんの家が停電になり、どうやっても 電気がつかなくなってしまったんだそうです。
植木さんは、ここは親父の威厳の見せ所…と、いろいろ やってみたけれど、どうやっても元に戻らない。 仕方がないので、近所の電気屋さんを呼んだのですが、 やってきたのが十五、六のお兄ちゃん。 大丈夫かな…と見ていたら、あっという間に直してしまった。 「さすがですね」と植木さんがお世辞をいうと、その坊や、 「なあにこんなもの、ススラスイスイ」と答えたという。 すっかりそのフレーズが気に入ってしまった植木さんが、 それ以来、口癖のようになってしまったというわけ。 もし植木さんの家が停電していなかったら、 この名曲も生まれていなかったかもしれない…というお話です。 作曲は、萩原哲晶(ひろあき)さん。 東京芸大のクラリネット科を卒業し、クレージーキャッツの オリジナルメンバーでもありましたが、 作曲に専念したい…とバンドを辞めることになりました。 その後、スーダラ節に始まるクレージー、植木さんの ヒット曲のほとんどすべてを作曲しています。 晩年には、大瀧詠一さんがプロデュースした、 金沢明子さんの名曲「イエロー・サブマリン音頭」の、 アレンジも担当した、日本流行歌の歴史に輝く、 天才ミュージシャンでございます。
この萩原さんも、クレージーのメンバーに負けず劣らず、 強烈なキャラクターの持ち主だったそうですが、 人柄はいたってマジメなのが、おかしかった。 スーダラ節を作曲する時も、渡辺晋社長に、 「植木屋の口癖をなんとか曲にできないか」と持ちかけられ、 その口癖を譜面に書き起こそうと、「なんか出鱈目歌ってよ、 すぐ書くからさ」と、五線紙と鉛筆を持って、 植木さんに四六時中ついて回っていたと申します。 そんなに追いかけられちゃ、息が詰まる、オレ逃げるぞ、 ほれ、スラスラススイ… そのセリフを聞いて、この名曲のメロディーが生まれた…と 伝えられておりますが、さて、真相は、いかに!?

10月22日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +

きょうのお話は「お呼びでない?」。
クレージーキャッツ、八面六臂の大活躍が始まったのが、 いまからおよそ半世紀前のこと。 テレビ、映画、そして日劇のステージ…と、 休む間もなく仕事に追われる日々が続きます。 ある時、植木等さんは、マネジャーが電話口で 打ち合わせているのを聞いて、思わずズッコケた。 「深夜1時から朝6時までなら空いてます」 …おいおい、オレは一体いつ寝りゃいいんだ? 昭和三十六年。NHKの「若い季節」、 そして日本テレビの「シャボン玉ホリデー」と、 今日まで語り継がれる名番組が始まります。 「シャボン玉ホリデー」は、 ザ・ピーナッツとクレージーを主役にした音楽バラエティ番組。 ここからは、数々の流行語や名コントが生まれましたが、 その中でももっともヒットしたもの…といえば、 植木等さんの「お呼びでない?お呼びでないね? こりゃまた失礼いたしました!」というギャグでしょう。
ある時、次のコントに備えてスタンバイしていた植木等さんが、 うっかり、出番じゃないのにカメラの前に出てしまった。 衣装も小道具もまったく違うわけですから、 出演者たちはアゼンとしている。 植木さん、(しまった)と思ったものの、慌てず騒がず、 「お呼びでないね、こりゃまた失礼しました!」と謝ります。 当時、VTRの編集が難しく、いったんNGが出ると、 最初から全部録り直し…ということになってしまうので、 思わずお詫びの言葉が口から出てしまった訳なんですね。 そして、照れ隠しに「ガハハハ…」と豪快に笑って帰ってきた。 あまりのことにスタジオは大爆笑! このトチリをきっかけに、コントの中にまったく場違いな 衣装の植木さんが乱入してきて「お呼びでないネ」とやる、 定番のギャグが誕生した、というわけです。 ハナ肇さん、植木等さんと並んで、 当時、売れに売れたのが、谷啓さんです。 谷さんの生んだ流行語が「ガチョーン!」。
もともと麻雀をやっていて調子がよくなると「ビローン」 「ピシッ」「ムヒュー」「クチョッ」などなど掛け声が出る。 で、ツモってほしいときに「ガチョーン」と一声、 すると本当にツモった…というのが、流行語誕生のきっかけ。 この「ガチョーン」の極意、谷さんによれば、 「万物生きとし生けるものすべてを引きずり込み、 一瞬、真空状態にしてガチョーンと引き抜くと バランスが崩れて周りの人たちが皆、なだれ落ちる」という、 実に「深〜い」ギャグ、ということであります。

10月23日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +

きょうのお話は「クレージー・オン・スクリーン」。
植木等さんが歌う、「無責任一代男」。 大ヒットした映画「ニッポン無責任時代」の挿入歌で、 作詞・青島幸男、作曲・萩原哲晶のゴールデンコンビの ペンになる作品でございます。 映画の冒頭で、植木さんは歌を歌いながら街を歩く、 ミュージカル・シーンがあるのですが、 ロケに使われたのが自由が丘、そして成城学園前の商店街です。 どちらも人気の高級住宅街ですが、映画が公開された 昭和三十七年(1962年)当時の町並みは、 鉄筋の建物もほとんどなく、のんびりした駅前風景。 およそ半世紀前の「懐かしい東京郊外」に出会えます。 DVDなどで手軽に見ることができますので、 皆さん、ぜひ、ご覧になってみてください。
この時代、テレビや歌などで人気が出たスターは、 主演映画を撮影するというお決まりのパターンがありました。 クレージーの面々も、もちろん例外ではありません。 ハナ肇さんが山田洋次監督の人情喜劇に主演したり、 谷啓さんや犬塚弘さんの主演映画も撮影されていますが、 なんといっても大当たりを撮ったのが、植木さん主演の この東宝映画「無責任シリーズ」。 植木さん主演のクレージー映画は、高度成長期を通じて、 およそ30本撮影され、東宝のドル箱となったのです。
クレージーが結成されて来年で五十五周年。 黄金のラインアップを、改めてご紹介しましょう。 リーダーでドラムス、ハナ肇さん。 トロンボーン、谷啓さん。ベース、犬塚弘さん。 ピアノ、石橋エータローさん、櫻井センリさん。 サックス、安田伸さん。ギターとボーカル、植木等さん。 リーダーのハナさんが平成5年(1993年)、 後を追うように石橋さん、安田さんが亡くなられ、 一昨年には、植木さんもこの世を去りました。 ヒット曲の数々を作詞・作曲した青島幸男さん、 萩原哲晶さんも、もう、この世の人ではありません。 それでも、CDやDVDで、私たちは気軽に、 クレージーの作品に接することが出来ます。 何もかもがキラキラと輝いていた高度成長時代。 あの頃の空気を真空パックのように封じ込めた クレージーの歌や映画は、いつだって私たちを 元気にしてくれるのです。

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