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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT

10月12日(月)〜10月16日(金)
今週は、「昭和元禄できごと史」。高度成長がトップギアに入った昭和四十年代前半。
今では望むべくもない好景気に支えられ、様々な文化が花開いた時代でした。
「昭和元禄」と呼ばれたこの時期を彩るエピソードの数々。

10月12日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
コーナーはお休みしました。

10月13日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
きょうのお話は「福田赳夫かく語りき」。
昭和元禄。 四十代後半以降の方にとっては、懐かしい言葉かと思います。 そもそも、この言葉が生まれたのが、昭和三十九年 (1964年)のこと。 当時、池田勇人首相が掲げた「所得倍増計画」によって、 日本は高度成長への道を一直線に進んでおりました。 で、これに批判的だったのが、後に首相となる、福田赳夫。 先々代の首相、福田康夫首相のお父様でいらっしゃいますが、 この福田赳夫さんが、記者会見でこんな話をしました。 昭和三十九年、六月十四日。 東京オリンピックに先立つこと、およそ四ヶ月前の話です。
「所得倍増や高度成長政策の結果、 社会の動きは物質至上主義が全面をおおい、 レジャー、バカンス、その日暮らしの無責任、無気力が 国民の間に充満し、元禄調の世相が日本を支配している」 この演説から「昭和元禄」という言葉が生まれたんですね。 戦後、およそ二十年が過ぎて、人々は平和を謳歌し、 経済的にも、ある程度の余裕が出てまいります。 その日その日の生活に追われなくても済むようになると、 人々は食べ物やファッション、音楽や美術などに、 お金や時間を使うようになる。当然といえば当然の話です。 街中にはヒッピーやらミニスカートの女の子やらが ウヨウヨし始めたわけですから、明治生まれの人たちが、 びっくり仰天するのも、仕方のないことでしょう。 長年、太平の世が続き、 次第に風俗が華美になっていった元禄時代に、 昭和四十年代前半の昭和を重ねるという発想、 なかなかのものだと思います。
昭和元禄の時代の音楽…と申しますと、何といっても「GS」、 グループサウンズでございます。 聞こえているのは元祖GSとも言うべき存在、スパイダースの 昭和四十一年(1966年)2月リリースのシングル、 「ノー・ノー・ボーイ」。 ベンチャーズのエレキブームで下地が作られたところに、 ビートルズ来日が引き金となり、グループサウンズの 大ブームが巻き起こるわけです。 昭和四十二年(1967年)一月のウエスタンカーニバルで、 初めて日劇の晴れ舞台を踏んだのが、 GSブームの頂点に君臨することになる、 このバンドでした。ザ・タイガース!デビュー曲は「僕のマリー」です。

10月14日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +

きょうのお話は「のびゆく新宿西口」。
昭和元禄を代表する街はどこか…と考えてみると、 これはやはり、新宿に止めを刺すのではないでしょうか。 新宿、とくに西口は、高度成長と共に発展を続けてきました。 昭和三十七年(1962年)の小田急百貨店開店を皮切りに、 昭和三十九年には京王百貨店が開店、 そして四十一年には建築家・坂倉準三が設計した、 地下広場が竣工。現在の新宿西口の姿が現れてまいります。 この新宿西口ロータリーの構造ですが、 地上には道路とバスターミナル、 そして地下一階で国鉄・小田急・京王・地下鉄の駅と 周囲の商業ビルをつなぎ、地下二階には駐車場。 これは世界で初めての地下立体駐車場として話題になりました。
地上ロータリー部分には、駐車場に行く車のため、 スロープが設けられています。この部分が大きく 広がっているため、地下一階にも光や空気が届き、 道行く人も息苦しさを感じない構造となっているんですね。 以前もご紹介しましたが、昭和四十四年(1969年)、 二月ごろから地下広場で「フォークゲリラ集会」が開かれます。 現在のストリート・ミュージシャンのさきがけのような形で、 若者たちが自然発生的に始めた反戦歌を歌う集まりが、 次第に大規模になり、毎週土曜、数千人もの人が集まった。 これを、機動隊や警察がよってたかって解散させたのが、 七月のこと。 これ以後、西口地下広場は「通路」ということになり、 立ち止まって歌ったり、議論することが許されなくなりました。 昭和元禄の時代、新宿に集まってきたのは、 多くがファッションに敏感な若者たちでした。 当時の特徴的なファッションといえば、何といってもミニ。
昭和四十一年、ビートルズと前後して日本上陸を果たした ミニスカートは、瞬く間に東京の路上に溢れました。 そして昭和四十三年から翌年にかけて流行したのが、 「ヒッピーファッション」。アメリカの反戦運動から生まれた 流行で、男性も長髪が基本、ヒゲをはやして、 髪にはバンダナやスカーフ、そして刺繍の入ったカフタン… 袖の長いワンピースのような上着ですね、それにジーンズ… というスタイル。新宿にはこんな服装の若者が溢れ、 時にはシンナーを吸いながら寝そべって大人の顰蹙を買った、 これもまた、昭和元禄のひとコマでございます。

10月15日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +

きょうのお話は「大きいことはイイコトだ〜」。
生活が豊かになり、文化の花開いた昭和元禄の時代。 何もかもがハデに、スケールが大きくなっていったこの時期、 テレビのコマーシャルもまた、話題作が次々に現れました。 昭和四十四年(1969年)には、 女性タレントのミニスカートがチラリとめくれる 丸善石油の「おー!モーレツ」!が大ヒット。 ほかにもこの年には、大橋巨泉さんのパイロット万年筆 「はっぱふみふみ」が流行語になっています。 前の年、昭和四十三年には「ひと味ちがうタケヤ味噌」や、 丸大ハム「わんぱくでもいいたくましく育ってほしい」 などが登場しています。 そんな話題のCM群の中でも、ひときわ派手だったのが、 こちら!
ああ、懐かしい!という方もたくさんいらっしゃるでしょう。 今はなき山本直純さん…独特のメガネとヒゲの風貌、 「男はつらいよ」の音楽や、童謡「一年生になったら」などで 知られる作曲家の山本直純さんが、 気球に乗って、地上にいる大ギャラリーを指揮します。 商品は「森永エールチョコレート」。 昭和四十二年(1967年)登場のCMです。 「大きいことはいいことだ」のキャッチコピー通り、 それまでの板チョコに比べ、一回り大きいのがウリでした。 集められた若者たちの数、実に、およそ千三百人。 現在なら、コンピューターグラフィックスで 片付けてしまいそうなところですが、昭和元禄だけに、 もう、ここは物量作戦しかありません。 これだけの大人数が入れる空き地…というのが、 当時はあったんですね。
撮影場所は、淀橋浄水場の跡地…現在の新宿副都心。 まだ高層ビルの工事が始まる前、見渡す限りの広々とした 空き地が広がっていたんです。 ちなみに、高層ビル第一号の京王プラザホテルの着工は、 およそ一年後、昭和四十三年の十一月です。 エールチョコレートのCM撮影が行われたのは、初夏。 撮影中、ずっとチョコレートを持っていては溶けてしまうので、 中身は文字通り「板」だったとか。 また、山本直純さんが乗っていた気球のゴンドラは、 ホンモノではなく、クレーンで吊り上げていたそうです。 高度成長時代、昭和元禄ならではのCM制作だったんですね。

10月16日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +

きょうのお話は「革新都知事誕生」。
昭和元禄の時代、若者たちの間に流行ったのが グループサウンズとミニスカートなら、 女の子の間に流行ったのは、昭和四十二年(1967年)に 登場した「リカちゃん人形」。 そして、男の子の間に流行ったのは、圧倒的に「怪獣」です。 円谷プロの制作の特撮シリーズ、「ウルトラQ」が スタートしたのが、昭和四十一年(1966年)のお正月。 そして同じ年の七月に「ウルトラQ」を引き継いで 始まったのが、「ウルトラマン」。 べムラー、バルタン星人、レッドキング、ジャミラ… 懐かしいですね。
放送は常に30%以上の視聴率を誇り、 怪獣ジェロニモンが登場した回は40%を超えました。 ウルトラマンの最終回が放送されたのは、昭和四十二年 (1967年)の4月9日。 ゼットンに倒されたウルトラマンがゾフィーによって蘇り、 宇宙の彼方へ去っていく物語に、少年たちが涙を流した その一週間後、歴史的な選挙が行われました。 昭和45年(1970年)の大ヒット曲、 ソルティ・シュガーの「走れコウタロー」。 台詞の冒頭部分、誰の物まねだか、 皆様、お分かりになりますでしょうか。 これがわかるのは、やはり四十代半ば以降の方でしょう。 そう、美濃部亮吉・元都知事です。 この方も昭和元禄の時代を語る上で、 欠かすことのできない人物の一人であります。 ウルトラマンの最終回が放送されたちょうど6日後の土曜、 昭和四十二年(1967年)4月15日。
この日行われた統一地方選挙で、社会・共産両党の推す 美濃部候補が、革新候補として初めて当選を果たしました。 美濃部さんのキャッチフレーズは「東京に青空を」。 高度経済成長に伴う、大気汚染などの「公害」が 大きな社会問題となっていた当時、「青空」という言葉が、 都民のハートをつかんだ、と言われております。 当時、都議会で汚職が相次ぎ、現職議員が逮捕されて解散、 出直し選挙が行われるなど、都庁がグチャグチャだったことも、 革新都知事の誕生に大きく手を貸しました。 暖かな人柄の感じられる笑顔、マスコミの名づけた 「美濃部スマイル」も、ご夫人方に人気が高かった。 美濃部さんは、三期十二年間、都知事を務めましたが、 二期目の昭和四十六年の選挙では、都知事選史上最多の、 361万票あまりを獲得。この記録は現在も破られていません。

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