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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT

10月5日(月)〜10月9日(金)
今週は、「蘭学事始」。蘭学とは、オランダ語を通じて西洋の文化を研究すること。
江戸時代中期、宝暦・明和年間に花開いた学問です。参考になる本もほとんどない時代、
血の滲むような努力を続け、無人の荒野を切り開いた先駆者たちをご紹介して参ります。

10月5日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
きょうのお話は「幻の本」。
お聞きいただいておりますのは、ショッキング・ブルーの 「ヴィーナス」。1960年代末に一世を風靡した、 オランダ出身のロック・グループでございます。 オランダ…といえば、江戸時代、 日本との貿易を許されていた、たった一つのヨーロッパの国。 そのオランダの船がもたらす書物を通して、 西洋の文化を知ろうとする動きが出てきたのが、 十八世紀の半ば頃のことでした。
医師、杉田玄白らが中心となって、オランダの解剖書、 「ターヘル・アナトミア」を翻訳する試みが始まったのが、 明和八年(1771年)春、三月のこと。 それから足掛け四年の歳月を経て、 翻訳書「解体新書」が出版されました。 およそ四十年後の文化十二年(1815年)、 八十四歳になった杉田玄白は、若き日の回想録、 「蘭学事始」を著します。この本は、出版されることなく 杉田家の土蔵に大切に保管されていました。 しかし、後に起きた大地震による火災で、 玄白自筆のオリジナルは失われてしまったのです。 自らの死が近いことを悟った杉田玄白老人。 その回顧録「蘭学事始」という本が存在していたことは、 多くの文献により、後の世に知られておりました。 ところが、明治維新を目前に控えた慶応三年(1867年)。 洋学者・神田孝平(たかひら)が、湯島聖堂裏の露店を 冷やかしていたところ、一冊の手書きの本に目を留めました。 「いったい、こりゃ、何だ?」 表紙には、太く黒々と「和蘭(おらんだ)事始」と、 タイトルが記してあります。
何気なく手にとって、 パラパラめくり始めた孝平でしたが、その顔色が、 見る見るうちに変わって参ります。 (これは、もしかして、あの『蘭学事始』では?) 間違いない、と、代金を支払い、ひったくるように その貴重本をフトコロに入れた孝平は、 友人・福澤諭吉のもとに急ぎます。勉学の仲間である二人は、 日ごろから古の蘭学に関心が深く、 失われた貴重本「蘭学事始」の存在を知っていた。 原本が燃えてしまったのは仕方のないこと。 しかし、どこかに複写が残っているのではないだろうか… そんな噂をしていた本が、いま、目の前にある。 これは歴史的発見かもしれない。神田孝平は、 はやる心を抑えながら、福澤諭吉が暮らす築地・鉄砲洲、 中津藩の屋敷へと向かっていきました。

10月6日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
きょうのお話は「蘭学の泉はここに」。
江戸の中ごろ、1770年代。 医師、杉田玄白らは、オランダの解剖書、 「ターヘル・アナトミア」の翻訳に取り掛かり、 ろくな辞書もない手探りの中、足掛け四年の月日をかけて、 その日本語版「解体新書」を出版しました。 八十五歳まで生きた玄白は、亡くなる直前に回顧録、 「蘭学事始」を著したことが知られていましたが、自筆による 原本は安政の大地震により焼失。幻の本となっていたのです。 ところが、明治維新を翌年に控えた慶応三年(1867年)、 洋学者・神田孝平(たかひら)が、湯島聖堂裏の露店で、 その写しを発見します。 「これは、大変なものだ…」 孝平は、築地・鉄砲洲の大分・中津藩邸に暮らし、 そこで若者たちに学問を教えている友人、 福澤諭吉のもとに駆けつけました。
「凄いものを見つけました。蘭学事始です!」 ええっ、それは本当か…と、ページをめくる福澤諭吉。 諭吉は、その時の気持ちを、 「既に亡くなった友人に出会ったような気がした」と、 語っています。 福澤諭吉が、「蘭学事始」に、ここまで夢中になったのには、 理由がありました。 「ターヘル・アナトミア」の翻訳プロジェクトで、 杉田玄白と並び、中心的な役割を果たした 前野良沢(まえの・りょうたく)は、諭吉と同じ、 中津藩の人間。そして、前野良沢や杉田玄白が集まって、 翻訳のための会合を開いていたのは、ここ、築地鉄砲洲の、 中津藩邸内にあった、良沢の宿舎だったのです。 およそ百年の時を経て、郷土の後輩である自分が、 大先輩、前野良沢や、その学問仲間、杉田玄白の、 学問にかける凄まじい熱意に接している。
しかも、所も同じ、築地の中津藩邸の中で…。 「舵のない船が、大海に乗り出したように、広々としていて、 寄り付くところもない。ただ、あきれにあきれていた」 この一文に触れると、諭吉は感極まり、 流れ落ちる涙を拭うこともできなかったと申します。 およそ二年後、明治二年の正月に、 諭吉は自らの手で、この回顧録を出版、 以来、私たちは手軽にこの名著に触れられるようになりました。 聖路加病院にほど近い、病院前交差点のロータリー。 ここには、福澤諭吉の「慶応義塾発祥の地」と並んで、 「蘭学の泉はここに」と名づけられた、 解体新書翻訳の記念碑が建てられています。

10月7日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +

きょうのお話は「奇人・前野良沢」。
明和三年(1766年)の春。 二人の医師、前野良沢と杉田玄白は、日本橋本石町 (ほんこくちょう)にあった「長崎屋」を訪問します。 この「長崎屋」は、長崎からやってくるオランダ使節の宿舎。 前野良沢と杉田玄白は、それまでの日本の医学に物足りなさを 感じていました。なんとかオランダの最新の文化に触れ、 医学を究めることで、人々の役に立ちたい。 そのためには、まず、オランダ語を習得したいと思うのだが、 江戸でオランダ語を学ぶことができるだろうか…と、 オランダ使節の通訳に訊ねることが目的だったのです。しかし、 通訳、西善三郎(にし・ぜんざぶろう)の答えは冷淡でした。
「毎日オランダ人と会っている私ですら、大変なのに、 江戸にいて学ぼうなんて、まず不可能、無駄な努力ですよ。 悪いことは言わないから、おやめになったほうがよろしい」 杉田玄白は「そんなものか」とあっさり引き下がります。 ところが、前野良沢は違っていました。 「日本人も人間なら、オランダ人も人間だ。 どうして、言葉がわからない訳があるだろう?」 何が何でもオランダ語を習得してやろう。 志を立てた前野良沢は、三年後の明和六年(1769年)、 長崎に赴き、西洋の医学とオランダ語を学ぶ機会を得ます。 滞在は、僅か百日に過ぎませんでしたが、 寝る間も惜しんでオランダ語の基礎を学び、 詳しいノートを取り続けました。 そして、この間、何冊かのオランダの本を買い求めましたが、 その中に「ターヘル・アナトミア」も含まれていたのです。
無理だからやめろと言われた語学の勉強に精を出し、 遂にはモノにしてしまう…この背景にあるのは、 もともと「へそ曲がり」な、前野良沢の性格です。 良沢は幼い時に両親を亡くし、叔父・宮田全沢(ぜんたく)に 育てられましたが、この叔父さんが大変な変わり者。 「最近流行らない、消えてしまいそうな芸能を習って、 後の世に伝えることが大切なんじゃぞ」 そう言い聞かされた前野良沢は、尺八の一種である、 一節切(ひとよぎり)という楽器の稽古に精を出し、 プロ級の腕前まで上達したこともあります。 人のやらないことを一生懸命やる、これが前野良沢の生き方。 杉田玄白と前野良沢は、後に再会、チームを組んで 「ターヘル・アナトミア」の翻訳に取り掛かります。 リーダーは、杉田玄白のようにあっさり諦めることをせず、 シコシコとオランダ語を学び続けていた前野良沢でした。

10月8日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +

きょうのお話は「天才・平賀源内」。
お聞き頂いておりますのは、昭和四十六年(1971年)に 放送されたNHKの連続時代劇「天下御免」のテーマ曲。 視聴率が30%を超える大ヒット番組でしたが、 主人公が平賀源内。山口崇(たかし)さんが演じておりました。 ちなみに、杉田玄白を演じていたのが坂本九さん、 前野良沢は内藤武敏(たけとし)さん。 他に林隆三、秋野太作、中野良子(りょうこ)、 今では笑点でおなじみの山田隆夫…といった面々が出演、 懐かしいという方も多いでしょう。 平賀源内は、日本のレオナルド・ダ・ヴィンチとも称される、 万能の天才です。 日本全国を跳びまわって、珍しいモノを探してきては、 展示会を開き、沢山の人を集めたプロデューサー。
また、画家として西洋画の技法を学び、美人画を描いたり、 作家として浄瑠璃を書き上げたり、 その業績は、枚挙に暇がありません。 もちろん、オランダ語や蘭学にも造詣が深く、 親友・杉田玄白と語り合い、翻訳の可能性を 探ったこともありました。 「ターヘル・アナトミア」の翻訳プロジェクトにも、 当然、関わっていてよさそうなものです。 しかし全国物産展のプロデューサーとして、 あまりにも忙しすぎたため、この歴史的偉業に 関わることはできませんでした。 「土用の丑の日」のアイディアを思いついたのが、 平賀源内である…という説はこの番組でもご紹介しましたが、 天才的な業績の数々を見ていると、 いかにもありそうなことだ…と思えてくるから不思議です。 平賀源内は、発明家としても、アスベストを使った 火に強い布地「火浣布(かかんぷ)」や、寒暖計などを こしらえましたが、最も有名なのが、こちら! ベンチャーズ、といえば、エレキ… そう、電気発生装置の「エレキテル」でございます。
原理としては、下敷きを擦って髪の毛を逆立たせるのと同じ、 静電気を起こさせるもので、使っていた材料は毛皮とガラス棒。 これを強く擦り合わせて二本の銅線の間に火花を放電させたり、 人に刺激を与えるというシロモノで、血行をよくするための 治療器として、大変人気を博したんだそうです。 現在、逓信総合博物館「ていぱーく」に、源内作と伝えられる 「エレキテル」の実物が遺されています。

10月9日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +

きょうのお話は「小塚原(こづかっぱら)の腑分け」。
日本の近代科学の原点といわれる「解体新書」。 これは、オランダの解剖書「ターヘル・アナトミア」を 翻訳したものですが、発端は明和八年(1771年)の春。 この年、杉田玄白は「ターヘル・アナトミア」を手に入れ、 そこに描かれているリアルな人体の内部に驚きます。 「私が習った漢方の解剖図とは、まったく違っている…」 中国渡来の、漢方医学では、肝臓は左三つ、右四つ、 合わせて七つのパートに分かれているが、こちらは一つ。 また心臓は、七つの穴が開き、三本の毛があると習ったが、 こちらでは四本の血管が繋がっているだけだ。 当時は解剖のことを「腑分け」と申しましたが、 ぜひ、本物の人体を腑分けして確かめたい… これが、玄白にとって最大の望みだったのです。 そんな折、タイミングよく、またとない知らせが届きました。
「明日の朝、千住の小塚原で、腑分けを行う。 見学を希望されるなら、お出かけください」 玄白は興奮を抑えきれず、仲間たちに知らせました。 そうだ、前野良沢さんにも知らせよう。 ただ、良沢の住まいは遠く、知らせに出かける時間がない。 次の機会にでも…と思いましたが、せっかくの腑分けなので、 ぜひ立ち会ってもらいたい。そうだ、とアイディアが閃いた。 辻駕籠…今で言う流しのタクシーのような存在ですが、 辻駕籠を拾って、手紙を書いて前野良沢の所に届けさせた。 このとき、杉田玄白が辻駕籠のことを思いつかなければ… あるいは、うまく辻駕籠がつかまらなかったら、その後の 日本の科学史は、ずいぶん違っていたことでしょう。 翌日の早朝。杉田玄白が集合場所に出かけていくと、 手紙が届いたとみえ、前野良沢もやってきました。 そして、懐から一冊の本を取り出すのです。 玄白が見ると、なんと同じ「ターヘル・アナトミア」。
実は私も…と取り出して見比べると、寸分たがわぬ同じ本。 二人は驚き、感激して、腑分けに臨みました。 「これが心の臓、これが肝の臓…」 慣れた手つきで人体を裁いていく、係の老人の指し示す臓器。 「ターヘル・アナトミアの図の通りだ…」 「今まで、私たちは、よく医者だなんて言えたものだ…」 本に描かれた図と、まったく同じ臓器の形、そして配列。 杉田玄白、前野良沢、そして立ち会った医師たち、 みな驚きのあまり、声もありません。 帰り道。玄白が良沢に「ターヘル・アナトミア」の翻訳を 提案すると、良沢も「私も同じ事を考えていました」との答え。 翌日、三月五日から、杉田玄白ら数名の同志が、 築地鉄砲洲、中津藩邸内の前野良沢の宿舎に集いました。 日本の科学史に燦然と輝く一大プロジェクトは、 こうして始まったのです。

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