9月14日(月)〜9月18日(金)
今週は、「ロマンの時代・大正」。
日本が近代に突入した明治と、戦争と高度成長、激動の昭和に挟まれた、エアポケットのような大正時代。
僅か十五年の短い間に花開いたロマンの数々をご紹介して参ります。
9月14日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
きょうのお話は「はばたく女たち」。
いまから二十二年前、昭和六十二年(1987年)のヒット、南野陽子さんの歌う「はいからさんが通る」この曲は、同じタイトルの映画の主題歌ですが、元は大和和紀(やまと・わき)さんが描いたマンガ。昭和五十年(1975年)からおよそ二年間連載された、七十年代を代表する少女マンガの古典の一つです。実はこの「はいからさんが通る」は、大正時代を手っ取り早く理解するためには、何よりの作品なんですね。物語の始まりは、大正七年ごろ。明るくお転婆な十七歳の女学生、旗本の子孫である花村紅緒(はなむら・べにお)と、陸軍少尉、伊集院忍とのラブ・ストーリーです。物語の中には、竹久夢二が経営した店「港屋」や、カフェー、浅草オペラなど大正風俗の数々が登場します。ただでさえ波乱万丈なストーリーが、こうしたディティールに支えられ、さらにシベリア出兵や関東大震災など歴史的事実を取り入れることで、一層深みを増しているんですね。
主人公、花村紅緒は、自立するため、職業婦人となり、出版社で働き始めます。明治時代までは、女性が外で働くなど、風俗産業以外では、ほとんど考えられなかったのですが、大正になると、実際にこうした女性がチラホラと出現して参ります。その代表格が、平塚雷鳥(らいちょう)を中心とする、雑誌「青鞜(せいとう)」に集った女性たち。日本で初めての女性雑誌である「青鞜」は、明治四十四年(1911年)に第一号が出ます。
表紙のイラストを描いたのは、後に高村光太郎夫人となる、長沼智恵子。そして巻頭には与謝野晶子がこんな言葉を寄せています。「山の動く日、きたる。かく言えども、人われを信ぜじ。山はしばらく眠りしのみ。すべて眠りし女子(おなご)、今ぞ目覚めて動くなる」 らいてうそして、これに続くのが、平塚雷鳥の有名な巻頭言です。「元始、女性は実に太陽であつた。真正の人であつた。今、女性は月である。他に依つて生き、他の光によつて輝く、病人のやうな蒼白い顔の月である。偖(さ)てこゝに「青鞜」は初声(うぶごゑ)を上げた。現代の日本の女性の頭脳と手によつて始めて出来た「青鞜」は初声を上げた。女性のなすことは今は只、嘲りの笑を招くばかりである。私はよく知つてゐる、嘲りの笑の下に隠れたる或(ある)ものを。」
9月15日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
きょうのお話は「夢二と華宵」。
大正ロマン、といえば、真っ先に名前が上がるのが、画家、竹久夢二です。「宵待草」の詩も彼の手になるもの。多才な方だったんですね。夢二は、明治十七年(1884年)岡山に生まれています。十七歳で上京し、早稲田実業学校に入学しますが、雑誌に投稿した絵が入選したのをきっかけに中退。明治の終わりごろから活躍を始め、いわゆる「夢二式美人」の絵で、人気を博します。
ここに、その代表的な絵の一枚がありますが… 黒船屋明治四十二年に最初の画集を出すとたちまち大ヒット、当時の若者たちの間に熱狂的な夢二ブームが起こります。そして大正三年(1914年)には、日本橋、呉服橋交差点の角に、自らデザインした封筒やカード、絵葉書、手ぬぐいなどを売る店、「港屋絵草紙店」をオープンしました。現在のタレントショップの「はしり」のような存在ですね。ハイカラ、モダンな大正時代を象徴するホットなスポットが、この「港屋絵草紙店」だったのです。
現在、この跡地には、記念碑が建てられ、「宵待草」の詩が刻まれております。さて、竹久夢二と並んで、大正ロマンを代表するもう一人の画家…、といえば、高畠華宵(たかばたけ・かしょう)です。ここにその代表的な一枚がありますが… 華宵は、明治二十一年生まれですから、夢二よりも四つ年下。二十二歳のときに描いた津村順天堂「中将湯」の広告の絵で認められ、その後は主に雑誌の挿絵で活躍します。華宵の描く美少女が身に着ける洋服や浴衣は、「華宵好み」としてもてはやされ、モダンガールにとって憧れの存在だったのです。大正十三年(1914年)には、鎌倉・稲村ガ崎に、「華宵御殿」と呼ばれる豪邸を建てて住み始めます。当時の雑誌に掲載された、この御殿での華宵を描いた文章をご紹介しましょう。
「海が蒼く夏の光りを反射している。みどり色の風が、白いカアテンをゆする。セセッション式の絨毯に足をなげ、深く腰の入るアームチェアで、華宵先生はしづかにエヂプトの莨(たばこ)を口からはなして語られる」こんな夢のような暮らしの中から生まれた華宵の作品は、現在、文京区弥生の「弥生美術館」で、そして竹久夢二の作品は隣接する「竹久夢二美術館」で、それぞれ楽しむことが出来ます。
9月16日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
きょうのお話は「西條八十と『赤い鳥』」。
詩人、西條八十の代表作のひとつ、「鞠と殿様」。明治二十五年(1892年)東京・牛込に生まれ、早稲田大学の英文科を出た若き詩人、西條八十は、大正五年(1916年)、二十四の年に結婚します。ところが天ぷら屋の経営に失敗したり、株で大損したり、新婚ホヤホヤなのに暮らしに追われるばかり。二人は出版社の二階に住み込み、細々と雑誌編集の仕事を手がけて何とか暮らしておりました。大正七年(1916年)のある日、そこを訊ねてきたのが、作家の鈴木三重吉。漱石の弟子として、名高いこの人が、いったい俺に何の用だろう?不審に思う八十に、ちょび髭を生やした三重吉がニコニコと話しかけてきます。
「今度、子どものための雑誌を出そうと思うのです。今までの『おとぎばなし』は教訓的すぎます。あれは、読物であって、文学じゃありません。子どものために、一流の小説家が、進んで筆を取る。新しい雑誌は、そういうものになります」鈴木三重吉の話す「新しい雑誌」、それが、児童文学史のエポックメーキングとなる「赤い鳥」でした。鈴木三重吉は、西條八十に、「赤い鳥」に、オリジナルの童謡を書いてくれるよう、依頼してきたのです。「子どものための、芸術的な詩も必要です。私は、あなたに、それをお願いしたいのです」売れない詩人への、高名な文学者からの依頼。奮い立たない訳には行きません。八十は、必死にアイディアを練ります。ようやく詩が出来上がると、原稿用紙に清書し、それを鈴木三重吉のもとへと届けます。
そのころ、「赤い鳥」の編集部は、目白から池袋へ向かう、山手線の外側の線路沿いにありました。そして、その年の「赤い鳥」十一月号に掲載されたのが、この詩です。名曲、「かなりや」。もともと西條八十の詩は、曲を想定して書かれたものではありませんでした。ところが、この詩に成田為三(なりた・ためぞう)が曲をつけた楽譜が、翌年の五月号に掲載されると、大きな反響を呼びます。それまでの子どもの歌では考えられなかった芸術的な詩とメロディーが、多くの人々の心をとらえたのです。西條八十作詞、成田為三作曲の「かなりや」は、大正ロマンの時代を代表すると共に、近代的な童謡の始まりを告げる一曲となりました。
9月17日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
きょうのお話は「大空への憧れ」。
ライト兄弟によって、人類が初めて空を飛んだのが、明治三十六年(1903年)のこと。徳川好敏(よしとし)陸軍大尉による日本で初めての飛行が、明治四十三年(1910年)。翌明治四十四年に、石川啄木は「飛行機」という題名の詩を書いています。朗読してみましょう。「見よ、今日も、かの蒼空に/飛行機の高く飛べるを。 給仕づとめの少年が/たまに非番の日曜日、肺病やみの母とたつた二人の家にゐて、ひとりせつせとリイダアの独学をする眼の疲れ…… 見よ、今日も、かの蒼空に/飛行機の高く飛べるを。」
さて、この詩が書かれてから五年後の大正五年(1916年)、アメリカ人飛行家のアート・スミスが来日し、日本中にセンセーションを巻き起こします。アメリカでは夜間飛行の達人として知られ、夜空に発炎筒で文字を描く妙技で名高かった、このスミス。前の年、サンフランシスコで行われた万博で、驚くべき飛行技術は世界中に知れ渡っており、日本でも行く先々で大歓迎を受けました。3月18日、横浜に上陸後、飛行機の組立などの準備を経て、4月8日、9日の土日に、東京・青山練兵場、現在の神宮外苑で最初の飛行ショーが行われます。牛込柳町付近で、この模様を目撃したのが、夏目漱石。漱石は、この日、スミスが飛ぶことを忘れていたものの、往来がいつになく賑やかでまるで縁日のようだったこと、皆が南の空に注意していたことから、「おお、そうだ」と、人々が何を待っているのかに思い当たったのです。
空を見ると、飛行機が気持ちよさそうに大きな輪を描いて回転、最後は真っ逆さまに急降下して家の後ろに消えていった。大丈夫だったんだろうか、無事に着陸できたのか?「最後まで見届けないときは心がかりなものである」と、漱石は日記に書き残しています。もちろんスミスは無事でした。記録によれば「翼上の仕掛花火を点火して黄煙をなびかせつつ、宙返り、連続9回の逆転、螺旋降下、300mから再度逆転、再び螺旋降下して15分後に着陸」とあります。当日、青山練兵場に集まった観客、実に十二万人。漱石のように近所の路上で見物した人を含めれば、凄まじい数に達したことでしょう。新聞に掲載されたスミスの談話です。「晴天であったため、1200mの空中から俯瞰した東京全市は、あたかも大公園を望むがごとき美観を呈した」スミスはこの後、日本全国をツアー。札幌で墜落し大怪我を負って帰国しますが、翌年再び来日して更に凄まじいテクニックを披露。まさにニックネーム「鳥人」の名をほしいままにしたのです。
9月18日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
きょうのお話は「活動写真へGO!」。
大正時代、娯楽の王者となったのが活動写真、映画です。明治時代には、単なる見世物の延長でしかありませんでしたが、大正期に入ると、本格的な劇映画が作られるようになり、数々の人気スターが登場して参ります。大正十年(1921年)には、年間の入場者数が993万人、映画館あたりの観客数は一日、1125人を記録。これは、昭和を含めても、史上最高の数字なんだそうです。この年、読売新聞が映画スターの人気投票、「活動俳優人気投票」というものを行いまして、男性部門でトップに立ったのが、山本嘉一さんという方。この番組でも何度かご紹介した、川上音二郎一座の有名な欧米ツアーに参加していた俳優で、大正六年(1917年)から映画に活躍の場を移しており、当たり役は「乃木将軍」でした。
女優の人気ナンバーワンは、中山歌子さん。この年に公開された「金色夜叉」でお宮を演じた美女。中山さんはもともと、帝劇のオペラ出身で、歌手としても「おーれは、かーわらーの、かーれすすきー」あの「船頭小唄」を初めて歌うなど、ヒットを残した方でした。さて、洋画に目を転じてみると、人気ナンバーワンは…。映画「ライムライト」から、「テリーのテーマ」。そう、大正最大のスターは、チャールズ・チャップリンです。それまでの、ひたすら笑わせるドタバタに、独特の哀愁と社会風刺を取り入れたチャップリンの映画は、この大正期に生まれました。大正三年(1914年)に映画界に入ったチャップリンは、この年、実に三十五本もの映画に出演。その後も大正の中期にかけて短編喜劇を量産、映画の時代を代表する世界的なスターとなりました。
現在も名高い長編「キッド」や「黄金狂時代」も、大正時代に作られているのです。当時の人気の凄まじさを語るのが、便乗商品。ここに「チャプリン・キャラメル」という大正六年の新聞広告がありますが、たぶん無許可でしょう、本人の写真を大きくのせて「チャプリン・キャラメル」、「大変な人気で流行して居る」というキャッチコピー…(感想など軽くあって)チャップリンは今年、生誕120年。各地で様々な記念イベントも開かれています。秋の夜長、大正時代の雰囲気を伝えるチャップリンのビデオやDVDに親しむのもまた、楽しそうですね。 |