9月7日(月)〜9月11日(金)
今週は、「江戸東京・酔っ払い伝説」。江戸から明治にかけての「お酒」にまつわるエピソードや、
飲むことが大好きだった有名人の横顔をご紹介して参ります。
9月7日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
きょうのお話は「江戸の居酒屋」。
三代目三遊亭金馬師匠の十八番、「居酒屋」
居酒屋の小僧さんに、
「のようなもの」をくれと言って絡む酔っ払い。
今も昔も変わらない、居酒屋の風景でございます。
時代劇を見ておりますと、今と替わらない縄のれんのお店で、
楽しく酒を酌み交わす人々の姿が描かれておりますが、
さて、実際のところは、どうだったのでしょう?
居酒屋が生まれたのは、江戸時代のこと。
最初は、酒屋さんの一角で、立ったまま酒を飲ませる
スタイルだったようです。
もともと利き酒、味見が目的だったんですが、
「モノ足りねえなあ、金出すから、ちゃんと飲ませてくれよ」
という要望が多かったのでしょう、
夕暮れともなりますと、酒屋さんの店先には、
ちょっぴり喉を潤したい皆さんが集まってくる。
現在でも、あちこちの街角で見られる風景ですよね。
酒屋さんの店先から始まった「外飲み」は、
次第に現在のような「居酒屋」さんへと発展していきます。
元祖といわれておりますのが、
神田鎌倉河岸の「豊島屋」さんというお店。
以前、この番組で、ひな祭りのお話をしたときに、
この豊島屋さんの「白酒」をご紹介いたしましたが、
「大衆居酒屋」の元祖も、実はこちらのお店でした。
元文(げんぶん)年間と申しますから、今からだいたい、
二百七十年ほど昔のこと。
そのころ、既に似たような居酒屋さんは、江戸の町の
あちこちにあったようですが、こちらは大変商売が上手だった。
店先で特大サイズの豆腐を焼いて、よそより安く売る。
またお酒の量もたっぷりあったということで、
たちまち大繁盛。馬の世話をする皆さんから船頭さん、
大工さん、左官屋さんなどの職人さんはもちろん、
フトコロの寂しいお侍さんまで押しかけたそうです。
ちなみに、現在の回転寿司のように、食べたお皿の数で
お会計をするシステムも、こちらのお店の考案だそうです。
当時は椅子がわりに裏返した酒樽が置いてあったり、
あるいは樽と樽の間に板を渡したベンチに座って飲む。
人気のメニューは、タコの足の煮物、さばの味噌煮、
にしんの蒲焼に、あぶらげ、がんもどきと言ったところ。
気になるお値段は、現在の貨幣価値に換算して、
つまみがだいたい百円から二百円、
そしてお酒一合が二百円から四百円程度。
このあたりも、今の大衆居酒屋と、
さして変わらないようであります。
9月8日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
きょうのお話は「黄門様は大酒豪」。
おなじみ、水戸のご老公こと、徳川光圀公。
御三家の一つ、水戸藩の二代目藩主で、
寛永五年(1628年)に生まれております。
東京ドームのお隣の静かな庭園、小石川後楽園を
築いたことでも知られている、名君の誉れ高いこの方ですが、
実はとんでもないお酒好き。
とりわけ元禄四年(1691年)に隠居してからは、
気が向けば盃を傾ける、気ままな暮らしを続けた…と
申しますから、羨ましい限りでございます。
黄門様、お酒ばかりではございません。
美しき女性もまた、大変お好きなモノの一つだったようで、
江戸時代に書かれた伝記には、こんな記述があります。
「女色に耽りたまい、ひそかに悪所へ通い、
かつまた常に酒宴遊興はなはだしと言えり」
六十を過ぎても、こんなことを書かれているのですから、
ご老公、そうとうお元気でいらしたんでしょうねえ。
これまた、羨ましい限りでございます。
とはいうものの、徳川時代でも指折りの身分の高いお殿様、
なんといっても天下の副将軍ですから、
お酒の席は実に粋なものだったとか。
桜が咲けば花見酒、秋になったら月見酒、
そしてしんしんと降り積もる真冬には雪見酒…と、
親しい仲間を集めては、陽気に語り合いながら、
飽きることなく盃を傾けていたそうです。
しかし、そんな黄門様にも、一つ、恐ろしいエピソードが
伝えられております。ご紹介しておきましょう。
黄門様の大変お気に入りの家来がいらっしゃったそうで、
いつも身近に置いて、大変かわいがっていた。
ところが、この家来、…名前を仮に八兵衛としておきましょう、
この八兵衛さんが、うっかりミスをやらかしまして、
ご老公の怒りを買ってしまった。
「二度とワシの前に現れるでないぞ。
もし現れたら、そなたを手討ちにいたさねばならん」
因果を含め、涙をのんで追放処分となりました。
しかし、八兵衛さん、ご老公が恋しくて恋しくてならない。
外出されるときは、見つからないように、
静かに後ろからお供していたので、ご老公も「うい奴」と、
見て見ぬふりをしていらっしゃったんだそうです。
ところがある日、この八兵衛さん、何を間違えたか、
ご老公の目の前に出てきちゃったんですね。
「無礼者!」と、ご老公は涙を呑んで手討ちにした。
9月9日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
きょうのお話は「酔って候」。
柳ジョージとレイニーウッドの名曲「酔って候」。
この曲は、幕末に活躍した土佐藩主、
山内(やまのうち・やまうちどちらも可)容堂がモデル。
司馬遼太郎さんの同じタイトルの小説「酔って候」に、
柳さんが心酔して出来上がった曲です。
この容堂というかた、自ら「鯨海酔候」(げいかいすいこう)、
海の鯨ほど酔っているお殿様、と称したほどの酒好き。
一日三升は飲み干すという、大酒豪でした。
倒幕後の、徳川家の処遇を決める、歴史上有名な
「小御所会議(こごしょかいぎ)」にも酔って出席。
徳川家に穏便な処置を求め、一時は会議をリードします。
ところが、岩倉具視らのことを、
「まだお若い天皇を祀り上げて、自分らのやりたいように
やろうとしてんじゃねえのか?」と酔った勢いで批判。
すると、岩倉はここで反撃に転じます。
「恐れ多くも、これは御前会議であるぞ。
すべては天子の考えから出たこと、無礼であろう…」
結局、容堂は徳川家を守りきれず、
戊辰戦争が始まることになったのでした。
明治維新後、山内容堂は、江戸の箱崎、
後には浅草に近い橋場に屋敷を構えて、
毎日を酒と女に溺れて面白おかしい日々を過ごし始めます。
新政府は、明治維新で乱れた世の中の風紀を正すため、
「弾正台(だんじょうだい)」という取締期間を設けます。
すると、容堂は、この動きをあざ笑うように、
こんな質問状を送ります。
「私はもと大名です。美しい女性に囲まれながら、
宴会を開きたいのですが、構わないでしょうか」
明治維新の功労者でもある容堂から、
こんな問い合わせがきては、認めないわけにはいきません。
「問題ありません。どうぞやってください」と、
風紀取締の世の中を横目に見ながら、
容堂は、相変わらずのドンチャン騒ぎを続けていました。
あまりの遊びの凄まじさに、さすがの大名家の財産も、
傾きかける。家来が「殿、少しは自重されては…」と、
意見したところ、
「そりゃ面白い。昔から大名家が潰れたという話は聞かん。
一つ、ワシがその第一号になってやろう」と、
うそぶいたと申します。
そんな容堂も、連日連夜の大量飲酒で体が持ちこたえられなく
なったのか、明治五年(1872年)、脳溢血で世を去ります。
享年、四十六歳。
最後に、容堂のつくった漢詩の一節をご紹介しましょう。
「きのうは橋南(きょうなん)に酔い、きょうは橋北に酔う。
酒あり、呑むべし、我、酔うべし」
9月10日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
きょうのお話は「酔っ払いのススメ」。
陸の王者慶応…といえば、思い出すのが、創始者・福沢諭吉。
天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず、の名文句、
「学問ノススメ」の大ベストセラーで知られ、
平成の今日では一万円札の肖像画でもおなじみの
歴史上の大人物でございます…が。
実はこの方も、大変なお酒好きだったんですね。
中でも日常愛飲していらしたのが、「ビール」でございます。
諭吉先生のお書きになった「西洋衣食住」という本の中に、
こんな一節がございます。
「『ビィール』という酒あり。
これは麦酒にて、その味、至って苦けれど、
胸郭(きょうかく)を開くために妙なり。
また人々の性分により、その苦き味を賞玩して飲む人も多し」
賞玩、と申しますのは、一等賞の賞に、おもちゃ、玩具の玩、
という字を書きまして、味わって大事にするという意味ですが、
わたくしもまた、その苦き味を賞玩して飲む一人であります。
胸を開いて、朗らかに語り合うためにはもってこいのお酒だ、
といったような意味なんでしょうね。賛成でございます。
福沢諭吉の自叙伝、「福翁自伝」。
現在では岩波文庫に収められており、日本人の著した
自伝のうちでも傑作の一つに数えられております。
といって、固い本ではなく、若き日の失敗談はかなり面白い。
「まず第一に私の悪いことを申せば、
生来、酒を嗜むというのが一大欠点。
成長した後には自らその悪いことを知っても、
悪習すでに性をなして自ら禁ずることの出来なかったと
いうことも、あえて包み隠さず明白に自首します」
そんなにヒドいの?と思ってしまいますが、これが、ヒドい。
「そもそもワタシの酒癖は、成長するに従って飲みなれた…
というでなくして、生まれたまま自然に好きでした」
「行状はまず正しいつもりでしたが、俗に言う酒に目のない
少年で、酒を見てはほとんど廉恥を忘れるほどの
意気地なしと申してよろしい」
江戸時代ですから、子供が酒を飲んじゃイカンという法律も
なかったとはいえ、尋常ではございません。
子供の頃、母親が頭を剃ろうとすると、痛いので嫌がります。
母親は一計を案じ「酒を食べさせるから、ここを剃らせろ」と、
言う。すると諭吉少年、酒が飲みたいばっかりに、
痛いのをガマンして大人しく剃らせたんだそうです。
後に大阪に出て緒方洪庵の門人となり、出来のよかった諭吉は
塾長を務めるようになりますが、当時は小遣いさえあれば飲む。
外に飲みに行けば、酔っ払った勢いで小皿をくすねて帰る。
川っぷちを通ると、船に乗って芸者と騒ぐ奴がいる。
こっちは安酒でガマンしてるのに、えい、いまいましい…と、
その小皿を投げつけてやったら三味線に命中して、
音がプツリと止んだ、などなど、もうヒドい話のオンパレード。
「福翁自伝」、オススメですよ。
9月11日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
きょうのお話は「大酒飲み選手権」。
落語、「試し酒」。
ある商人の家に、大酒飲みの奉公人がいる。
この男がどれくらい飲めるか、という話になり、
五升は飲めるか、いや、飲めないでしょう…と、
二人のヒマな旦那が賭けをする。
お前、いまここで五升の酒が飲めるか…といわれたその男が、
「ちょっと考えさせてくれ」と外に出て行く。
で、戻ってくるとニコニコ笑って、一気に五升を飲み干した。
あきれた二人の旦那が、外で何を考えていたのかと訊ねると、
「五升と決まった酒が飲めるかどうかわからねえから、
さっき表の酒屋で、試しに五升飲んできた…」という笑い話。
昔から大酒のみがどれくらい飲めるのか、という事については、
さまざまな伝説が残されているわけでありますね。
太平の世が二百五十年も続いた江戸時代ともなりますと、
実際、現在の「大食い選手権」のような
「酒飲み選手権」が行われた記録が残っております。
文化十二年(1815年)十月、千住宿で行われた酒合戦。
これは中屋六右衛門という豪商の還暦を祝い、
その余興として行われたもの。
酒井抱一(ほういつ)、谷文晁(ぶんちょう)、亀田鵬斎ら
当時一流の文化人が立会人となって、江戸はおろか、
関八州から大酒自慢が集まりました。
ここで使われたのは、五種類の大杯、大きな杯です。
一番小さいもので五合入り、それから七合、一升、一升五合、
二升五合…とだんだん大きくなっていき、
一番大きいものは、なんと三升が入ったそうです。
で、このときの最高記録が、二升五合入りの杯を使って、
堂々、三杯を飲み干した、つまり七升五合を飲み干した、
野州・小山の佐兵衛さんという方。
このほか、四升を飲み干してそのあたりに倒れた男が、
翌日あさ8時にむっくりと起き上がり、
一升五合の迎え酒をして何事もなく帰っていった…とか、
三味線の響きに合わせてまず酒を一升、続けて酢を一升、
さらに醤油を一升、最後に水一升を飲み干した男がいた…
などなど、信じられないような人々が次々に登場します。
さて、先ほどの酒合戦の二年後、文化十四年には、
今度は両国橋の万八楼(まんはちろう)というところで、
大酒飲み、そして大食いのイベントが開催されました。
このときのナンバーワンは、芝口の鯉屋利兵衛さん、三十歳。
三升の杯で、実に六杯半、すなわち1斗九升五合…
いまの単位で申しますと、35・1リットルの酒を飲み干した。
さすがにその場に倒れ、数時間後に目覚めて、
茶碗で水を十七杯飲んで復活したそうですが、
いやはや、凄まじい方がいらっしゃったものでございます。 |