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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT

8月31日(月)〜9月4日(金)
今週は、「M7・9の衝撃」。 関東大震災から、今年で八十六年の月日が流れました。
この史上最大の自然災害にスポットを当て、 改めて地震に対する備えを心がけていきたいと思います。

8月31日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
きょうのお話は「大正十二年九月一日」。
今から八十六年前の明日、九月一日。 日本の自然災害の歴史の中で、もっとも大きな被害を記録した 「関東大震災」が起きました。 死者、行方不明者を合わせ、およそ十万人から十四万人。 はっきりした数字はわかりません。 被災者は全部で340万人。東京では人口の75%、 そして横浜では実に93%もの人々が、この地震により、 大きな被害を受けました。
損害の金額を推定すると、およそ五十五億円。 当時の国家予算、一般会計がおよそ十五億円ですから、 いかにこの被害が凄まじいものだったか、 お分かりいただけると思います。 大正十二年(1923年)9月1日。 旧暦の8月1日にあたるこの日は、その年、取れたばかりの イネを供えるお祭の日に当たっており、 各地の農家では赤飯を炊き、ご馳走の用意が進んでいました。 また都市部では、二学期の始業式から子供たちが家に戻り、 母親たちはそろそろお昼の支度にかかっていた、 午前十一時五十八分三十ニ秒。 神奈川県西部から相模湾、房総半島の先にかけての地下深くで、 断層が動き始めました。 マグニチュード7・9、関東大震災の始まりです。 地震が東京に到達したのは、およそ十秒後の、 午前十一時五十八分四十四秒。 最初の揺れは緩やかでしたが、すぐに震度7の激震に。 揺れは数十秒続きました。
そして一旦、収まったかと思った十二時一分、 今度は東京湾の北部を震源とする最初の余震、 これがマグニチュード7・2. さらに十二時四分ごろ、山梨県東部を震源とする余震、 こちらはマグニチュード7・3. 3回に及ぶ大きな揺れで、木造家屋の多くは倒壊します。 収まったかと思えばまた揺れる、この繰り返しで、 9月1日の有感地震は実に114回を数えました。 震源に近い小田原、そして横浜はほぼ壊滅状態となり、 相模湾に面する町や村では、さらに被害が大きかった。 熱海に近い、海に面した根府川村(ねぶかわむら)では、 山崩れのために村全体が土中に埋もれ、 村民およそ350名が死亡。 また東海道本線・根府川駅に停車中だった列車は、 駅の建物、そしてホームともども海の中に転落。 ここでも100人あまりの人々が亡くなりました。 現在、この旧根府川駅のプラットフォームは、 魚たちの絶好の住みかとなり、ダイビングポイントとして 親しまれています。

9月1日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +

コーナーはお休みしました。

9月2日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +

きょうのお話は「被服廠へ逃げろ!」。
火事と喧嘩は、江戸の華。 17世紀の始めに、徳川家康がこの地にやってきてから、 江戸は世界でも有数の大都市として発展していきます。 ヨーロッパの都市と違うのは、基本的に建物が木造ということ。 江戸は、何度も大火を経験しては、 再び立ち直るという歴史を繰り返してきたのです。 江戸の人々は、生涯にニ、三回の大火を経験するのは当たり前。 家財道具をもって避難し、火事が収まったらまた 新しい家を探す…これが江戸の人々の常識だったんですね。 九月一日のお昼ごろ、地震が起きた直後、 東京市内、百七十八箇所から火が出ます。 このうち八十三箇所は、初期消火に成功しましたが、 残り九十五箇所はいかんともしがたく、折からの強風に煽られ、 火事の区域はどんどん広くなっていきました。
いくつかの場所で燃え始めた火が、そこかしこで合流し、 さらに勢いを増していく。隅田川の東側、 人口密集地域に住む人々は、家財道具や布団を手に、 避難を始めました。人々が目指したのは、 現在、「横網町公園」となっている「陸軍被服廠跡」。 被服廠というのは、軍隊で使う軍服や軍靴、靴をつくる工場で、 ここは手狭になっていたため、前の年、逓信省と東京市に 払い下げられて、工場そのものは引っ越していました。 学校や公園などが作られる計画はあったのですが、 この時点では、まだ更地。およそ二万坪、東京ドーム 1・5個分にあたる広大な土地が、空き地のまま 残されていたわけです。とりあえずここを目指そう、 というのも、無理のない話ですよね。 下町の火事がしだいに広がっていくのに比例するように、 ここ被服廠跡に避難する人の数はどんどん増えていきました。 ひとまず、ここへ来れば安心だ。
相変わらず余震は続きますが、人々は安堵の表情を浮かべ、 ついさっきの地震の体験談を語り合いながら、 「いや、将棋盤を持ってくるんだったな…」と、 悔しそうな表情を見せる人もいたということです。 最初の地震から四時間が過ぎた、午後四時ごろ。 空一面に、どす黒い雲が広がります。よかった、夕立だ… これで火事も食い止められるだろうと人々は思いました。 ところが、その雲には、一滴の水分も含まれていなかった。 どす黒い雲は、大規模な火事によって生まれた 空気の流れによって生まれたものだったのです。 雲が人々にもたらすのは、雷や雨ではなく、 恐るべき「竜巻」でした。 四万人もの人々が押し合いへしあいしている混乱の場。 しかも、それぞれが布団や衣類など、燃えやすいものを たくさん身の回りに置いています。 そこを、火の粉をたっぷり含んだ竜巻が襲ったら、どうなるか。 続きはまた、明日。

9月3日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +

きょうのお話は「帝都東京の惨劇」。
東京ドームのおよそ1・5倍という広大な空き地、 両国駅北側の陸軍被服廠跡。 火事から逃れた人々、およそ4万人が集まっていた この場所に、地震発生からおよそ4時間後の午後4時、 凄まじい竜巻が襲い掛かりました。 高さは百から二百メートル、幅はその頃の旧両国国技館が、 すっぽり入るほどあったと言われています。 四時少し前に隅田川の上空で発生したこの竜巻は、 まず川の西側に移動し、しばらくして川を渡り、東に動きます。 秒速は七十メートルから八十メートル。目撃者の証言です。 「隅田川の水が十五メートルほど吸い上げられて… ボートが一緒に空に浮いて、そのまま落ちて転覆しました」 「工事中の家がそのまま空中に吸い上げられたんです。 トタン板や、足場が飛んでいきました。
落ちてきた丸太が、人にぶつかったり、 女学生が丸くなってボールのように転がっていきました」 「荷物を載せていた荷車がそのまま宙に舞い上がりました。 それで、向かいの郵便局の屋根に落ちたんです。 何百人もの人が竜巻に吸い上げられて空に浮かびました。 そんな状況が二十分ぐらい続いたでしょうか。 その間ずっと、火の粉が、夕立のように、 ゴーッ……って……降り注いでくるんですよ。 ええ、この世のものとはとても思えない景色でした」 江戸時代以来の伝統で、人々は貴重品や布団、家財道具などを 持って、被服廠跡へとやって来ていました。 降り注ぐ火の粉は、そうした道具類にあっという間に燃え移り、 そして、辺りにいる人々にも襲いかかっていったのです。 当日、この付近で発生した竜巻は、十を下りませんでした。 竜巻で吸い上げられた人の一人が、偶然東京湾に落下し、 無傷のまま岸まで泳いで戻った…という話があったそうですが、 もちろん、大部分の人々は命を落とすことになったのです。 実際に、竜巻が被服廠跡に留まっていたのは、 数分間の出来事だったと考えられていますが。 その間に、火の粉を浴びて燃えるものはほぼ焼き尽くされ、 また酸素が失われたところに一酸化炭素が充満して、 中毒症状で亡くなられた方もたくさんいらしたようです。
被服廠跡で亡くなった人の数、およそ四万人。 震災による犠牲者のうち、三人に一人は、 この場所で命を落としたことになります。 運よく竜巻の下側に入らなかったか、 あるいはたくさんの人々の下敷きになったか、 どちらかの理由により命を永らえた人は、わずか数百人。 最終的に、ここで亡くなった人々の遺体は、 まとめてガソリンをかけ、火葬せざるを得ませんでした。 現在、この場所は都立横網町(ちょう)公園となっています。 その一角には東京都の慰霊堂と、震災の復興記念館が建てられ、 恐るべき震災の姿に触れることができます。

9月4日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +

きょうのお話は「帝国ホテルは残った」。
フランク・ロイド・ライトは、世界的に高名な建築家。 日本では、日比谷・帝国ホテルの「ライト館」を 設計したことで、よく知られています。 帝国ホテルの「ライト館」は、大正の始め頃から設計が始まり、 数回に及ぶ設計変更や、費用の増大といった事情から、 工事には大変長い時間がかかることになりました。 完成したのが、大正十二年(1923)年、真夏のこと。 そして九月一日の正午から、完成記念のパーティが 開かれることになったのです。 正午少し前、来賓の到着に備えて、スタッフが最後の訓示を 受けていたところ…凄まじい揺れが関東一円を襲いました。 支配人は調理場に駆け込み、あちこちのレンジから 上がっていた火の手をやっとの思いで消し止めます。 落ち着いたところで点検すると、何本かの柱が折れ、 床に亀裂が入るなどの被害はありましたが、 全館、ほぼ無傷に近い状態だったのです。
関東大震災のニュースは、東京・横浜が壊滅状態だったため、 福島の磐城無線局から世界へ向け打電されました。 「本日正午横浜に大地震次いで大火災あり。事実上全市が炎上。 死傷おびただし。交通機関全滅」 欧米の新聞にも、この知らせはすぐ掲載され、 東京・横浜が全滅したというニュースが流れました。 驚いたのが、アメリカに戻っていた設計者のライトです。 「帝国ホテルは無事だったのか?」 いてもたってもいられず、東京に問い合わせの電報を打ちます。 支配人は、こんな返電を打つことにしました。 「貴下の天才の記念塔としてのホテルにはいささかの損傷も なく、数百名の避難民に完全なサービスをなしつつあり。 ご同慶のいたり」ライトがこの話を新聞記者に披露すると、 「東京で残ったのはライト設計の帝国ホテルだけだった!」 というセンセーショナルな記事が欧米の新聞を賑わせます。
この事件により、ライトは一躍、世界を代表する 建築家として、名前を知られるようになったのでした。 地震から数日後。東京中の焼けてしまった役所や外国公館、 そしてマスコミがすべて帝国ホテルへと集まってきます。 ホテルのスタッフは手を尽くして近郷近在から食料を集め、 宿泊客に提供するほか、目の前の日比谷公園にいる 避難民にも炊き出しを行います。 震災後の、荒廃した東京の街にあって、眠ることを知らない 元気なホテルは、人々の目にたくましく映ったことでしょう。 建物は、惜しくも高度成長期に解体されましたが、 正面部分は愛知県の明治村に移築され、 現在もその優雅な姿を見ることができます。

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