8月10日(月)〜8月14日(金)
今週は、「六十五年目の学童疎開」。昭和十九年(1944年)の夏。
戦争の被害を避けるため、親元を離れ、地方へと旅立っていった子供たち。それから六十五年目の今年、終戦記念日を前に、遠い過去となりつつある「学童疎開」にスポットを当てて参ります。
8月10日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
きょうのお話は「疎開って、何?」。
昭和十九年(1944年)6月。サイパン島はアメリカ軍の激しい攻撃にさらされ、もはや奪回不可能な状況となりました。アメリカ軍の最新爆撃機、B29は、この島から給油することなく日本本土まで到達することができます。もはや、空襲は時間の問題となりました。そこで、政府は、空襲が予想される都市に住む小学生、当時の国民学校の3年生から6年生を、比較的安全と考えられる地方に「疎開」させることにしたのです。今では私たちも普通「疎開」と使いますが、実は当時、一般の人々にとっては耳慣れない言葉でした。永井荷風は、昭和十八年(1943年)大晦日の日記に、「疎開という新語流行す。民家取り払いのことなり」と、書き入れています。
この頃になると、空襲などに備え、立ち退きや、家屋の取り壊しが日常的に行われるようになっていました。「疎らに開く」と書いて、「疎開」。実はコレ、陸軍の用語で、突撃をする前に、兵隊を少人数のグループに分けて、間隔を開けて配置させるという意味なんです。一箇所からまとまって突撃すれば、相手の集中砲火を浴びる。しかし、適度にバラけていれば、敵も的を絞りにくくなります。つまり、戦争をより効果的に進めるために、人やモノなどを適正に配置する、ということなんですね。子供たちは、空襲を受けるとき、「足手まとい」になります。そこで、地方に「疎開」させておけば、敵の攻撃を受けても、すばやく防火活動などに集中することができる。また、将来の大切な兵力を温存するという意味もありました。
学童疎開の対象となったのは、東京を始め、横浜、川崎、横須賀、大阪、神戸など十三の都市。後に京都、舞鶴、広島、呉が追加指定され十七市となります。このほか、陸上戦が予想された沖縄の小学生も、疎開が決まりました。八月二十二日、那覇から長崎を目指し出港した疎開船・対馬丸がアメリカ軍の魚雷に撃沈され、およそ八百人の小学生が亡くなった事件はよく知られています。疎開は基本的には「縁故疎開」。地方にいる親戚などを頼り、そちらへ移ることが強く勧められていました。しかし、さまざまな理由で縁故疎開できない子供たちは、学校ごとにまとまり「集団疎開」をすることになったのです。東京からの疎開先は、多摩など、近郊の場合もありましたが、もっとも多かったのは長野県でおよそ3万7千人。このほか、福島・群馬におよそ3万人ずつなど、東北の南から北信越、北関東にかけて、全部で二十三万人余りの子供たちが一度に親元を離れたのです。
8月11日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
きょうのお話は「あわただしい出発」。
昭和十九年(1944年)6月30日。小学校3年生から6年生までの子供を空襲から避難させるため、東京などの都会から地方へ移動させる「疎開」の実施が決まります。大急ぎで具体的なプランが練られたのが、7月の前半。そして7月17日から、それぞれの学校長による、学童の親に向けての強いアピールが始まりました。「お子さんを地方に疎開させてください。基本的には皆さんの実家や親戚を頼っていただきたい。それが無理な場合は、学校ごとにまとまって、『集団疎開』を行いますので、ご参加ください」7月17日、あるいは18日、東京中の国民学校で、臨時の父兄会が開かれ、校長たちはこんな話をしたのです。
「勝つためです」「次代を担う子供を護るためです」「迷ってはいけません」「東京に残ってはいけません」半ば脅しにも似た台詞に、親たちは背筋が寒くなる思いでした。そして、さらに恐ろしいことに、「7月19日までに、縁故疎開か、集団疎開かを決めて、20日に申告書を提出してください」と、たった一日、もしくは二日での決断を迫られました。
時を同じくして、サイパン島の「玉砕」が伝えられ、国民は戦争がいよいよ重大な局面に差し掛かったことを悟ります。安全な場所に我が子を移してやりたい。しかし、食べ物は十分にあるのだろうか?衛生状態は大丈夫なのだろうか?何より、戦争はどんどん激しさを増す一方。もう二度と生きては会えないかもしれない。どうせみんな死ぬなら、いっそ手元に置いておく方が…。親たちは迷いに迷って、眠れない夜を過ごしました。一方、子供たちにしてみれば、集団疎開を選べば、クラス全員で、田舎で共同生活を送ることができるわけです。林間学校の延長のような気分で、はしゃぎながら、この想像を絶する旅に出たケースも多かった。
東京への空襲が本格化するのは、まだこの四ヵ月先、物見遊山気分の子供がいたとしても不思議ではありません。僅か二週間後の8月4日、板橋と練馬の子供が群馬県へ、品川の小学生が都下・瑞穂町へ出発したのを皮切りに、二十万人以上にも及ぶ民族の大移動が始まりました。子供たちは地元では盛大な見送りを受け、また受け入れ先の町や村でも歓迎の式典に引っ張りだこ。万歳の声が高らかに飛び交う中、「お国のために」「勝利の日まで」…と、健気な誓いを立てていました。そうすることで、親に会えない寂しさを紛らわせていたのです。
8月12日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
きょうのお話は「毎日がサバイバル」。
今から六十五年前、最初に集団学童疎開をした子供たちは、昭和七年(1932年)から十一年(1936年)にかけての生まれ。現在、上は七十七歳、下は七十二歳…と、お年を召されていらっしゃいます。集団生活で心身共に鍛えられた、得がたい貴重な体験だった…という方。あるいはその逆に、あんな思いは二度としたくない。あれほどの屈辱の日々はなかった…という方。疎開先や宿舎によっても捕らえ方はそれぞれ異なるでしょう。しかし、まだ幼さの残る八歳から十二歳の子供たちを半ば無理やり親から引き剥がして集団生活を送らせる。これは、戦争という異常事態により引き起こされたもので、二度とあってはならない出来事です。とにかく、食料が乏しかった。育ち盛りの子供にとって、食べ物がないのは、何よりも辛いことでした。山の木の実や、果実を目の色を変えて探し、未熟であろうと構わず食べる。もちろんヘビなどは貴重な蛋白源。
最初のうちは、焚き火で焼いて食べたけれど、そのうち、生のまま皮を剥いただけで味噌をつけて食べた。また、トンボを山のように取ってきては、フライパンで炒めて食べた…こうした証言は山ほどあります。美しい田園風景の中、過酷なサバイバルが続いていました。疎開児童には、食べ物が特別に多く配給されるはずでした。ところが、寄宿先が横取りするのは日常茶飯時。また、教師が生徒の食べる分をくすねて、夜中、子供たちが寝静まった後に黙々と食べていた…そんな悲しいケースもまた、多かったようです。
衛生状態も最悪でした。ノミ、シラミは当たり前。また、温泉で、夜のお仕事のお姉さんたちから、淋病をうつされた女子生徒も多く、中には同じ宿舎の全員がこの病気に感染したという例もありました。こうなってくると、子供たちの心は荒んできます。牢名主のようなボスが生まれ、いじめが横行し始めます。いじめは女子の方が陰湿な事が多く、標的の子供を全裸にして、その体を全員で品定めするというケースがあったそうです。また、三年生の男の子が亡くなった事もありました。心臓麻痺ということで処理されましたが、実は「ふとん蒸し」…子供の上に何枚もの布団を積み重ねて、その上でドシンドシンと飛び跳ねる肉体的ないじめの結果の殺人だった…。そんな事実が、戦後何年も経ってから、当事者により告白されたこともあったのです。恐ろしいことに、それが殺人だということは、子供たちの間だけの秘密で、当時気がついた先生は、誰一人、いなかったのだそうです。一体、何のための疎開だったのか?東京で空襲に遭うより、もしかしたらもっと過酷なサバイバルの日を送っていた子供も、多かったのです。
8月13日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
きょうのお話は「ビスケットとお母さん」。
学童集団疎開が始まったのは、昭和十九年(1944年)の夏。まだまだ過ごしやすい時期でした。しかし、季節はほどなく、秋から冬へと向かいます。子供たちの疎開先は、北関東から東北、そして北信越。今と違い、密閉されていない家屋の中、しかも暖房や衣類などが不足している状態で冬を越すのは、かなりの困難を伴います。なんとか、子供たちを元気付けてやらねばならない。そこで目の前に吊り下げられたのが、甘いお菓子でした。叩いてみるたび、ビスケットが増える、ふしぎなポケット。
ひもじさに喘いでいた、学童疎開の子供たちは、さぞや、こんなポケットが欲しかったことでしょう。甘いお菓子は、昭和十九年の子供にとって、何者にも換えがたい、貴重なものでした。十二月二十三日、当時の皇太子の誕生日、現在の天皇誕生日に、香淳皇后さまから、集団疎開児童に向け、ビスケット一袋ずつが贈られたのです。また、次のような歌も添えられていました。「次の世を 背負うべき身をたくましく正しく伸びよ 里に移りて」多くの疎開児童にとって、皇后陛下のビスケットは、久しぶりに口にする、甘い、甘いお菓子です。辛く厳しい疎開生活の中にあって、数少ない暖かいエピソードとして、記憶されている方が多いようです。
ビスケットは、食べてしまえばなくなってしまいます。子供たちは、また、すぐに、お母さんに会いたい。東京へ戻りたい…そんな思いで一杯になりました。国語の授業中、長谷川伸の「瞼の母」を朗読していて、主人公・番場の忠太郎の「おっかさん!」というセリフを読み上げたとき、急に泣き出してしまった。すると、教室中がつられて、全員涙が止まらなくなり、もう授業にも何にもならなかった…という話があります。宿舎を脱走して、東京へ戻ろうとする子供たちもまた、後を絶ちませんでした。同級生たちが追いかけ、つかまえると、脱走を企てた本人は観念してケロリとしている。しかし、つかまえた側が、望郷の念にかられて、「俺たちだって帰りたいんだ」と涙を流していた…そんなことも、あったんだそうです。
8月14日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
きょうのお話は「では、お元気で」。
集団学童疎開の児童たちは、温泉旅館を宿舎にするケースも、けっこう多かったそうです。世田谷区、代沢小学校の子供たちは、信州松本近郊の、浅間温泉のいくつかの宿に分かれて泊まっておりました。東京を発って半年ほど過ぎた昭和二十年(1945年)二月。子供たちが暮らしていた温泉旅館に、若い航空兵6人がやってきました。兵隊にありがちな、一般人を見下すような態度もなく、明るく礼儀正しい若者たち。彼らは、子供とすぐ仲良くなり、将棋をしたり、ゲームで遊んだり、時には一緒に散歩したり。温泉につかりながら、のんびりと日々を過ごしていました。そんな兵士たちを、子供たちも心から慕って、お互いの間に、暖かい友情が生まれたんだそうです。そして、別れの日。「自分たちは、新しい任務に就くために出発します」子供たちのはなむけの歌に、兵士たちは、心からの感謝を述べて、戦地へと旅立っていきました。
およそ二ヶ月の後。夕食の後、宿舎に置かれたラジオを聴いていた子供たちが、ワッ!と歓声を挙げました。「敵機動部隊に突入し、大型艦船十隻を撃沈した我が特別攻撃隊。十名の勇士は…」と、次々に読み上げられていく名前。紛れもなく、あの懐かしい兵隊さんたちのものではありませんか。「先生、先生、あの兵隊さんたちが…」兵士たちは、出撃を前に、温泉で英気を養っていたのです。翌日、子供たちのもとに、最後の手紙が届きました。そのうちの一通を、ご紹介しましょう。差出人は、今野勝郎軍曹です。
「いよいよ明日出撃であります。必ず敵艦を轟沈させますよ。みなさんがこの便りを見ている頃は、兵隊さんはこの世の人ではありません。次の世を背負う皆さん方がいるので、喜んで死んでいけます。浅間に在宿中は、共に遊び、共に学んだこともありましたね。ほんとにお世話になりました。厚く御礼申し上げます。敵をやっつけるまでは「死すとも死せず」必勝を誓います。にっこり笑って散っていきますよ。では、お元気で、次の世をお願いします」
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