7月27日(月)〜7月31日(金)
今週は、「八百八町はエコタウン」。化石燃料を使わずに百万の人々が暮らし、
究極のスローライフを実現していた江戸の日常生活をご紹介してまいります。
7月27日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
きょうのお話は「徹底的に紙!」。
私たちが毎日、大量に消費する「紙」。新聞、雑誌を始め、仕事で使う書類、ノートやメモ、放送局で言うなら台本、官公庁の届出用紙、包装紙や手提げ袋からトイレットペーパーに至るまで、2006年の統計では、一年一人当たりおよそ250キロ、一日にするとおよそ680グラムの紙を使っています。一方、古紙の回収率はおよそ70%。計算すると、一年に一人当たり75キロの紙を捨てている…ということになります。これを、江戸時代の人々が見たら、どう思うでしょう?
落語、「紙屑屋」。遊びの過ぎる若旦那が紙屑屋に働きに出ることになり、紙屑のより分けを任されますが、回収した紙の中から都都逸の本などが出てきたものだからさあ大変、仕事そっちのけで歌い始める…というお話。江戸時代は、現在と同じく、行政機構が発達し、幕府から民間に至るまで大量の紙が使われていました。そして、一定期間が経つと、その大部分は回収され、漉き返されて再利用される。そのためのリサイクル・システムが、出来上がっていたのです。まず、武家屋敷や一般家庭を回って使用済みの紙を回収する仕事があります。また、道に転がっている紙を拾い集める専門業者もいて、そうした様々な回収した紙を買い入れるのが、いま落語に出てきた「紙屑屋」と呼ばれる問屋さん。で、この問屋さんは、浅草あたりにあった、紙の再生業者に、分類した紙を集めて渡します。当時は、紙に染み込んだ墨を抜き取る技術がないので、再生された紙の色は、灰色だったそうです。出来上がった再生紙は、問屋さんに再び戻されて、問屋さんはこの紙を荒物屋さんに卸します。紙の再生される場所から「浅草紙」と呼ばれたこの紙は、町民たちの鼻紙やトイレットペーパーとして使われました。
さて、現在美術品としてもてはやされる「浮世絵」ですが、江戸時代には現在の大量生産ポスターのような位置づけ。一般庶民が楽しんだ後は紙屑屋さんが回収していました。そしてその後は陶器の包み紙として利用され、ヨーロッパへと渡っていきます。そうやって海を越えた浮世絵が、ゴッホを始めとする印象派の画家たちに大きな影響を与えたのです。もし江戸のリサイクル・システムが確立されていなかったら、美術の歴史も、大きく変わっていたかもしれません。
7月28日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
きょうのお話は「お天道様と米の飯」。
江戸時代、経済の中心となっていた穀物、米。大名の格を、領内でどれだけお米が取れるかで表していたということで、その重要性がわかります。「お天道様と米の飯はついて回る」太陽がどこでも照らすように、どんな境遇でも食べて行くことはできる…このよく知られた言葉にも出てくる通り、江戸の暮らしにとって米はなくてはならないものでした。
もちろんお酒の原料にもなりますし、麹菌をつけた「米麹」は、お酒のほか、味噌や醤油など、さまざまな発酵食品の原料となります。さらに、植物としての米、イネの利用法は、食べるだけではありません。どんなものでも、徹底的に利用し尽くすのが江戸流です。米を精米したあとに出る「糠」は、もちろん漬物の糠床に利用できますし、脂分が多いので、銭湯で体を洗うときにも使います。
また用途が多いのが、茎の部分である「藁」です。たとえば…落語、「ぞろぞろ」を、信心深い茶店の主人が、毎日お稲荷さんにお参りしていた。すると、天井から吊るした草鞋が、一足売れるごとに、補充もしないのに自然と「ぞろぞろ」出てくるというお話。この「草鞋」、「わらじ」と言うだけに、材料は「藁」。足にしっかり縛り付けて履く履物ですから、長距離を歩く旅人には欠かせないものでした。それでも、50キロメートルほど歩くと、擦り切れて使えなくなってしまうので、捨てて履き替えます。捨てるといっても、旅人にとって用がなくなるだけで、街道筋の農民たちは、これを集めて積み重ね、腐らせて堆肥にして利用していたそうです。
藁の使い方は、このほか、いくらでもあります。たとえば、米を入れ、持ち運ぶときに使う容器である、俵。また、畳床に使われているのも藁ですし、昔の家の屋根といえば「藁葺き」がごく普通。縄の原料になったのも、藁。お正月の注連飾りや、横綱が締めているのも、元はといえばイネの茎です。今は懐かしい「わら半紙」も、その名のとおり、ともとは藁が原料に使われた紙を指していました。そして最終的には、草鞋と同じく、埋めて肥料にするか、あるいはかまどにくべて燃料にするか。ゴミとして捨てられることはほとんどあり得ない、究極の便利素材が「藁」だったのです。
7月29日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
きょうのお話は「江戸のコンビニライフ」。
現代日本社会で、欠かすことのできない存在となった「コンビニエンスストア」略して「コンビニ」。24時間営業の店が多く、必要なものは大抵揃います。コンビニのない暮らしなんて考えられない…そんな方もたくさん、いらっしゃることでしょう。江戸時代には、もちろん、こんな便利なものはありません。それでも、人々の生活は、けっこう豊かでした。現在のコンビニエンスストアでは、賞味期限が過ぎると、たとえ冷蔵庫に入っていたものでも、惜しげもなく、捨てられてしまうことがあるようです。ところが、江戸時代は、まず冷蔵庫がありません。食品の保存技術は、現在とは比べ物にはならないわけです。特に夏場は、基本的に食べ物はあっという間に腐ります。で、どうしていたのか、と申しますと、基本は、「とれたてのものを、必要な分だけ買う」こと。こんなライフスタイルを支えていたのが、行商の人々でした。
落語「蜆売り」。江戸の長屋には、朝早くから数多くの物売り、行商人たちがやってきました。みそ汁の実にする豆腐やあさり、しじみ、またご飯のおかずになる納豆などを売りに来る。「とーふー」「あさりー しじみー」「なっとなっとー なっとー」まるで落語のような光景が、当たり前だったんですね。たとえば「あさり」「しじみ」などの貝類でいえば、その日の早朝、隅田川の河口あたりで取ったものを売りに来るわけですから、新鮮で、旨い。残すわけにはいかないので、とっとと食べてしまう。納豆は、大豆を煮て、藁づとに入れ、一晩「室」に置いたものを売りに来る。「カラスの鳴かぬ日はあれど、納豆売りの来ぬ日はなし」こんな文章が残っているほど、江戸っ子は納豆を愛していたようです。
食中毒などのリスクは現在より高かったでしょう。
しかし、掘るのも人出なら、それを運ぶのも人出。つまり流通のときに排気ガスなど一切出ません。料理するときも、使うのは化石燃料ではなく、植物から生まれた「炭」が中心ですから、CO2の排出量など、ほぼゼロに等しいわけです。また、ほとんどの家では、ご飯は朝に一回炊くだけ。昼と夜は、これを冷や飯のまま食べていたようです。かまどに火を起こすのはけっこう重労働ですから、このやり方が合理的だったんでしょう。
7月30日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
きょうのお話は「最後の最後まで」。
江戸の町にゴミはほとんどなかった、という話があります。どんなものでも最後の最後まで使うのが江戸っ子流。それでも、貝殻など最低限の生ゴミが出るのは仕方のないこと。さらに、百万人もの人がそこに住んでいることを考えると、確かに、現在よりもゴミの量は圧倒的に少なかったにせよ、ある程度のゴミが存在していたことは確実です。実際、江戸時代初期には、永代島…といいますから、現在の門前仲町、富岡八幡のあたりがゴミ捨て場に指定され、江戸湾の埋立てがスタートしています。
落語、「たがや」。職人といえば、ものを作る人、というイメージがありますが、江戸には、ものを「直す」職人もたくさんおりまして、この「たがや」さんも、そんな一人。桶や樽を締めている、竹製の「たが」が緩んだとき、新しい竹でもう一度きつく締めなおしてくれる専門職でした。何度も何度も修理を繰り返し、もうこれ以上はダメですね…ということころまで行って、初めて「捨てる」行為が現実的なものとなる。それが、江戸という町の特徴でした。修理して使うといえば、雨の日の必需品、「傘」もその一つです。現在の傘の主な材料は、鉄とビニール。壊れたら修理よりも捨てるのが一般的ですが、江戸時代はもちろん違います。傘の材料は木と竹、それに紙ですから、いくらでも再生可能。壊れた傘を専門に買い集める、「傘の古骨買い」という専門業者がいたんだそうです。集めた傘は、専門の古傘問屋に運んで、油紙をはがしてきれいに洗い、修理をしてから、もう一度油紙をきちんと貼ればそれでOK。立派な商品に再生されて、再びマーケットへと送り込まれることになったのです。また、油紙も、一定の面積が残っていれば、商品などの包装用に再利用されました。
よく時代劇に登場する、浪人のアルバイトの定番、「傘張り」も、この古い傘を再生するプロセスの一つ。新品の傘は、専門の職人が手がけており、浪人者は、回収業者が集めてきた骨に、油紙を再び貼るだけだったのです。こうした傘は一般に、「番傘」と呼ばれていました。突然の雨に備えて、商店が客に貸し出すため、店の名前と番号が大きく書き入れてあったから、この名前がついたんだそうです。
7月31日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
きょうのお話は「石鹸のなかった頃」。
美しい女性の洗い立ての髪、とてもヨイものですね。しかし、江戸時代にはシャンプーなんかありません。それどころか、石鹸ですら、一般庶民が使い始めるのは明治時代も半ばになってから。シャンプーなぞ夢のまた夢でございます。では、江戸の美しいお姉さんたちは、いったいどうやって緑の黒髪を洗っていたのでしょう。当時の女性の髪の毛は、大変長いのが普通ですから、量が多く、洗うのも一大事。普段のお手入れは櫛で丁寧に溶かす程度で、洗髪は、月に一度か二度のゼイタクだったのです。当時、使っていた洗髪料は、海草の「ふのり」。現在も食用にされるのでご存知の方も多いでしょう。
洗面器ほどの大きさの桶に、乾燥して粉末にした「ふのり」を溶かして、そこに髪の毛を入れてすすぎます。当時の絵を見ると、着物を濡れないようにするためか、上半身裸、トップレスで髪を洗う女性が多かったようです。実に艶っぽい光景でございます。さて、それでは衣類の洗濯はどうしていたのか?当時、よく使われていたのが「ムクロジ」という木です。正確にいえば「ムクロジの実の皮」。この皮にはサポニンという物質が豊富に含まれていて、これは天然の界面活性作用を持つため、擦り合わせるとよく泡立ち、石鹸の代わりとなるのです。
そんな「ムクロジの皮」、略して「ムクの皮」の登場する落語が、「茶の湯」です。ご隠居が、見よう見まねで「茶の湯」をしようとするが、いったい何を飲んでいるのかがよくわからない。そこで小僧さんと知恵を絞って、あれは「青ギナコ」だろうと見当をつけ、お湯で溶いてみるが、まったく泡立たない。おかしいなあ、何かが足りない、そうだムクの皮だ!と、この界面活性剤を、青ギナコに加えてお湯で溶いて飲んだから、さあ大変、トイレから離れられなくなる…というお話です。それでも「ムクの皮」にしても、先ほどご紹介した「ふのり」にしても、天然材料100%。製造工程でも化石燃料を一切使わない製品で、とりあえず用が足りていた江戸時代。私たちもたくさん、見習うところがありそうですね。
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