7月20日(月)〜7月24日(金)
今週は、「江戸の天文学者 伊能忠敬」。7月22日の皆既日食にちなみまして、
江戸時代、宇宙の真理を探ろうと学問に励み、遂には詳細な日本地図を作り上げた鉄の意志を持つ男、
伊能忠敬にスポットを当ててまいります。
7月20日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
コーナーはお休みしました。
7月21日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
きょうのお話は「伊能忠敬の地図」。
聞こえているのは尾崎豊「十七歳の地図」。伊能忠敬といえば、江戸時代、全国をくまなく測量して、詳細な日本地図を作った人。それも、五十歳を過ぎて学問を志し、旅を始めたのは五十五歳。そして七十一歳になるまでひたすら日本を測り続けた…というお話は、ご存知の方が多いかと思います。高齢社会に突入した日本で、第二の人生のお手本として、もてはやされることの多い人物でもありますよね。忠敬の死後、完成した日本地図は、もっとも大きな三万六千分の一サイズのもので、全部で214枚。これを全部広げて見るには、大きな体育館ほどの広さが必要になります。
なんといってもこの地図が素晴らしいのは、今日の技術で作ったものと、正確さにおいて、ほぼ遜色がないこと。昭和の始め頃まで、一世紀以上に渡り、伊能忠敬の地図は現役として用いられていたのです。残念なことに、幕府に納められた正本は、明治六年(1873年)皇居の火事により焼失。また、東京帝国大学が保管していた副本も、大正十二年(1923年)の関東大震災で、失われてしまいました。その後、各地に残っていた写しは全部で百枚ほどで、全貌を再現するのは不可能と思われていたのです。ところが、平成十三年(2001年)になって、アメリカ、ワシントンの議会図書館で、214枚のうち207枚の写しが発見されました。日本各地に残っていたものと合わせ、これで、210枚分が確認されたのです。
そして平成十六年(2004年)に、最後の4枚も、海上保安庁の保管庫から発見。これですべてが揃い、日本各地で展覧会が行われました。なにせ、一枚が畳一畳分くらいある大きなものですから、すべてを揃えて保管するのは、気が遠くなるほどの手間がかかってしまうわけです。伊能忠敬がやろうとしていたことは何だったのか?彼が、もともと志していたのは「天文学」でした。当時の天文学の重要なテーマが「地球の大きさを知ること」。緯度、一度分の正確な距離を測ることができれば、それを三百六十倍することで、地球の大きさがわかる…忠敬の地図作りの出発点は、そこにあったのです。彼が徹底的な観測によって得た緯度一度分の距離は、28・2里、およそ110・85キロメートルは、後に僅か0・1%の誤差しかなかったことが確かめられました。
7月22日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
きょうのお話は「正しい暦を求めて」。
きょう七月二十二日は「皆既日食」の日。東京では、ちょうど今頃が「食の最大」を迎える時間帯です。東京では太陽の74・9%といいますから、ほぼ四分の三が欠けるというわけです。古代から、「日食」や「月食」を予測するのは、支配者たちにとって大切な仕事の一つでした。人々に、できるだけ正確なカレンダー、「暦」を与え、日食を始めとする様々な天体現象を予告すると、「さすがはお殿様だ、こんな不思議なできごとをずっと前から知っていなさったとは…」ということになる。自分たちの権力を正当なものであると主張するために、「暦」をつくるための学問、「天文学」は、とても大切な存在でした。
伊能忠敬が登場する少し前、江戸時代中ごろは、実は、その大切な「暦」の信頼性が、かなり揺らいでいた時期だったのです。十八世紀の前半に活躍した八代将軍・徳川吉宗は、天文学の重要性に早くから気がついていました。自分で工夫した器具を使い、江戸城内や高輪の下屋敷で、当時使われていた暦の誤りを調べるため、太陽や星などの動きを観測していたという記録もあるほど。吉宗は、自分が将軍でいる間に、最新の西洋天文学を生かした実用に耐える新しい暦を作りたかったのです。
しかし、身近に適当な天文学者を得られなかったこともあって、その志を果たすことはできませんでした。吉宗が亡くなって、三年後の宝暦四年(1754年)には、一応、新しい暦が作られましたが、これが穴だらけ。地方在住のアマチュア天文学者たちが予告した日食をまったく無視していたこともあり、幕府の権威は、正に失墜しようとしていたのです。寛政七年(1795年)、幕府は暦の徹底的な見直しを決め、大阪に住んでいた二人の天文学者、高橋至時(よしとき)と、間重富(はざましげとみ)を江戸に呼びます。してこの同じ年、下総・佐原から、造り酒屋のご隠居、伊能忠敬が学問をするため、江戸へと出てくるのです。
幼い頃から読み・書き・ソロバンが得意な学問好き、医学や測量、天文に関する知恵もあった忠敬は、望まれて傾きかけた旧家・伊能家に婿入りします。そして稼業の造り酒屋を軌道に乗せ、米相場でも儲けるなど、現在の資産価値にして五十億から七十億といわれるほどの財産を、伊能家に遺したのです。これだけやったのだから、あとは好きな学問三昧だ、人生もう一度スターティングオーバー…と、江戸に出てきた忠敬。その奮闘努力ぶりは、また明日、ご紹介することにいたしましょう。
7月23日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
きょうのお話は「浅草天文台」。
きのう、江戸幕府が、信頼に耐える新しい暦を作ろうと、寛政七年(1795年)、大阪から二人の天文学者、高橋至時と間重富を呼び寄せた…というお話は、きのうご紹介しました。彼らの職場が、鳥越神社のすぐ近所にあった「浅草天文台」。幕府の天文台は、これ以前、神楽坂にありましたが、木立が茂り、観測がしにくいということで、天明二年(1782年)に、こちらに移ってきたのです。浅草天文台の屋上には、観測用の「簡天儀(かんてんぎ)」という器具が取り付けられました。葛飾北斎が、「富嶽百景」の中の「鳥越不二」という絵で、この場所を描いています高橋至時が江戸に着任して間もなく、一人の壮年の男が、「私を弟子に加えてくださいませんか。西洋の新しい天文学を学びたいのです」と、この浅草天文台を訪ねて参ります。下総・佐原で造り酒屋を営んでいるが、今は隠居の身という、この男こそ、伊能忠敬その人でした。
年を聞けば五十という、自分よりも十九歳も上。人生五十年といわれていた時代のことですから、もう立派な老人ですよね。至時の中にもためらいがありました。それでも、二、三、質問をしてみると立派に答える。また、これまでに読んだ書物の名前を尋ねてみると、難解な専門書も数多く、アマチュアの域を超えている。これは、只者ではない…と悟った至時は、忠敬老人に弟子の列に加わることを許します。至時の講義を受け、忠敬はイキイキと学び始めます。昼間は、真南に来た太陽の高さを測る。そして、夜になると、2時間おきに起きては、星の動きを記録。お金はいくらでもありますから、現在の地下鉄、門前仲町駅近くにあった屋敷にも私設天文台を作り、正に、寝る間も惜しんで、天体観測に励みました。
浅草の天文台で学問の仲間と議論していても、曇り空が晴れてくると「それ、観測だ!」と、飛んで門前仲町の自宅に向かいますから、しょっちゅう刀やキセルを置き忘れてきた、あるいは人の草履を間違えて履いて帰った、といった逸話が遺されております。あるとき、至時は、「緯度一度の距離がわかれば地球の大きさがわかる」という話をします。これに感じ入ったのが、忠敬でした。当時、ヨーロッパでも、まだ地球の正確な大きさを測った人はいなかったのです。
「もし自分にこれができれば、世界で初めてということになる」と、忠敬は、自分の歩幅を計測し、さらに方位磁石を使って、浅草の天文台と門前仲町の自宅の間を徹底的に測りました。
7月24日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
きょうのお話は「旅の始まり」。
地球の大きさを測るため、まずその手始めとして、浅草橋の天文台と門前仲町の自宅の間の距離を、自分の歩幅で、徹底的に測ることにした伊能忠敬。天文台は北緯35度42分、自宅は北緯35度40分半。およそ3キロ、1分半の差、これを掛け算すればよい。忠敬はこの結果を、自信を持って至時に告げました。学問の師匠である、幕府の天文方、高橋至時は、忠敬の尋常ではない行動力に舌を巻きながらも、「伊能さん、あなたの仕事は見事ですが、これで地球全体の数字を出すには誤差が大きすぎる。もっともっと長い距離を測らなければ意味がありません」と、諭しました。しかし一方で「地球の大きさを測る」仕事をやり遂げられる可能性があるのは、この男しかいない…とも、考え始めていたのです。
このころ、北海道沿岸には怪しいロシア船が出没していました。ロシアは北海道を狙っているかもしれない。幕府にとっては、これは大きな脅威でした。しかし、日本の領土であることを主張しようにも、きちんとした地図がなければ始まらない。幕府は、北海道、蝦夷地の詳細な地図を求めている。こんな事情を知っていた高橋至時は、いま、忠敬を推薦すれば、国土の正確な測量が可能になるのでは、と、考えたのです。また、それぞれの藩の内部を測量するため、
いちいち交渉していたのでは時間がかかってしょうがない。さらに、幕府の許可が出たところで、実績のないアマチュア上がりで、五十過ぎの初老の男性に、予算など下りるはずもありません。
しかし、忠敬には、有り余る財産がありました。「日食・月食をより正確に予想し、正しい暦を作るにも、国土のきちんとした大きさを知ることは不可欠です。どうぞこの男にお墨付きを与えて旅に出してやってください。費用が足りなければ自分で負担しますと申しております…」と、師匠・高橋至時の絶大なる推薦を得まして、伊能忠敬は、蝦夷地測量の旅に出ることになりました。入門してから5年目、寛政十二年(1800年)閏四月。内弟子三人、従者二人を連れた伊能忠敬は、千住宿で見送りの人々と別れ、一路、奥州街道を北へと旅立っていきました。クマやオオカミの出る蝦夷地、しかも五十五歳の高齢。これが今生の別れかも…と見送った人もいたことでしょう。しかし、これはまだ旅のほんの始まりに過ぎませんでした。忠敬はこれから、およそ十四年に渡って3万5千キロ、ほぼ地球一週分の距離を歩くことになります。
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