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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT

7月6日(月)〜7月10日(金)
今週は、「むかしむかしの東京サミット」。7月8日から、今年のサミット「主要国首脳会議」が、
イタリア、ラクイラで始まるのにちなみまして、今からちょうど30年前、日本で初めて、
東京で行われたサミットの模様や、当時の世相をご紹介して参ります。

7月6日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
きょうのお話は「東京の夏1979」。
毎年、この時期に開かれるサミット。去年、北海道、洞爺湖で開催されたのは記憶に新しいところですよね。昭和五十年(1975年)に始まったこの会議、日本で初めて行われたのは5回目で、今からちょうど三十年前。昭和五十四年(1979年)の6月28日と29日の2日間。この年は「国際児童年」ということで、テーマソングのゴダイゴ「ビューティフル・ネーム」が、春先から大ヒットしておりました。サミットの舞台となったのは東京赤坂の迎賓館。当時は「先進国首脳会議」と呼ばれていたこの会議の、出席者をご紹介しましょう。
懐かしい名前が並びます。ジスカールデスタン フランス大統領カーター アメリカ大統領  シュミット 西ドイツ首相アンドレオッチ イタリア首相  サッチャー イギリス首相クラーク カナダ首相  ジェンキンス EC委員長そしてホスト役が「アーウー」大平正芳首相。当時は「小粒」といわれたメンバーですが、三十年後の今から見ると、なかなかのオールスターキャストですよね。聞こえているのはサミット開催時期に、大ヒットしていた岸田智史さんの「きみの朝」です。これだけの世界の要人が、一堂に会するというのは、もちろん、日本の歴史始まって以来のこと。当然のことながら、警備も厳重になります。サミットの開催地は、警備を考え、都心は避けて、地方で行われることが多いのですが、日本の場合は一千万都市、東京の、それも、まんまん中での開催。警備にかかる人手も半端ではありません。サミットの前後に全国から動員された警察官の数、のべ41万2千人!
この時期、お巡りさんに道を尋ねても、まったく知らない。あるいは、方言を話されて、何を言ってるのかわからない、そんなエピソードも日常的にありました。カーター大統領が希望した、皇居一周のジョギングなど、もちろん却下。当時の大平首相が、「アー、もし何か起きたら、ウー、私が退陣する程度では、アー、収まらない」と、徹底的な警備を要請したことが、背景にあったんですね。その甲斐あってか、サミットはつつがなく終了し、各国首脳は無事、帰国の途に着きました。しかし大平首相は翌年五月、総選挙を前に心筋梗塞のため急死。結果的に、この東京サミットが、最後の花道となったのです。

7月7日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
きょうのお話は「わたし、きれい?」。
聞こえておりますのは、昭和五十四年(1979年)2月に発売され大ヒット、この年のレコード大賞を受賞したジュディ・オングさんの「魅せられて」。まるで蝶々の羽のように裾が広がるドレスが印象的でした。さて、東京で初めてサミットが開かれた三十年前、昭和五十四年。どんな年だったのか、カンタンに振り返ってみます。1月、三菱銀行北畠支店事件。猟銃を持って押し入った男が4人を射殺し、42時間立てこもった末自らも射殺されるという陰惨な事件が起きました。そして、2月にはイランで革命が起き、原油価格が高騰。これがいわゆる「第2次石油ショック」で、6月の東京サミットの中心的な議題となりました。まあ、どちらかといえば、明るい年ではなかったわけです。そして、そんなパッとしない日本に、暗い噂が流れます。
…そのころ、東京のありとあらゆる街で、子供たちは、この恐ろしい噂に震え上がっていました。街角に立つ、黒いコートに身を包んだ一人の女。口には、大きなマスクをしています。そして子供が通りかかると、こんな風に声をかけてくる。「わたし、きれい?」そこで「…きれい」と答えると、女はニヤリと笑い、マスクを取る。「これでもかああああ!」現れたのは、耳まで口の裂けた恐ろしい顔。いわゆる「口裂け女」の伝説でございます。「きれい?」と聞かれたときに、「ブス」と答えるとどうなるか。
この場合、フトコロから鎌を取り出して、子供の口を、自分と同じように切り裂いてしまうといいますから、どっちにしても恐ろしい話です。逃げようとしても100mを6秒のスピードで追いかけてきて、あっという間につかまってしまう。それでも「ポマード」といえば逃げ出すという説もありました。前の年の暮れ、岐阜県から流れ始めたというこの噂、春先から全国の小学校に広まって、神奈川県の平塚でパトカーが出動したり、北海道釧路では集団下校が行われるなど、世間をとても騒がせました。東京でも、先生が連絡ノートに、「口裂け女に注意してください」と書き入れる異常事態。そんな騒ぎが絶頂に達していたのが、サミットの時期だったんですね。都内の異常な警備も、実は口裂け女対策じゃないか、と、子供たちは囁いていたものでした。

7月8日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
きょうのお話は「カーター下田へ行く」。
昭和五十四年(1979年)の東京サミット、もっとも注目された首脳といえば、やはり、アメリカ合衆国第三十九代大統領、ジミー・カーターでしょう。アメリカ南部、「風と共に去りぬ」の舞台としても有名な、ジョージア州に生まれ、1971年から75年まで、州知事も務めています。そして1976年の大統領選挙に、民主党から出馬すると、最初はほとんど名前も知られていなかったにもかかわらず、あれよあれよとブームを巻き起こし、当選。ウォーターゲート事件で、ホワイトハウスの腐敗に嫌気がさしていたアメリカ市民は、クリーンなイメージの、素朴な人柄に、国の将来を託したのでした。後にノーベル平和賞を受賞したことでも知られるように、特に外交面で数々の功績を残したカーター大統領。サミット前年の1978年には、サダト・エジプト大統領と、ベギン・イスラエル首相をキャンプデービッドに招き、平和条約を締結させるなど、中東和平を推し進めました。そんな時の人がやってくる…ということで、日本の盛り上がりもまた、尋常ではなかったのです。
サミットの期間は6月28、29の二日間だけでしたが、カーター大統領は、これに先立って24日から来日。サミット前、四日間に渡って、様々な外交日程をこなしました。その中で、もっとも注目されたのが、日米関係が始まった土地、伊豆、下田への訪問です。川端康成の名作「伊豆の踊子」の最後、学生と踊子が別れる場面の舞台となった伊豆・下田。安政三年(1856年)、アメリカ公使タウンゼンド・ハリスは通訳、ヘンリー・ヒュースケンと共にこの地に上陸し、日本で最初のアメリカ総領事館を置いたのです。そして123年の時を経て、カーター大統領が、この日米関係発祥の地を訪問することになりました。
大統領は、下田中学校で一般市民との対話集会、いわゆる「タウンミーティング」を開きます。この模様は世界へ衛星中継され、大きな話題となりました。ただし大統領は、あまりの警備の厳重さに、「コレデハ対話ナドデキマセン。ナントカシテクダサイ」とかなり強硬にクレームをつけました。そして集会の後は総領事館の置かれた玉泉寺(ぎょくせんじ)を訪問。下田の人々は、今でも、カーター元大統領や、集会の立役者となった当時のマンスフィールド駐日大使に、とても親しみを抱いているそうです。

7月9日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
きょうのお話は「サミット最大のスター」。
おなじみ、ザ・ナックの「マイ・シャローナ」。昭和54年(1979年)の東京サミットのころ、全米チャートを凄まじい勢いで駆け上っておりました。この年の東京サミットにおける、最大のスターといえば、誰か。サッチャー首相でもなく、もちろん大平首相でもない。実は、カーター・アメリカ大統領が日本に連れてきた娘、当時十一歳のエイミー・カーターさんでした。愛くるしい表情のエイミーさんは、どこへ行っても人気者。その一挙手一投足が新聞に報じられたものです。そんな彼女も楽しんだのが、こちら。
そう、「スペース・インベーダー」です。当時、アメリカで流行の元祖テレビゲーム、ブロック崩しを徹底的に分解、研究して生み出された日本製のゲーム。悪役の宇宙人は、「タコ型火星人」からの連想で、タコ、イカ、カニといった海の生き物がモデルでした。売り出されたのは前の年でしたが、この年にかけ、大変なブームとなったのです。ゲームの魅力は、こちらの攻撃に対し、宇宙人も反撃してくること。これが実に画期的だったんですね。喫茶店のテーブルが、すべてインベーダーゲーム機となり、両替した百円玉を積み上げては、ピコピコピコピコ。一日、実に8万円の売り上げを記録した台もありました。当時のゲームセンター関係者は、余りにも重い百円玉の袋を持ち運んだため、ほとんどが腰痛に悩まされ、また積み込んだトラックのサスペンションがイカれてしまうという事故もしばしば起きたそうです。エイミーさんは、三越日本橋店を訪れたとき、かの岡田茂社長の案内で、インベーダーに挑戦。5ゲームを楽しんで、ハイスコアは510点でした。
さて、この夜、六本木の焼き鳥屋さん、「串八」を訪れています(邦丸さんは行ったことアリ?)かつてジョージア州知事時代に来日したときも足を運んだ思い出の店で、大統領、開口一番「サケ!」と明るくオーダー。滞在時間は、わずか1時間ほどでしたが、周囲は盛り上がり、店を出る際には、三三七拍子で送り出されました。エイミーさんは、現在41歳。9歳の男の子の母親となり、アトランタで暮らしています。

7月10日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
きょうのお話は「赤坂迎賓館」。
宝塚歌劇の大ヒット作「ベルサイユのばら」から、「愛あればこそ」をお聞きいただいております。日本のベルサイユ、といえば、東京・赤坂の迎賓館。昭和五十四年(1979年)の東京サミット、そしてその後二回の東京開催のときも、この建物が会場として使われました。四谷の駅のすぐ近くですから、以前の文化放送ともご近所さん。私共にとっても、馴染みの深い建物です。迎賓館が建っているのは、江戸時代には、紀伊徳川家の江戸中屋敷があった場所です。ベルサイユ宮殿を模したといわれる建物は、もともと、明治四十二年(1909年)に「東宮御所」として建設されたもの。
「東宮」とは、当時の皇太子、後の大正天皇。皇太子殿下がご結婚され、その新居として使うために当時の一流建築家、美術工芸家がチームを組んで作り上げた、世界でも有数のゼイタクな建物でした。 ただ、見かけ優先でこしらえてしまったために、生活する場所としては使いにくかったそうです。遠くから見ると、ほとんどベルサイユ宮殿ですが、近付くと、屋根の装飾として、ヨロイカブトに身を固めたお侍さんの像が取り付けられているのがわかります。こんなところで、日本らしさを演出しているわけですね。
東宮御所から、後に「赤坂離宮」と名前を変えたこの建物は、戦後、皇室の手を放れ、国が管理することになり、さまざまな用途に使われるようになっていきます。終戦直後には国会図書館が使っていた時期もあれば、東京オリンピック組織委員会が入居したこともあるんですね。この時代、迎賓館として使われていたのは、港区白金台の、「旧 朝香宮(あさかのみや)邸」、現在、東京都庭園美術館になっている建物です。しかし、この屋敷は、少々手狭でした。高度成長期を経て、外国からの賓客は増えるばかり。失礼のないよう、きちんとお迎えするために、設備の整った施設を作ろう、という話が出てきます。
そこで、政府がさまざまな方角から検討した結果、都心にあって、広いスペースが確保でき、見掛けも立派…と白羽の矢を立てられたのが、現在の迎賓館でした。およそ五年の歳月と、当時のお金にして108億円をかけ、リニューアル・オープンしたのは昭和四十九年(1974年)のこと。そして五年後には「東京サミット」がここで開催され、世界の目が集まることになったのです。

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