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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT

6月29日(月)〜7月3日(金)
今週は、「ライヴ・イン・ジャパン!」。 1960年代から80年代にかけて日本を訪れた、
ロックバンドのいにしえの姿と、当時の熱狂ぶりをご紹介して参ります。

6月29日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
本日取り上げますのは、「シカゴ」!
今年でデビュー40周年を迎え、 6年ぶりの単独来日公演も決まったシカゴ。 シカゴの前身となるバンドが結成されたのは、 1960年代の半ばです。メンバーは主にシカゴの名門、デ・ポール大学の学生で、ブラス・セクションが加わるユニークな編成が売り物でした。最初はミッシング・リンクス、 後にザ・ビッグ・シングと名乗っていた彼らを見出したのは、 大学の先輩であるプロデューサー、 ジェイムズ・ウイリアムス・ガルシオ。 ガルシオは自らマネジメントを買って出て、自費で彼らを 西海岸に引っ越させ、契約を求めて東奔西走します。 そしてバンド名を、「シカゴ・トランジット・オーソリティ」… 「シカゴ市交通局」へと改めて、1969年、 いきなり2枚組のデビュー・アルバム、 「シカゴの軌跡」を発表し、全米17位の大ヒットに輝きます。
ところが、当時のシカゴ市長に「その名前使うのやめろ!」と 訴訟を起こされて、現在の「シカゴ」に改名。 躍動的なブラス・セクションや、アドリブをふんだんに盛り込んだ斬新なサウンドは、センセーションを巻き起こし、 昭和46年(1971年)6月12日、初来日を果たします。 有名ミュージシャンの中には、日本ツアーを単なる 金稼ぎとしか考えず、ファンやプレスに対しても あまり友好的でないケースが少なくありません。 しかし、シカゴは違いました。メンバーはみなフランクで、 サービス精神が旺盛。コンサート会場も最初から暖かい雰囲気に満ちています。さらに、既にいくつものヒット曲をもっていたり、日本語をふんだんに取り入れたことも、ライヴを一層、盛り上げる要因となりました。 このツアー、武道館のセット・リストが手元にありますが…
ステージと客席が一体となって盛り上がる、ロック・ライヴ ならではの雰囲気が、日本で初めて出現したのが、 このシカゴの初来日公演でした。 直後の7月に後楽園球場、嵐の中で行われた グランド・ファンク・レイルロードの凄まじい熱狂は、シカゴが道筋をつけた、との見方もあるんですね。 翌72年に二度目の来日を果たしたときのステージは録音され、「ライヴ・イン・ジャパン」として日本だけで発売、こちらも大ヒットを記録しています。今回のシカゴ、東京公演は9月19日と20日の2日間、東京国際フォーラムで行われます。どんなステージになるのか、楽しみですね。

6月30日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
本日取り上げますのは、「ビートルズ」!
今から43年前のきょう、 昭和41年(1966年)6月30日。 ジョン・レノン、ポール・マッカートニー、 ジョージ・ハリスン、リンゴ・スター。 ビートルズの4人が、日本武道館のステージに立ちました。 記念すべき、たった一度きりの日本公演の初日です。 一曲目に演奏されたのが、ただいまお聞きいただいております、 「ロックン・ロール・ミュージック」! 2年前の東京オリンピック、柔道会場として建てられた 日本武道館を、歌舞音曲に使わせるなどもってのほか… といった議論もあったそうですが、 それを跳ね返してしまうだけのパワーを、 当時のビートルズは持っていたんですね。 本当は野球場を会場に使いたいところでしたが、 あいにく東京は梅雨時。どうしても屋内で、 たくさんの観客を収容できる場所が必要だったのです。
自ら楽器を持って、演奏しながら歌うスタイル。 美しいメロディーと、見事なハーモニー、 そして下半身に響くリズムの合体。 アルバムを楽曲の寄せ集めではなく、 トータル・コンセプトとして表現したこと… 音楽の世界でビートルズが残した功績は正に革命的でした。 また、ロングヘアやミリタリー・ルックといったファッション、 政治や社会問題についても発言するスタンスなど、 世界中の若者に与えた影響は数知れず、 多くの人々の人生を文字通り変えてしまったのです。 たとえば、ミュージシャン、加瀬邦彦さんもその一人。 当時所属していたバンド、ブルージーンズが、 武道館に前座として出演することが決まりました。
ところが当日は楽屋に鍵をかけられ、ビートルズのステージを 見ることが不可能だと聞き、バンドの脱退を決意します。 ビートルズが見られないなら、やめてやる! そしてメンバーを集め、自らの新しいバンド、 「ザ・ワイルド・ワンズ」を結成することになるのです。 当日の凄まじい警備体制をご紹介しておきましょう。 会場周辺に制服警官1600人、私服警官100人、 婦人警官31人。場内警備に3千人の機動隊。 これはアリーナを埋め尽くし、客席を見張る役目。 さらに、出入口には400人あまりの消防隊員が待機…と、いった具合で、動員された警官は、のべでおよそ2万人。 「女子中学生に手荒なマネをしないように」と、 全員が礼装用の白手袋を身に着けていました。

7月1日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
本日取り上げますのは、「レッド・ツエッペリン」!
ビートルズなき後、イギリスを代表するロックバンドと なったのが、レッド・ツエッペリン。 昭和46年(1971年)は、初来日ラッシュの年で、 6月にシカゴ、7月にグランド・ファンク・レイルロード、 8月にピンク・フロイド、9月にこのレッド・ツエッペリン、 そして10月にはエルトン・ジョンと続いています。 凄まじいラインアップ! 当時の音楽ファンは、いくらお小遣いがあっても、 足りなかったのではないでしょうか。 ツエッペリンのツアーといえば、乱暴狼藉の限りを尽くしたことで有名ですよね。この日本ツアーに同行した湯川れい子さんも、「毎日が血みどろのケンカの連続だった」と証言。「アンコールで袖に引っ込んだところで、 ロバート・プラントがジョン・ボーナムに殴りかかり、 ステージで煙草吸うな! 殺してやる!」とか、「マネージャーの大男が楽器ケースから猟銃を出して 荒れ狂うボーナムを鎮めた」などなど、もう大変です。
ホテルでの狼藉ぶりはさらに凄まじく、日本刀を振り回して部屋の中をズタズタにしたとか、テレビのブラウン管をすべて叩き割ってただの箱にしたとか、メンバーが中庭の木を抜けるかどうかお金をかけて、ロバート・プラントが見事に抱きかかえて引っこ抜いたとか。バスタブから湯を溢れさせてどの部屋も使えなくなり、全員で和室に布団を敷いて寝たこともあったそうです。しかし、そんな悪行をすべて忘れさせるほど、ステージは充実しており、今でも71年のツエッペリンを、自分が見た生涯最高のステージ、という人も多いんですね。
初日は7月23日の武道館。この日はアンコールに観客がステージ目がけて飛び出し、危険を感じた会場側が電気をつけてしまったことから、メンバーが怒りまくったそうです。しかしステージを重ねるごとに演奏は充実していき、初日は2時間半だった演奏が、二日目は3時間。三日目の広島では3時間20分、そしてファイナルの大阪は3時間半! ファンは本物のロックにひたすら酔い続けました。 広島での公演は、原爆被害者へのチャリティ・コンサート。 「平和と楽しさを与える音楽をやっている私たちが、 少しでも力になれるなら」と、当時のお金で700万という 大金を、広島市に寄付しています。

7月2日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
本日取り上げますのは、「ザ・ビーチ・ボーイズ」!
アメリカを代表するロックバンド、ザ・ビーチ・ボーイズ。 オリジナル・メンバーは、ブライアン、デニス、カールの ウイルソン三兄弟に、従兄のマイク・ラヴ、 そして友人のアル・ジャーディンを加えた5人です。 彼らは、昭和36年(1961年)からグループ活動を始め、 1963年に「サーフィンUSA」が、 全米3位の大ヒットとなり、ブレイクします。 64年からの世界的なビートルズ・ブームの中、 迎え撃つアメリカ勢の代表格となり、 次々に質の高いシングル、アルバムをリリースしていきます。 彼らが初めて来日したのは、ビートルズよりも前、 昭和41年(1966年)1月のこと。 そして13年後、昭和54年(1979年)7月、 今度は江ノ島で開かれた大規模な野外フェス、 「ジャパン・ジャム」への出演のため再び来日を果たします。
この野外フェスには、前の年、衝撃的なデビューを飾り、 次々に大ヒットを飛ばしていた日本代表、 「サザンオールスターズ」も出演していました。 さらに、美しいハーモニーを聞かせる西海岸のバンド、 「ファイアフォール」や、アンとナンシーのウイルソン姉妹でおなじみの「ハート」などが出演。現在でこそ、フジロックやサマーソニックなど、ヘッドライナー級のアーティストを取り揃えた夏の野外フェスは珍しくありませんが、この当時は正に画期的なコンサートだったんですね。
そして、トリをとったのが、ザ・ビーチ・ボーイズ。当時、ビーチ・ボーイズは長かった低迷の時期を抜け、次々に意欲的なアルバムを発表していた充実期でした。アメリカでは、シカゴと共に、二つのバンドの名前をつなげた「ビーチカゴ」というツアーを行って、こちらも大変な観客動員を誇っています。66年の来日は、音楽的リーダーのブライアン・ウイルソンが大傑作アルバム「ペットサウンズ」を製作中のため不在でした。しかし、この79年の来日では、薬物中毒などでフラフラになりながらも、ツアーに参加。一曲だけでしたが、「スループ・ジョン・B」ではリードボーカルも披露してくれたのです。

7月3日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
本日取り上げますのは、「ブルース・スプリングスティーン& ジ・イー・ストリート・バンド」!
昭和60年(1985年)4月10日、 国立代々木競技場第一体育館… 当時のいわゆるオリンピック・プールで行われたのが、 ブルース・スプリングスティーンと、 Eストリート・バンドの来日初公演でした。 日本にも佐野元春さん、浜田省吾さんなど、数多くの フォロワーを生んだブルース・スプリングスティーンは、 昭和48年(1973年)、「ボブ・ディランの再来」として 華々しくデビュー。 最初のアルバム「アズベリーパークからの挨拶」を始め、 「青春の叫び」「明日なき暴走」「ザ・リバー」など、 どれをとっても聞き応えのある作品を発表してきました。
しかし昭和59年(1984年)にリリースされた、 「ボーン・イン・ザ・USA」は桁違いのセールスを記録。 この世界的なメガヒットによって、ブルースは、 世界有数のロックスターの座へと上り詰めます。 翌年1月には、アフリカ救済プロジェクト、 「ウィ・アー・ザ・ワールド」に参加し、 さらに名前とカオが売れました。 そして、その余勢を駆って、待望の来日公演が、 実現することになったのです。 ブルースのライヴは凄い。とてつもなく凄い。 4時間、5時間は当たり前で、観客も立ちっぱなし、 どれくらい凄いのかは見なければ分からない… アメリカで実際にそのステージに接してきた評論家たちは、 彼のライヴをとにかく絶賛していました。 しかし、日本ではまだまだ知名度が足りない。 ギャラに見合う観客動員が期待できない。
わざわざアメリカまで見に行くことのできないファンは、 悔し涙を流すしかありません。 それがようやく見られることになったのが、 1985年のオリンピック・プールだったのです。 来日アーティストがこの会場を使うのは初めてのことでした。 待って、待って、待ちくたびれたライヴ。 期待が大きければ大きいほど、 肩透かしを食らってガックリ…というケースもありますが、 ブルース・スプリングスティーンは違いました。 迫力満点のブルースのボーカルと、それを見事にサポートする、 腕利きミュージシャン、Eストリート・バンドの面々の、 逞しく、爽やかで、時にはイケイケ、時には繊細なプレイ。3時間20分に及ぶ怒涛の演奏は、オリンピック・プールを埋め尽くしたファンを、見事にKOしたのです。

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