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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT

6月22日(月)〜6月26日(金)
今週は、「スポーツはじめて物語」。 いま私たちが実際にプレイしたり、
見て楽しんだりしているスポーツ。 その明治時代、草創期の姿をご紹介して参ります。

6月22日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
本日取り上げますのは、「野球」です。
江戸時代まで、柔術や剣術、あるいは馬術などを 楽しむことが出来たのは、お侍さんだけ。 一般大衆が、体を動かす楽しみ「スポーツ」に 親しむようになったのは、明治になってからのことでした。 教師として招かれた外国人たちが、 生徒に教えたことがきっかけとなり、広まっていく… そんなケースが多かったようです。 現在、日本でもっともポピュラーなスポーツである 「野球」も、また、しかり。 いくつかの説がありますが、いずれも、 日本の学校にやってきたお雇い外国人教師が、 生徒たちに教えた、というパターンでございます。 日本で最初に野球が行われた場所はどのあたりか? 現在、ほぼ定説となっているのが、神田一ツ橋です。 明治五年(1872年)、現在の東京大学の前身にあたる、 第一大学区第一番中学で、アメリカ人の教師、 ホーレス・ウィルソンという方が、初めて野球を行った。 といっても、自らバットをもってボールを打ち、 これを生徒に追わせた…というのですから、 現在で言うノックのような遊びだったようです。
明治二十八年(1895年)、「日本新聞」という新聞に、 当時の学生が「野球の起源」と題する投書を行っています。 「英語、歴史などを教うるウィルソンと云える米国人あり、この人常に球戯を好み、体操場に出てはバツトを持ちて球を打ち、余輩に之を取らせて無上の楽しみとせしが、ようやくこの仲間に入る学生も増加し…ウンヌン」 これが日本における野球の始まり、というわけですね。 で、翌年、この「第一大学区第一番中学」は、 すぐ近所の神田錦町に引っ越しまして、「開成学校」と名を改め、広いグラウンドも完成いたします。 先ほどの投書の続きを見てみましょう。
「この頃より、いつとなく余らの球戯も上達し、打球は中空をかすめて運動場の隅より構外へ出るほどの勢いを示せしが、ついには本式にベースを置き組を分かちてベースボールの技を始むるに至れり。明治も八年に至りては非常に発達し、ついに横浜の米国人と試合を為したる事たびたびなりし」 当時の楽しそうな様子が伝わって参ります。 これもまた、一つの「フィールド・オブ・ドリームス」と いえるのではないでしょうか。 ホーレス・ウィルソンは、この功績を称えられて、 平成十五年(2003年)に、日本の野球殿堂入り。 初めて試合が行われたとされる開成学校の跡地、 現在の神田・学士会館の前には、「日本野球発祥の地」として、 巨大な手がボールを握る記念碑が建てられています。

6月23日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
本日取り上げますのは、「サッカー」です。
4大会連続のFIFAワールドカップ 本戦出場を決め、 サッカーが盛り上がっております。 サッカーがイギリスで生まれたスポーツであるのは、 皆様、よくご存知かと思います。 19世紀の半ば、今から150年ほど前まで、イングランドの 「パブリック・スクール」と呼ばれる名門校それぞれで、 独自のルールによるフットボールが行われておりました。 できれば対抗戦をやって、それぞれの実力を試したい。 …ということで、十一個のクラブが集まって協議を行い、 1863年に世界で初めてのフットボール協会、 「ザ・フットボール・アソシエーション」を設立、 後に統一ルールが作成されたのです。 協会のやり方に従って行われるフットボールだから、 「アソシエーション・フットボール」、 実はコレがサッカーの正式名称なんですね。
サッカーの日本伝来について、いろいろな説がある中で、 現在、もっとも信憑性が高いのは、明治六年(1873年)説。 この年、海軍兵学寮の教師として着任した、 イギリス海軍のダグラス中佐が、三十三名の部下と共に、 ゲームを行い、生徒たちにも教えた…というものです。 イングランドのサッカー協会が設立されて僅か十年後ですから、 実力はともかく、歴史だけは誇れる。これが、日本のサッカーなんですね。 海軍兵学寮、後の海軍兵学校は、当時は築地、現在の国立がんセンターの場所にありました。 明治の初め、近代化を急いでいた日本は、 海軍についてイギリス式を導入することを決め、 スタッフの派遣を依頼したのです。
そこで来日したのが、このアーチボルド・ダグラス中佐。 この方、1842年、当時イギリス領だったカナダ、 ケベック生まれと申しますから、当時31歳。 北アメリカや西アフリカなど七つの海を駆け巡り、 後に海軍大将にまで上り詰めたエリートでございます。 中佐は、それまでは教室での学問一辺倒だったこの学校に、 実地訓練や体力強化の重要性を持ち込んで、 ボウリングやビリヤード、クリケットといった、さまざまなスポーツを奨励しました。 その一つが、サッカーだったのです。 生徒たちもすぐ面白さの虜になり、2チームに分かれ、 学校の中にあった馬場を使い、ゲームを行った… そんな証言が残されています。

6月24日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
本日取り上げますのは、「柔道」です。
昭和三十九年(1964年)、 東京オリンピックで正式種目として採用された柔道。 このとき、日本選手は実施された四階級のうち、 三階級で金、残る一階級でも銀メダルを獲得し、 柔道、本家としての面目を施しております。 いま聞こえています、美空ひばりさんの「柔」は、 オリンピック直後の十一月に発売され、 折からの柔道ブームにも乗って大ヒット。 翌年、昭和四十年のレコード大賞に輝きました。 今日、国際スポーツとして世界の人々に親しまれている 「柔道」の生みの親は、かの有名な「嘉納治五郎」です。 ここで、嘉納治五郎の生涯を、かいつまんでご紹介しましょう。 万延(まんえん)元年(1860年)、神戸に生まれた治五郎は、 十歳のとき、父親の仕事の都合で東京に引っ越します。 東京大学文学部を卒業後、学習院で教授を務めた秀才でしたが、 一方で、自分の体が弱いことを、引け目に思っていました。
強くなるにはどうすればいいのだろう? 治五郎が注目したのは、日本古来の武道である「柔術」でした。 相撲や、合戦場での組み打ちのテクニックなどを 洗練させ、発達させた「柔術」は、江戸時代全盛を極め、 数多くの流派が存在していました。 しかし、明治になり、文明開化の世の中が訪れると、 柔術といった日本古来の文化は軽んじられるようになります。 門弟も減り、青息吐息の道場が多くなっていたのです。 しかし、治五郎は「柔術」の奥深い魅力の虜となりました。 天神真楊流(てんじんしんようりゅう)さらに起倒流(きとうりゅう)を学び、様々な流派の技術を体系化して、新たな格闘技、「柔道」を旗揚げしたのです。 普及の場となったのが明治十五年(1882年)に創立された「講道館」。現在は、地下鉄後楽園駅のすぐ脇にございますが、 発足当時の所在地は、下谷・北稲荷町。現在の地下鉄稲荷町駅の北側にある、「永昌寺(えいしょうじ)」というお寺の一部を借りていました。
最初の道場の広さは僅か十二畳、門弟は九人でした。 それでも、お寺そのものが敷地二千坪と大変広かったため、 境内の雑木林なども格好の稽古場だったんですね。 当時の講道館をモデルにしたのが、テレビや映画でおなじみの 「姿三四郎」。三四郎が飛び込んだとされる池は、 寺の門前にありましたが、後に埋め立てられ、 現在は清洲橋通りが通っているそうです。 また、永昌寺の境内には「講道館柔道発祥の地」という 石碑があります。これは、嘉納治五郎の没後三十年を記念して、 昭和四十三年(1968年)、講道館により建てられたものです

6月25日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
本日取り上げますのは、「バレーボール」そして「バスケットボール」です。
昭和三十九年(1964年)の東京オリンピックで、 女子チームがソ連を破って金メダルを獲得、 ブームを巻き起こした「バレーボール」。 それからも長い間「日本のお家芸」として国際大会で好成績を収め、現在に至っていることは、皆様、よくご存知の通りです。この「バレーボール」と「バスケットボール」、実は大きな共通点がございます。それは、どちらも、19世紀の終わりごろに、アメリカのYMCAで生まれた、「新しいスポーツ」であるということ。多くのスポーツは、自然発生的に生まれ、遊びとして発達してきた歴史を持っていますが、バレーボールとバスケットボールは人工的なモノなのです。YMCA、日本語にすると「キリスト教青年会」。1844年、ロンドンで生まれた運動です。当時、運動をすることで体が丈夫になること、またリフレッシュ効果も大きいことなどにいち早く注目し、アメリカ各地に体育館やプールのある施設を作っていました。フィットネスクラブの先駆けのようなものですね。
バスケットボールは1891年、バレーボールは1895年に、 相次いで生まれています。 そして、全米で、この2つのスポーツの面白さに 多くの人々が気づき始めていた1905年(明治38年)。一人の日本人が、マサチューセッツ州スプリングフィールドの、 国際YMCAトレーニング・スクールに入学します。 その名を、大森兵蔵(ひょうぞう)。青雲の志に燃え、渡米した兵蔵青年は、当初、経済学を学んでいましたが、YMCAの活動を知り、方向転換。社会福祉に目覚め、奉仕活動に一生を捧げようと決意します。
そして大森は、現地で恋におち、アメリカ人女性と結婚。1908年(明治43年)に、二人で日本に戻ってきました。帰国すると、新宿・柏木に、授産所、幼稚園、図書館などを備えた「有隣園(ゆうりんえん)」という施設を開設します。そして翌年、神田美土代町にあった東京YMCAに着任。当時、この東京YMCAにはまだ体育館がなかったので、裏側の空き地にコートを作り、アメリカ仕込みのバレーボールやバスケットボールを、青年たちに教え始めたのです。これが日本のバレー、バスケの事始めということになります。およそ一世紀のち、2003年に、美土代町のYMCAは、江東区東陽町に移転。現在、跡地には「東京YMCA会館記念碑」が建っています。

6月26日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
本日取り上げますのは、「マラソン」です。
日本における長距離レースの歴史を紐解いてみると、 安政二年(1855年)、上州安中藩主の板倉勝明が、 藩士を鍛えることを目的に、安中から碓氷峠頂上まで、 およそ29キロを走らせた…という記録が残っています。 これ「安政遠足」と呼ばれるものなんですが、 当時は道路が舗装されてる訳でもありません。 あの碓氷峠のてっぺんまで駆け上がるというのは、ヒジョーに厳しかったのではないでしょうか。さて、近代的なマラソンレースの第一号は…と申しますと、 これは、はっきりと記録に残っております。 明治四十四年(1911年)十一月十九日。 日本は、翌年、ストックホルムで開かれるオリンピックに 初めて参加することになり、出場選手を選ぶための 予選会が開かれたのです。会場は、羽田競技場。 現在、羽田空港の滑走路になっている場所でした。 マラソンコースは、この競技場を出発し、 東海道を西に進んで東神奈川で折り返す往復コース。 優勝したのは、東京高等師範学校に通っていた学生、 金栗四三(かなぐり・しぞう)選手。
雨風が吹きすさぶ厳しいコンディションの中、 当時の世界記録だった2時間55分18秒を、 20分以上も縮める2時間32分45秒でゴールイン。 この快挙に、東京市内では号外が配られたと申します。 しかし、まだまだスポーツに対する意識の低かった時代。 選手の遠征費用は主催の大日本体育協会が出す予定でしたが、 当時の文部省が「官立学校の生徒が遊びごときのため 海外へ行くなど断じて許しがたい!」と横槍を入れてきました。 こうなると、体協もお金を出すわけにもいきません。 結局、友人たちが「金栗をオリンピックへ送ろう!」と、 募金活動を展開し、ようやく出場することができたのです。 翌明治四十五年七月十四日、金栗はストックホルム五輪の マラソン、スタートラインに立ちます。 しかし、初めて経験する真夏のコンディションや、 スタートからいきなりハイペースで飛ばす外国人選手の レース運びに戸惑い、自分の力を発揮できないまま、 27キロ地点で日射病のため倒れ、意識を失ってしまいました。
ちなみにこのマラソン、完走は出場68人中34人、棄権した選手の一人が日射病で亡くなる、とても過酷なレースでした。 このストックホルム五輪、日本の選手団長を勤めたのは、 おとといご紹介した「柔道」の創始者、嘉納治五郎。 そして監督は、きのうご紹介した「バレーボール」と 「バスケットボール」を初めて日本に輸入した大森兵蔵でした。 オリンピック終了後の七月三十日、明治天皇が崩御。 日本は新しい「大正時代」に入っていくことになります。

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