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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT

6月1日(月)〜6月5日(金)
今週は、「下北沢ヒストリー」。 音楽や芝居に彩られながら、若者たちが出会う街。
細かな路地の一本ごとに新しい発見のある街、 お散歩天国・下北沢の今昔をご紹介します。

6月1日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
初日のきょうは、「駒場野からの眺め」です。
江戸時代から戦前にかけての下北沢は、 見渡す限り、美しい田園風景が広がっていました。 現在の下北沢駅周辺は、北沢川や、その多くの支流が流れる 「谷」の地形になっています。 現在は、埋められたり、フタをされたりして、 かつての面影を辿るのも難しくなっていますが、 これらの川は、農民たちの暮らしになくてはならない、 生活水路だったのです。 下北沢から、東へ坂道を上がっていくと、 かつて「駒場野」と呼ばれた風光明媚な場所。 「江戸名所図会」にも「駒場野」という絵があり、丘の上から 下北沢あたりを見渡す、美しい風景が描かれております。 説明には、「ヒバリ、ウズラ、キジ、野ウサギの数多く御遊猟の地なり」とあり、「駒場野」一帯が、将軍の狩場となっていたことがわかります。
このあたりの鎮守様として名高いのが「北沢八幡」です。 下北沢の駅から南へ歩いて、およそ十分ほどの距離。 今から五百五十年ほど前、十五世紀の半ばに、 世田谷城主だった吉良氏が、この地に建てたもので、 応神天皇をお祀りしています。毎年九月最初の週末が「例大祭」。 近隣の町内会から二十もの神輿が繰り出して、 初秋の下北沢の町を練り歩き、石段を登ってのお宮入り、 勇壮な風景が呼び物になっています。 もっとも、この賑やかなお祭りの風景は、 大正の終わりごろから始まったもの。 関東大震災で大きな被害を受けた下町から、 世田谷あたりに職人さんたちが沢山引っ越してきた。 「どうでえ、この辺りでも、一つ、盛大に、 神輿をかつごうじゃねえか」という話になりまして、 次第に盛り上がってきたものです。 また、この北沢八幡の隣にあるお寺が「森巌寺(しんがんじ)」。 徳川家康の次男である武将、結城秀康の「位牌所」として 慶長十三年(1608年)に建てられました。 境内にある淡島神社は、よく効くと評判の「お灸」が名物です。
大正十四年、現在の代沢小学校で代用教員を務めた文学者、 坂口安吾はその作品「風と光と二十(はたち)の私と」の中で、 当時の下北沢をこんな風に描いています。 「私が代用教員をしたところは、世田ヶ谷の下北沢という所で、その頃は荏原(えばら)郡と云い、まったくの武蔵野で、私が教員をやめてから、小田急ができて、ひらけたので、そのころは竹藪だらけであった。本校は世田ヶ谷の町役場の隣にあるが、私のはその分校で、教室が三つしかない。学校の前にアワシマサマというお灸だかの有名な寺があり、学校の横に学用品やパンやアメダマを売る店が一軒ある外は四方はただ広茫限りもない田園で、元よりその頃はバスもない」 現在、代沢小学校には、安吾の文学碑が建てられています。

6月2日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は、「戦前の下北沢」です。
明治時代までの下北沢界隈は、見渡す限りの田園風景が広がる、 のんびりとした土地でした。 関東大震災後、被害を受けた下町の人々が移り住むようになり、 少しずつ賑わいを見せるようになってはいましたが、 農地から住宅地へと、大きく変わるきっかけとなったのが、 昭和二年(1927年)の小田急線開通。 そして、六年後の帝都電鉄、現在の京王井の頭線の開通です。 新宿や渋谷のターミナルに十分以内で行ける便利さから、 この街は大きく発展することになりました。 そして、様々な文化人も移り住むようになったのです。 代表的な一人に、詩人の萩原朔太郎がいます。 明治十九年、群馬・前橋に生まれた朔太郎は、 大正六年、「月に吠える」で、名声を確立します。 そして昭和六年からおよそ十年にわたり、下北沢界隈を転々。 そして昭和十七年、下北沢にほど近い代田二丁目で、 肺炎のため五十七歳でこの世を去っています。
詩人・萩原朔太郎は、昭和十年、下北沢時代に、 唯一の短編小説「猫町」を発表しています。 舞台になっているのは、どうやら下北沢のようです。 「ふと或る賑やかな往来へ出た。それは全く、私の知らないどこかの美しい町であった。街路は清潔に掃除されて、鋪石がしっとりと露に濡れていた。どの商店も小綺麗にさっぱりして、磨いた硝子の飾窓には、様々の珍しい商品が並んでいた。珈琲店の軒には花樹が茂り、町に日蔭のある情趣を添えていた。四つ辻の赤いポストも美しく、煙草屋の店にいる娘さえも、杏のように明るくて可憐であった。かつて私は、こんな情趣の深い町を見たことがなかった」 幻想の世界に遊ぶ詩人の想像力を下北沢の町が刺激し、 このエキサイティングな短編小説が生まれたのです。
萩原朔太郎が下北沢に暮らした時期は、町の発展期と見事に重なっています。移り住む人が増えれば、お店も増える。急激な人口爆発のため、どれだけ店員を補充しても足りません。そこで、下北沢の商店街では、「店員道場」という施設を作り、新人店員たちに習字やそろばんなどの商業教育を行いました。当時のナチス・ドイツ、ヒットラーユーゲントの若者たちが 昭和十六年に来日したとき、この「店員道場」の噂を聞き、 わざわざ下北沢まで視察にやってきた。という記録も 残っています。勉学に励む日本の若者たちを見て、 ヒットラー信望者の若者たちは、何を思ったのでしょう。

6月3日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は、「幻の線路」です。
1945年(昭和二十年)五月二十五日。 下北沢を含む東京・山の手地区が空襲を受けます。 三月十日の東京大空襲に次ぐ死者が出たこの空襲。 下北沢の中心部は幸いなことに焼け残りましたが、 周辺の町は、大きな被害を受けました。 井の頭線の「永福町検車区」もその一つ。 ほとんどの車両が燃えてしまったため、 井の頭線は、電車の運行がほぼ不可能になったのです。 しかしこの電車は、他の路線とレールがつながっていないため、 車両を補充するのは、とても難しいことでした。 そこで考えられたのが、下北沢で交差している小田急と レールをつないで、電車を送り込む、という方法です。 今では井の頭線は京王電鉄の電車ですが、 もともとは小田急の系列会社として発足しており、 軌道の幅も同じで、電車を融通しやすかったんですね。 下北沢駅では、小田急も井の頭線も、 同じ改札で出入りできるのも、その名残りです。
さて、五月二十五日の空襲直後、現在の小田急線、世田谷代田駅のあたりから、 大きく弧を描いて、井の頭線の新代田駅近くまで、 レールを引く突貫工事が始まりました。 戦争末期で、資材も乏しく、空襲の危険と背中合わせ。 しかし、戦争を進める上で、鉄道輸送はなくてはならないもの。 軍部はこの現場に腕利きの部隊を送り込み、 わずか一ヶ月ほどで600メートル余りの線路が引かれました。 そして、八月十五日、戦争が終わります。 戦後ほどなく、この「代田連絡線」と名づけられた路線は、 ほとんど使われない状態が続くようになりました。 もともとありあわせの材料で、やっつけ仕事で作られた路線。 また電車がほとんど通らないため強盗の通り道になったり、 線路のためにガスや水道が分断されてしまったり。 近隣住民にしてみれば、危険この上ない存在…というわけで、 昭和二十八年には、線路や架線がすべて撤去されました。
代田連絡線が利用されていた終戦直後、 下北沢駅周辺にも闇市が開かれます。 駅の周りは「強制疎開」で更地になっていたため、 あっという間に青空マーケットが広がったのです。 小田急の終点、小田原から新鮮な魚やみかんが運ばれ、 大変な賑わいを見せました。 北口周辺、線路脇に広がる「北口食品市場」は、 当時の姿を今に伝えています。

6月4日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は、「若者の町・シモキタ」です。
若者の町、下北沢。後に有名になった俳優やミュージシャンで、 売れない頃下北沢で暮らしていた、 あるいはバイトしていた…こうしたエピソード、 それこそ、星の数ほどございます。たとえば、有名どころでは、このブルーハーツのボーカル、甲本ヒロトさん。 ラーメン屋さん「眠亭」でバイトをしていたという、 有名な話がありますが、同じ頃、俳優の梶原善さんなども、 一緒に働いていたんだそうです。 梶原さんは、インタビューに答えて、 「若者のそういう活動に対して理解のある店で、ゴハンを食べさせてくれるだけじゃなくて、給料を日当でくれたから、ホント助かったんですよ」と、 話しています。 これもまた、シモキタならではのエピソードと言えそうです。 戦後の下北沢の歴史を辿ってみましょう。
昭和二十年代後半、世の中が落ち着いてくると、 かつて闇市だった北口食品市場は、オシャレな輸入品なども取り扱う、知る人ぞ知るスポットに変身していきます。同じ頃、成城など映画の撮影所に近く、また新宿や渋谷などのターミナルにも十円で出られたことから、映画関係の仕事を持つ若者たちが大挙して住み始めた…と、当時俳優だった本多劇場グループ総帥、本多一夫さんは証言しています。業界関係者だけではなく、このあたりには、東大や明大など、大学もたくさんあります。安い大衆食堂も山ほどあって、お金がなくても腹いっぱい食べられる下北沢は、若者のパラダイス。学生たちの間では「下宿と定食なら下北沢」…という言い伝えがあったんだそうです。そんな流れが、現在に至るまで、脈々と続いているんですね。
70年代後半になると、増えてくるのが音楽関係者。79年には、駅前にあっただだっ広い空き地で、「第一回 下北沢音楽祭」が開催されて、「音楽の町 シモキタ」というイメージが定着します。ちなみに出演者は、カルメンマキ、あがた森魚、そして、RCサクセション、など、など、など。現在、その「だだっ広い空き地」には、演劇関係者の憧れ「本多劇場」が建てられています。 いま、歌が流れている清水ミチコさんも、 下北沢が大好きで、住み込んでしまった有名人の一人。 こうしたタレントやミュージシャンといった人々が、 ごく自然に隣を歩いている… これもまた、下北沢の魅力の一つですよね。
 
6月5日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日のお話は、「下北沢よ どこへ行く」です。
下北沢は音楽の町、そして演劇の町としておなじみです。 現在も続く老舗のジャズ喫茶「マサコ」が開店したのは、 昭和二十年代の終わりごろ。 また、ライヴハウスの老舗、下北沢ロフトは、 昭和五十一年(1976年)のオープンです。 一方、劇場のほうは…と申しますと、 これが意外に遅く、最初にザ・スズナリがオープンしたのが 昭和五十六年(1981年)、そして本多劇場はその翌年。 ですから、下北沢が演劇ファンに親しまれるようになってから、 まだ四半世紀なんですね。 この先、下北沢には、どんな文化が根付いていくのでしょう。
現在、下北沢駅周辺では、2004年9月に始まった、 小田急線の地下複々線化工事が続いています。工事は2013年ごろまで続く見込みで、 小田急線の線路は地下2層式に変わります。 地下一階には各駅停車、地下二階には急行電車。 それにしても、始終電車が通り抜けるその下で、 こういうヤヤコシイ工事をやっているのは、凄いですよね。 そして、同時に進められようとしているのが、道路工事。 これまで細い路地だらけで、災害への備えが 決して万全とはいえなかった下北沢。その町の真ん中を、 最大26メートルという道幅の広い道路が、横切る予定です。 駅前にはロータリーが生まれ、高層ビルが建つ可能性もあります。 一方で、歩いて楽しめるのが下北沢のよさであり、 この計画はそんな町の特徴を根こそぎ壊してしまう…と、 反対する人たちも多く、議論は続いています。
下北沢駅周辺は、大きくその姿を変えようとしています。小田急線が地下に潜った後には、大きな広場が生まれる予定。道路が通るにしても、あるいは計画が変わるにしても、北口周辺の眺めはガラリと一変してしまうでしょう。かつて、この町で青春時代を過ごした、という皆さん。今のうちに、懐かしい下北沢の姿を瞼に焼き付けるため、お出かけになってみては、いかがでしょうか。


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