5月6日(水)〜5月8日(金)
今週は、「ミナト横浜文明開化」。 今年、開港から百五十周年を迎え、盛り上がる横浜。 幕末から明治維新にかけて、様々な西洋文化が流れ込んできた
当時のエピソードをご紹介します。
5月4日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
コーナーはお休みしました。
5月5日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
コーナーはお休みしました。
5月6日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は、「三河町の半七」です。
「捕物帳」…といえば、江戸を舞台とした犯罪小説。 皆様、こんなイメージをお持ちかと思います。 しかし、そもそも「捕物帳」とは何なのか?
実際に、犯罪を記録した帳面があったのでしょうか、 それとも、こうした小説を創作した「誰か」の造語なのか。
最初の「捕物帳」小説である、 岡本綺堂作「半七捕物帳」が始まったのは、 大正六年(1917年)のこと。
全部で六十八編を数えるこのシリーズの第二作、 「石燈籠」の冒頭で、綺堂はこんな風に書いています。 「捕物帳というのは与力や同心が岡っ引らの報告を聞いて、更にこれを町奉行所に報告すると、御用部屋に当座帳のようなものがあって、書役(かきやく)が取りあえずこれに書き留めて置くんです。その帳面を捕物帳といっていました」
実際にあった「捕物帳」を、シリーズ全体の名前にしたのは、 岡本綺堂のちょっとした「閃き」だったのでしょう。
しかし、ご本人も、その言葉が独り歩きをするようになり、 今日に至るまで、江戸時代を舞台とした犯罪小説全体の
代名詞となるとは、思いもしなかったのではないでしょうか。半七が暮らしていたのは、神田三河町。 現在の住居表示でいえば、内神田一丁目といいますから、
神田駅から西へ五百メートルほど進んだ、 外堀通りと本郷通りに挟まれたあたりです。 半七が生まれたのは、文政六年(1823年)。
十三歳で父親と死に別れ、それからは道楽の味を覚え、 母親をさんざん泣かせたという半七少年。 家を飛び出して神田の吉五郎という岡っ引きの子分に。
そして十九の年に初手柄を挙げ、一目置かれる存在となります。三、四年後に親分が亡くなり、遺言で二代目を託され、
親分の娘・お仙と所帯をもち、一人前の岡っ引きとなった…と、これが半七親分のプロフィール。幕末の江戸を舞台に様々な怪事件を見事に解決していきます。
シリーズ全体が、明治になって、七十を過ぎた半七老人に、若い新聞記者が昔の手柄話を聞く…という構成になっており、失われゆく江戸の風俗が情緒たっぷりに描かれているのが、このシリーズ最大の魅力。作者・綺堂は英語に堪能で、当時の英文学に親しんでおり、シャーロック・ホームズの愛読者でありました。ホームズ物には、古いロンドンの姿が見事に描かれており、これを江戸に応用してはどうだろうか、というのが、シリーズ執筆のもとになったアイディアだったのです。第一作「お文(ふみ)の魂」の中にも、「彼は江戸時代に於ける隱れたシヤアロツク・ホームズであつた」
…こんな一文があります。
5月7日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日のお話は、「むっつり右門」です。
大正時代の半ば…と申しますから、今からおよそ九十年前。 岡本綺堂が「半七捕物帳」を大ヒットさせますと、
「その手があったか…」と、第二、第三の半七を狙って、 数多くの捕物帳が生まれることになります。 中でも、「半七」に次ぐ人気を得たのが、
佐々木味津三の「右門捕物帳」、「むっつり右門」シリーズです。お聞きいただいております、二村定一の「青空」。
この歌がヒットした昭和三年(1928年)、 「右門捕物帳」シリーズがスタートしています。
きのうご紹介した、岡本綺堂「半七捕物帳」は、 江戸情緒をしっとり描いたのが特徴でしたが、 こちらの「右門捕物帳」は、まるで講談のような、
けれん味たっぷりの語り口が魅力です。
第一作「南蛮幽霊」も、八丁堀の与力同心たちの 花見の余興で、加藤清正の虎退治を演じたところ、 清正が持っていたのがホンモノの槍で、
虎のぬいぐるみを被った男が突き殺されてしまう…という、 センセーショナルな事件が語られます。 右門、初登場の場面をご紹介いたしましょう。「本年とってようやく二十六歳という水の出花(でばな)で、まだ駆けだしの同心でこそあったが、親代々の同心でしたから、微禄(びろく)ながらもその点からいうとちゃきちゃきのお家がらでありました。ほんとうの名は近藤(こんどう)右門、親の跡めを継いで同心の職についたのが去年の八月。なぜかれが近藤右門というりっぱな姓名がありながら、あまり人聞きのよろしくないむっつり右門なぞというそんなあだ名をつけられたかというに、実にかれが世にも珍しい黙り屋であったからでした。まったく珍しいほどの黙り屋で、去年の八月に同心となってこのかた、いまだにただの一口も口をきかないというのです」
とはいえ、この右門のダンナ、 剣の達人であり、柔の名人、おまけに男前。 で、この右門とコンビを組む岡っ引きが「おしゃべり伝六」。
「むっつり」と「おしゃべり」この対照がまた面白い。こうなると、もう、映画にしてください…という感じですよね。
作品が発表された翌・昭和四年には早速スクリーンに登場。 主演・嵐寛寿郎の当たり役となりまして、 戦後、昭和三十年までシリーズが続くことになります。
テレビでも、鬼平でおなじみの中村吉右衛門や、 杉良太郎などが演じていることは、 皆様もよくご存知のところでしょう。
5月8日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日のお話は、「顎十郎捕物帳」です。
三河町の半七、むっつり右門…と、この二日間、 時代劇の人気者たちが登場いたしましたが、 本日の「顎十郎」は、いささか馴染みが薄いかもしれません。
しかし、戦前の捕物帳シリーズの中でも、 この「顎十郎」は、「半七」と並ぶ古典として名高い作品です。東海林太郎「名月赤城山」と同じ年、
昭和十四年(1939年)にスタートした「顎十郎捕物帳」、 作者は、久生十蘭(ひさお・じゅうらん)。 戦前の名高いモダニズム雑誌「新青年」で売り出し、
戦後にかけて数多くのミステリやユーモア小説を残した 売れっ子作家でした。 この「顎十郎捕物帳」も、ユーモアたっぷりで、
いま読んでも抱腹絶倒の面白さが味わえます。
「顎十郎」というのはもちろんあだ名で、本名は「仙波阿古十郎(せんばあこじゅうろう)」。 「眼も鼻も口もみな額際(ひたいぎわ)へはねあがって、そこでいっしょくたにごたごたとかたまり、厖大な顎が夕顔棚の夕顔のように、ぶらんとぶらさがっている。唇の下からほぼ四寸がらみはあろう、顔の面積の半分以上が悠々と顎の分になっている。末すぼまりにでもなっているどころか、下へゆくほどいよいよぽってりとしているというのだから、手がつけられない」
この凄まじくインパクトのある顔の特徴から、 同僚たちが「顎」や「顎十」と呼ぶようになったのですが、 本人の前でそんなことを口にするものはいない。
なぜかといえば、 「同役の一人が阿古十郎の前で、なにげなく自分の顎を掻いたばかりに、抜打ちに斬りかけられ、危(あやう)く命をおとすところだった。またもう一人は、顎に膏薬を貼ったまま阿古十郎の前へ出たので、襟首をとって曳きずり廻されたうえ、大溝(おおどぶ)に叩きこまれて散々な目に逢った。」
もう、メチャクチャなキャラクターでございます。
全部で二十四のエピソードが残されているこの捕物帳。 顎十郎、前半では北町奉行所の与力である叔父の世話になり、
奉行所で調査係の仕事に就きますが、後半では…なんと駕籠屋さんになってしまって、 えっさ、ほいさと駆け回りながら事件を解決する。
顔といい、設定といい、本当に破天荒な捕物帳です。 今週ご紹介した半七、右門、そして顎十郎、 すべて作者の死後五十年を経過しており著作権フリー、
インターネットなどでカンタンに読むことが出来ます。 一度、目を通されてみてはいかがでしょうか?
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